第22話:航平が明かした過去
サッシを閉めようと伸ばしかけた文乃の手が、ふと止まった。
一度は「部屋に戻りましょうか」と言葉を交わし、互いに手すりから身を起こしたはずだった。だが、初夏の夜気が運んできた微かな冷たさの奥で、隣のベランダの気配は、なぜか部屋の中へ消え去ろうとはしていなかった。
衣擦れの小さな音。
そして、手すりの金属を指先でトントンと無意識に叩くような、微かで重たいリズム。
文乃は網戸越しに、仕切り板の向こう側へとそっと意識を向けた。
「……佐伯さん?」
呼ぶ声は、夜の帳に溶け込むほど小さかった。だが、板の向こうの影はピクリと肩を揺らし、部屋へ戻る足を止めたようだった。
「……あ、すみません。入ろうとしたんですが、夜風が名残惜しくて」
手すりの向こうから返ってきた航平の声は、先ほどまでの他愛もない故郷や仕事の話をしていた時とは、ほんの少しだけ違っていた。低く、どこか底の知れない場所に沈み込んでいくような、微かな翳りを帯びている。
文乃はスリッパを脱ぎかける足を戻し、再び手すりへと寄り添った。
「何か……考え事ですか?」
「いえ……大したことじゃ、ないんです」
航平は苦笑交じりに息を吐いた。だが、その息遣いには、胸の奥底に長年澱のように溜まり続けてきた重たい塊を、どうしても吐き出さずにはいられないような切迫感が滲んでいた。
仕切り板の隙間から、航平の右手が手すりの上に置かれているのが見える。そして、その視線が落ちている先――彼自身の、左の手のひら。
街灯の淡い白光に照らされた航平の左手薬指の根元には、細い、けれど確かな痕跡が刻まれていた。
指輪そのものは、もうそこにはない。プラチナの冷たい輝きも、宝石の煌めきもない。
だが、長年にわたって金属の輪が肌を締め付け、太陽の光を遮り続けていた証である、微かに白く抜けた日焼けの跡――皮膚が薄く窪んだようなリングの痕跡が、剥き出しの皮膚の上に、消えない刻印のように残されていた。
航平は親指の腹で、その白く抜けた薬指の付け根を、無意識のうちに何度も、何度もなぞっていた。
「……文乃さん」
「はい」
「僕が……すずを一人で育てている理由、今までちゃんとお話ししたこと、ありませんでしたよね」
静かな夜の空気に、その問いがぽつりと落ちた。
文乃の胸が、トクンと小さく音を立てる。
踏み込んではいけない領域だと思っていた。父親一人、娘一人。そこにどんな過去があり、なぜ母親が不在なのか。都会の賃貸マンションのお隣付き合いにおいて、それはもっともデリケートで、決して興味本位で触れてはならない聖域のはずだった。
けれど、航平は今、自らの手でその頑丈な扉の鍵を開けようとしていた。
「無理に話さなくても大丈夫ですよ、佐伯さん。私……ただのお隣さんですし、佐伯さんが辛くなるようなことなら――」
「聞いて、ほしいんです」
航平の声が、文乃の遠慮を遮るように、静かに、けれど逃げ場のない真摯さを伴って響いた。
「文乃さんにだけは……ちゃんと、話しておきたくて。僕がどんな男で、どんな過ちを犯して、どうしてこの部屋にすずと二人でいるのかを……誤魔化したまま、あなたの温かさに甘え続けるのは、不誠実だと思うから」
航平は手すりに両肘をつき、視線を夜空の月へと向けた。
そして、胸の奥底に押し込めていた過去の記憶を、ひとつずつ手繰り寄せるように語り始めた。
「元妻とは、大学のサークルで知り合いました」
淡々とした、けれど温かな響きを持った滑り出しだった。
「僕と同い年で、昔から誰よりも優秀で、誰よりも高い場所を目指している人でした。建築や都市計画を専攻していて、卒業後は大手ゼネコンの海外開発部門に進んだんです。東南アジアや中東の大規模な都市インフラを手がけるプロジェクトに携わっていて……英語も堪能で、世界中を飛び回って、自分の図面が街になっていくのを語る時の彼女の瞳は、本当に眩しいくらいに輝いていました」
航平は自嘲気味に、ふっと目を細めた。
「僕なんて、小さなWeb制作会社でコードをカタカタ叩いているだけの地味なプログラマーでしたから。夢を追いかけて世界中を駆け巡る彼女の姿が、誇らしくて、眩しくて……心から尊敬していたんです。付き合って五年目に結婚した時も、彼女のキャリアを邪魔するつもりは毛頭ありませんでした。お互いに仕事を尊重し合える、対等なパートナーでいようって約束して」
そこまでは、誰もが羨むような、若く有能な二人の前途洋々たる物語だったはずだ。
だが、運命の歯車は、小さな命の誕生とともに、予測もしなかった方向へと軋みを上げ始めた。
「結婚して三年目に、すずを授かりました」
航平の手が、手すりのスチールをぎゅっと握りしめる。
「望んで、計画してできた子どもでした。僕も彼女も、本当に喜んだんです。……でも、彼女の会社での立場は、ちょうど海外の大規模プロジェクトのリーダーに抜擢されるかどうかの、極めて重要な過渡期でした。彼女は産休と育休を取りましたが……その期間中、彼女の心が少しずつ、目に見えない音を立てて壊れていくのが分かりました」
夜風が、二人の間を冷ややかに吹き抜けていく。
「それまで世界中の最先端の現場で、何百人もの技術者を束ねていた人が……一日中、狭いマンションの一室で、泣き叫ぶ赤ん坊と二人きりになる。授乳とオムツ替えと夜泣きの無限ループ。どれだけ努力しても思い通りにならない赤ん坊を前にして、彼女は次第に、自分が社会から切り離され、取り残されていく底知れぬ恐怖に苛まれるようになっていきました」
航平の唇が、苦痛に歪む。
「僕も……できる限りのことはしたつもりでした。定時で帰れるよう仕事を調整し、夜泣きの対応も交代でやって、週末は家事をすべて引き受けて。でも、当時の僕は会社を立ち上げたばかりで、どうしても抜けられない案件や深夜残業が重なっていた。……彼女の孤独の深さを、本当の意味で理解してあげられていなかったんです」
すずが生後半年を過ぎた頃、元妻は職場復帰を果たした。
だが、現実は残酷だった。子どもの突発的な発熱による早退、出張の制限、残業のできないもどかしさ。かつて第一線でバリバリとプロジェクトを牽引していた彼女に与えられたのは、海外出張のない、後方支援のようなデスクワークだった。
「彼女は、完璧主義者だったんです」
航平の声が、かすかに震える。
「仕事でも完璧でいたかったし、母親としても完璧でいたかった。でも、現実はどちらも中途半端になっていく。同僚たちが海外の現場で華々しい実績を上げていく横で、彼女は夕方五時になると頭を下げて保育園のお迎えに走る……その日々の屈辱と焦燥が、彼女の精神を限界まで削り落としていきました。家の中は常にピリピリとした緊張感で満たされ、すずが少しでもぐずると、彼女は耳を塞いで過呼吸を起こすようになってしまって」
文乃は息を呑み、胸元をぎゅっと押さえた。
想像するだけで、胸が張り裂けそうな光景だった。
どちらかが悪人だったわけではない。不貞があったわけでも、暴力を振るったわけでもない。ただ、己の才能とキャリアに誇りを持っていた一人の女性が、「母親」という逃げ場のない役割の重圧に押し潰され、窒息しかけていたのだ。
「すずが二歳になった年の春でした」
航平の視線が、暗いベランダの床へと落ちた。
「彼女から、離婚届を突きつけられました。『もう、母親でいることが息苦しくて耐えられない』って。……彼女、泣きながら言ったんです。『すずのことは愛している。でも、このままこの家にいたら、私はすずを憎んでしまう。自分の人生を奪った存在として、いつかこの子を虐待してしまうかもしれない。それが怖い。お願いだから、私をこの生活から解放してほしい』って」
「佐伯さん……」
「彼女には、海外の巨大都市開発プロジェクトへの長期赴任の話が舞い込んでいました。一度引き受ければ、数年間は日本に戻れない。……彼女にとって、それは自分の命を取り戻すための、最後のチャンスだったんです」
泥沼の調停も、憎しみ合いの裁判もなかった。
二人は弁護士を交え、公証役場で公正証書を作成した。親権は、航平が引き取ること。元妻は養育費として、毎月定められた適正な金額を航平の口座へと振り込むこと。面会交流は、海外との時差を考慮し、半年に一度のオンライン通話を中心に行うこと。
法的には、すべてが円満で、合意に基づいた離婚だった。
元妻は今、中東の砂漠の街で、大規模なスマートシティの開発プロジェクトのチーフとして、眩しい太陽の下で腕を振るっているという。毎月滞りなく振り込まれる養育費の通知を見るたび、航平は彼女が自分の選んだ道で、生き生きと呼吸を取り戻していることを知るのだ。
けれど――。
「公正証書を作って、離婚届を出し終えた日の夜のことでした」
航平は両手で顔を覆い、喉の奥から絞り出すように呻いた。
「もぬけの殻になった部屋で、二歳のすずが『ママは? ママ、どこ?』って泣き叫ぶのを見ながら……僕は、絶望的な自己嫌悪に叩き落とされました。……僕のせいだ、と思いました」
「佐伯さんのせい……?」
「そうです」
航平は顔を上げ、涙の滲んだ目で文乃を見つめた。
「僕がもっと稼げていれば。僕が仕事をセーブして、家事も育児も全部一人で完璧に背負い込んで、彼女を自由に仕事へ行かせてやれるだけの甲斐性があれば……彼女をそこまで追い詰めることはなかった。すずから母親を奪うこともなかった」
男の喉が、激しく痙攣した。
「すずが野菜を食べられなくなったのも、魚の骨を怖がるようになったのも、全部僕が招いた結果なんです。僕が母親の温もりを奪ってしまったから、僕が焦って、怒鳴って、無理やり食べさせようとして、すずの食卓を地獄にしてしまった。……すずをこんなにも不憫な目に遭わせているのは、他でもない、父親である僕の不甲斐なさのせいなんです」
堰を切ったように溢れ出した、航平の心の奥底の闇。
二年間。
妻が出ていってからの七百日余りの間、この男はずっと、その呪いのような自責の鎖で自分自身を縛り上げ、血を流しながら耐え続けてきたのだ。
自分は母親を奪った罪人だ。
だから、どんなに疲れても弱音を吐いてはならない。
深夜二時に倒れ込もうとも、誰の手も借りてはならない。
他人の善意に甘えることなど、許されるはずがない――。
あのピカピカに磨かれたタッパーも、土曜日の朝の土下座も、火曜日に突きつけられた五万円の封筒も。
そのすべての行動の根底にあったのは、冷たいプライドなどではなかった。
娘に対する途方もない罪悪感と、自分を罰し続けなければ生きていけないという、悲痛なまでの父親の贖罪だったのだ。
「…………っ」
文乃の目から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。
胸が張り裂けそうだった。
この生真面目で不器用な男が、どれほどの孤独の中で、どれほどの痛みを抱えながら、あの小さなすずちゃんの手を握りしめてきたのか。その過酷な日々の重みが、濁流のように文乃の胸へと流れ込んできた。
文乃は、手すりから身を引いた。
そして、躊躇うことなく――二人の間を隔てていた、あの薄い避難仕切り板へと、力強く一歩を踏み出した。
サンダルがベランダのコンクリートを鳴らす。
仕切り板に、自分の身体をぴったりと寄せる。顔は見えない。けれど、板を隔てたわずか数センチの向こう側に、俯いて肩を震わせている航平の気配があった。
文乃は仕切り板に片手を添え、夜の静寂を切り裂くように、はっきりとした、澄んだ声で告げた。
「そんなこと、ありません」
「……え?」
板の向こうで、航平が息を呑む気配がした。
文乃は涙を拭おうともせず、真っ直ぐに板の向こうの男へ向けて、言葉を叩きつけた。
「佐伯さん。そんなこと、絶対にありません! 佐伯さんは……何ひとつ、悪くありません!」
「文乃さん……でも、僕はすずから――」
「奪ってなんか、いません!」
文乃の声は、震えていた。けれど、そこには一片の迷いもなかった。
「佐伯さんは、逃げなかったじゃないですか。元奥様が自分の夢を選んで旅立っていった時……佐伯さんは、すずちゃんの手を絶対に離さなかったじゃないですか!」
「…………っ」
「仕事を抱えながら、慣れない家事をして、YouTubeを見て歪な三つ編みを練習して、深夜まで働いて倒れそうになりながらも、毎朝ちゃんとすずちゃんを保育園に送って……! それのどこが、不甲斐ないんですか!? それのどこが、父親失格なんですか!?」
文乃は仕切り板を叩くようにして、手のひらを押し当てた。
熱い想いが、喉の奥から止めどなく溢れ出してくる。
「すずちゃんを見てください! あの子が今、どれだけ素直で、どれだけ優しくて、どれだけパパのことが大好きな子に育っているか……佐伯さん、あなた自身が一番よく知っているはずです!」
「すずが……」
「カボチャを一口食べて『あまい』って笑ってくれたのも、パパの歪な三つ編みを『世界一すき』って言ってくれたのも、雨の日にパパの服が綺麗になったのを自慢してくれたのも……全部、全部、佐伯さんが注いできた愛情が、あの子の心にちゃんと届いているからじゃないですか!」
文乃の言葉は、まるで夜の闇を切り裂く一条の光のように、航平の凍てついた心の奥底へと突き刺さっていった。
「母親がいなきゃ幸せになれないなんて、そんなの嘘です。誰が何と言おうと……すずちゃんのあの満開の笑顔が、佐伯さんが立派なお父さんである、何よりの証拠です!」
「…………っっっ」
仕切り板の向こうから、激しい息の漏れる音が聞こえた。
航平は手すりに突っ伏すようにして、両手で顔を覆っていた。
誰にも言えなかった。
元妻を責めることもできず、親や友人に弱音を吐くこともできず、「自分が悪かったのだ」と自分を責め続けることでしか、壊れそうな心を保つことができなかった。
その二年間の孤独な暗闇を。
この女性は、真正面から抱きしめ、全肯定してくれたのだ。
お前は間違っていないと。
お前は立派な父親なのだと、涙を流しながら叫んでくれたのだ。
「う……っ、……ぐ……っ」
航平の喉から、押し殺した嗚咽が漏れ出した。
大人の男が、夜のベランダで、肩を激しく震わせて泣いていた。
ポロポロと、手すりの上に零れ落ちる熱い涙。
それは、二年間張り詰め続けていた自責の呪縛が、音を立てて解け去っていく、浄化の涙だった。
文乃は仕切り板に寄り添ったまま、それ以上は何も言わなかった。
ただ、静かに夜風に吹かれながら、板越しに航平の背中を温めるように、じっとそこに立ち続けた。
五月の風が、優しく吹き抜けていく。
夜空の月は、静かに二人の頭上を照らし、地上に寄り添う二つの長い影を、ベランダの床の上に並べて落としていた。
長い、長い沈黙。
やがて、航平の嗚咽が静まり、深く、深く息を吸い込む音が響いた。
航平は涙を拭い、ゆっくりと身体を起こした。
そして、仕切り板のすぐ向こう側――文乃の手のひらがあるあたりへと、静かに語りかけた。
「……文乃さん」
掠れ、けれどこれまでにないほど澄み切った、穏やかな男の声。
「はい」
「……ありがとう、ございます」
その一言には、彼の魂のすべてが込められていた。
「救われました。……本当に、僕の命ごと、救われました」
文乃は仕切り板に背中を預け、空を見上げてふわりと微笑んだ。
目元にはまだ涙の跡が光っていたけれど、その胸の奥には、かつてないほど清らかな、春の陽だまりのような温もりが満ちていた。
壁一枚。
仕切り板一枚の距離。
けれど、二人の心の間を隔てていた最後の氷壁は、初夏の夜の静寂の中で、完全に溶け去っていた。




