第21話:二人きりの夜のベランダ
季節の移ろいというものは、カレンダーの数字をめくるよりも早く、肌を撫でる風の匂いによって告げられる。
冬の朝市で泥付きの人参を買い、悴んだ指先で通園バッグの破れを繕っていたあの日々から、数ヶ月の月日が流れていた。
三月にはあおぞら保育園の卒園・進級式があり、すずは一つ上の年中クラスへと正式に進級した。四月の柔らかな桜吹雪が過ぎ去り、街路樹のハナミズキが白や薄紅色の花を咲かせ終えると、五月の風はいつの間にか、初夏の若葉の青々とした香りをたっぷりと含んで街を吹き抜けるようになっていた。
その季節の巡りの中で、三〇一号室と三〇二号室を繋ぐ『タッパーの往復』は、すっかり二つの部屋にとっての穏やかな日常として定着していた。
週に二、三度、文乃が趣味と息抜きを兼ねて仕込んだ常備菜や夕食のおかずを、耐熱ガラスの四角いタッパーに詰めて隣の玄関先へ届ける。
対する佐伯航平もまた、決して無神経に甘えることなく、あの金曜日の嵐の夜に交わした『等価交換の約束』を愚直なまでに守り続けていた。
文乃の部屋の天井のシーリングライトの蛍光管が切れた時には、新品のLED電球を買ってきて脚立も使わずにサッと付け替えてくれた。通信速度が落ちて困っていた文乃のWi-Fiルーターの設定を見直し、セキュアで高速な通信環境へと再構築してくれた。通販で届いた重たい木製のスチールラックを、文乃が怪我をしないようにと、ドライバー片手にわずか二十分で寸分の狂いもなく組み上げてくれた。
施しでもなく、無償の奉仕でもない。
互いの得意な手札を持ち寄り、互いの苦手な穴を埋め合う、健全で風通しのいいお隣同士の協力関係。
すずの偏食も、目に見えて改善を続けていた。文乃の料理を通じて「野菜は甘くて美味しいもの」「出汁の旨味は安心できる味」という舌の記憶を刻んだすずは、今では保育園の給食もほとんど残さず平らげるようになり、連絡帳に書かれる担任の柏木先生からのコメントも、日増しに明るく微笑ましいものへと変わっていた。
すべてが順調で、穏やかで、満ち足りた日々。
けれど、その安定した日常の底で、大人二人の間の距離感は、決して「ただの親切なお隣さん」という枠組みのままでは収まりきらない、微かな熱を静かに孕み始めていた。
――五月半ば、木曜日の夜十時半。
一日の家事と明日の出勤準備をすべて終えた文乃は、ゆっくりとバスタブに浸かった後、火照った身体を薄手のルームウェアに包んでリビングへと戻ってきた。
着ているのは、洗いざらしの柔らかな生成りの半袖カットソーに、薄手のコットンイージーパンツ。首筋にはまだ、シトラス系の入浴剤の爽やかな香りと、微かな湯上がりの湿り気が残っている。
部屋の明かりを間接照明だけに落とし、冷えた麦茶を一杯喉に流し込んだが、初夏の夜気は室内に少しだけ籠もり、肌の上にじわりと心地よい熱を滞留させていた。
「……少し、風に当たろうかな」
文乃はリビングの大きなガラスサッシに手をかけ、静かにスライドさせた。
ガララ……。
網戸の隙間から、ひんやりとした五月の夜風がすっと部屋の中へと滑り込んでくる。
昼間の汗ばむような陽気とは打って変わり、夜の冷気は驚くほど澄んでいて、濡れた前髪の端を優しく撫で上げてくれた。文乃は裸足のままベランダのサンダルに爪先を滑り込ませ、手すりの前へと歩み出た。
マンションの敷地を囲むケヤキの葉が、サラサラと波のような音を立てて揺れている。
見上げる夜空には、薄い雲の切れ間から、銀色に研ぎ澄まされた上弦の月が静かに光を放っていた。
ふう、と深く息を吐き出し、手すりに両肘を預けて夜風を胸いっぱいに吸い込んだ、その時だった。
――スッ……。
すぐ隣のベランダから、サッシが静かに引かれる微かな音がした。
文乃がハッとして息を呑んだ瞬間、隣の三〇二号室のベランダに、すっと人影が現れた。
佐伯航平だった。
濃紺のラフな半袖Tシャツに、穿き古したスウェットのハーフパンツ。
入浴を済ませた後なのだろう、いつも整えられている黒髪は無造作に乾かされ、額にさらりと落ちていた。メガネは外されており、裸眼の切れ長な瞳が、夜の街の明かりをぼんやりと映し出している。
航平は手すりに片手を置き、深い溜息とともに首を左右にゆっくりと回していた。
二人の間を隔てているのは、マンションのベランダによくある、火災時の非常用脱出用ケイカル板――蹴破れば壊れる程度の、厚さ数ミリの薄い仕切り板が一枚だけ。
板のすぐ横、手すりの端に立つ二人の物理的な距離は、わずか一メートルも離れていなかった。
「…………」
声をかけるべきか、それとも気付かれないように静かに部屋の中へと戻るべきか。
文乃が一瞬の躊躇に足を止めかけた、まさにその刹那。
航平がふと、手すりに置かれた文乃の影に気付いたのか、ピクリと肩を揺らしてこちらを向いた。
仕切り板の隙間、手すりの外側のわずかな空間越しに、二人の視線がふわりと交錯する。
「あ……」
航平の喉から、間の抜けたような小さな声が漏れた。
メガネを外した彼の瞳が、夜の闇の中でまばたきを繰り返し、それから慌てて姿勢を正そうと背筋を伸ばす。
「せ、瀬戸さん……?」
低く、少し掠れた、けれど耳に心地よい航平の声。
文乃は逃げ出すタイミングを完全に失い、けれど胸の奥でトクンと小さく跳ねた心臓を宥めながら、柔らかく目を細めて会釈した。
「佐伯さん、こんばんは。……こんな時間に、奇遇ですね」
「こんばんは……すみません、驚かせてしまって」
航平は照れくさそうに右手で首筋を撫で、それから自分が手に持っていたものを掲げてみせた。
赤いパッケージの、缶コーヒーだった。
「すずをやっと寝かしつけて……仕事のキリもついたので、少し頭を冷やそうと外に出たんです。瀬戸さんも、お風呂上がりですか?」
「はい。部屋の中が少しだけ蒸し暑くて、風が気持ちよさそうだったので」
「ああ、分かります。今日、昼間は初夏みたいに日差しが強かったですもんね」
航平はプシュッ、と小気味よい音を立てて缶コーヒーのプルタブを開けた。
静かな夜の空気に、香ばしい珈琲豆の苦い香りがふわりと広がる。
二人は、仕切り板を挟んで並ぶようにして、再び手すりへと向き直った。
お互いの姿は、手すりから少し身を乗り出さなければ直接は見えない。
けれど、仕切り板越しに、すぐそこに相手が立っているという空気の揺らぎと、微かな衣服の擦れる音、そして夜風に乗って届くシャンプーの香りが、驚くほど生々しく伝わってくる。
顔を真正面から見つめ合わないこの絶妙な配置が、日中の明るい光の下ではどこか気恥ずかしくて口にできなかった言葉を、不思議なほど滑らかに解きほぐしてくれるようだった。
「すずちゃん、もうぐっすりですか?」
文乃が手すりに顎を乗せるようにして尋ねると、板の向こうから、航平の柔らかな笑い声が返ってきた。
「ええ、もう爆睡です。今日は園で泥遊びをしたみたいで、体力を全部使い果たしたらしくて。お風呂から上がって絵本を一冊読んだら、途中でトトロを抱っこしたまま、スースー寝息を立て始めました」
「ふふ、可愛い。すずちゃん、最近本当によく食べるし、よく遊ぶようになりましたね」
「瀬戸さんのおかげですよ、本当に」
航平が缶コーヒーを一口すすり、喉仏を上下させる。
「昨日の夕方にいただいた、新玉ねぎと豚肉の南蛮漬け……すず、玉ねぎを一本も残さずに食べたんです。『お汁がすっぱ甘くて美味しい!』って言って、タレをご飯にかけて食べてたくらいで。半年前の僕が見たら、腰を抜かしてますよ」
「新玉ねぎは辛味が少なくて水分が多いですからね。さっと揚げ焼きにして出汁の効いた南蛮酢に漬けると、子どもの舌でもすんなり受け入れられるんです。すずちゃん、酸味にも慣れてきてくれたみたいで、私すごく嬉しいです」
「料理の工夫って、本当にすごいですね……。僕、システム開発の設計書なら何万行でも書けるんですけど、料理のロジックだけは、瀬戸さんの足元にも及びません」
「ふふ、私からしたら、パソコンのコードをサラサラ書けちゃう佐伯さんの方が、よっぽど魔法使いに見えますよ」
クスリと笑い合う声が、夜風に溶けていく。
街の灯りはポツポツと消え始め、遠くの幹線道路を走る大型トラックの排気音が、重低音となって地鳴りのように響いている。
航平が缶コーヒーの冷たいスチールを両手で転がしながら、ふと尋ねてきた。
「瀬戸さんは、いつも何時くらいに寝るんですか?」
「私ですか? 平日は大体、十二時前ですね。お風呂から上がって、ストレッチをして、明日の段取りを確認して、文庫本を少し読んだらベッドに入る感じです」
「規則正しいですね。……やっぱり、休日の前日も同じですか?」
「あ、金曜日の夜は別です」
文乃は少しだけ照れくさそうに、手すりの上で指を組んだ。
「休日の前日は……夜更かしして、夜中にキッチンで常備菜をコトコト煮るのが、私の最大の趣味なんです」
「夜中に、煮物を?」
「はい。静まり返った部屋で、誰からの連絡も気にせずに、弱火で煮汁が煮詰まる音だけを聞いている時間が、何よりもリフレッシュになるんです。お鍋から立ち上るお出汁の匂いを嗅ぎながら、明日のお休みは何をしようかなって考えるのが、一週間の中で一番贅沢な時間で」
「…………」
仕切り板の向こうで、航平が小さく息を呑む気配がした。
文乃が「変ですかね、夜中に煮物ばっかり作ってる女の人って」と苦笑交じりに問いかけると、航平は慌てたように、けれど芯のある優しい声で首を横に振った。
「変だなんて、とんでもないです。……すごく、瀬戸さんらしいなって思いました」
「私らしい、ですか?」
「ええ。瀬戸さんの作るお料理の温かさって、そういう……丁寧な時間と、心穏やかな愛情から生まれてるんだなって、すごく納得しました。僕なんか、料理っていうと『いかに短時間で腹を満たすか』とか『栄養価の数値をどうクリアするか』っていうタスク処理みたいに考えちゃって、余裕がなくて……」
航平の自嘲混じりの呟きに、文乃は首を振った。
「佐伯さんは、一人でお仕事も家事もすずちゃんの面倒も抱えてるんですから、余裕がなくて当たり前ですよ。私なんて、自分のことだけやってればいい気楽な一人暮らしですから」
「一人暮らしだって、仕事をしながら毎日自炊を続けるのは、並大抵のことじゃないですよ。……本当に、尊敬してます」
飾らない、けれど真っ直ぐな航平の言葉。
夜風が少しだけ強く吹き抜け、文乃の半袖から覗く二の腕をひやりと撫でた。
けれど、文乃の身体の内側には、缶コーヒーの微熱のように、じんわりとした温もりが広がっていく。
「佐伯さんのお仕事は……最近、忙しいですか?」
文乃が問いかけると、航平は夜空を見上げながら、ふうと白い息に近い溜息を吐き出した。
「忙しいですね……相変わらず。神谷と一緒に立ち上げた会社なんですが、最近ようやく大手のクライアントから大きな開発案件を任されるようになってきて。やりがいも大きいんですけど、その分、仕様変更の嵐で納期がギリギリで……。ちょっとした設計ミスが命取りになるので、日中は常に神経が張り詰めてます」
「そうなんですね……。でも、佐伯さん、すごく生き生きしてお仕事されてるように見えます」
「本当ですか? だとしたら、完全に空元気ですよ。……でも、すずのために稼がなきゃいけないし、神谷を裏切るわけにもいかないですからね。男親一人で育ててるからって、仕事を言い訳にして娘に不自由な思いだけは絶対にさせたくないんです」
航平の言葉には、父親としての、そして一人の社会人としての、揺るぎない覚悟が宿っていた。
かつて深夜二時に廊下で崩れ落ちていたあの夜の脆さと、この逞しい責任感。
その両方を抱え込みながら、必死で前へ進もうとしているこの男の背中が、文乃にはどうしようもなく愛おしく感じられた。
「文乃さんの会社は、どうですか?」
ふいに、航平の口から滑り落ちたその呼び名に、文乃の心臓がトクンと音を立てて跳ねた。
――あ。
航平自身も、自分の失言に気づいたのだろう。仕切り板の向こうで、ハッと息を呑む気配がした。
「あ……すみません! 瀬戸さん、って言おうとして……すずがいつも『あやのちゃん』って呼んでいるものだから、つられて口が滑ってしまって……! 失礼しました!」
慌てて謝罪を口にする航平の狼狽えぶりに、文乃の胸の奥がくすぐったいほどの愛おしさで満たされていく。
「ふふ、いいですよ。文乃で。……会社でも、先輩たちからそう呼ばれてますし」
「え……でも、失礼じゃ……」
「失礼じゃありませんよ。……私の会社は、中堅の食品メーカーなんですけど、営業事務なので、営業の人たちが外から持ち込んでくる無茶な注文の尻拭いばかりです。『明日までにこの納期の伝票切れ』とか『在庫がないのに受注しちゃったから何とかして』とか……。毎日パソコンと睨み合いながら、営業担当のお尻を叩いてます」
「はは、想像がつきますね。瀬戸さん……文乃さん、すごくしっかりされてるから、職場でも頼りにされてるんだろうなぁ」
少しだけぎこちなく、けれど嬉しそうに『文乃さん』と呼び直してくれた航平の声音に、文乃の耳たぶがカッと熱を持つ。
夜の闇が二人の表情を隠してくれているのが、これほどありがたいと思ったことはなかった。
会話は、途切れることなく、ゆったりとした川の流れのように続いていった。
「文乃さんのご実家は、どちらなんですか? いつも送られてくるお野菜、本当に立派ですよね」
「山梨の、甲府盆地の外れの方なんです。果樹園と兼業の小さな農家で。桃とか葡萄も作ってるんですけど、畑では祖母が一年中いろんな野菜を無農薬で育てていて」
「山梨ですか。空気が綺麗で、いいところですね」
「ええ。子どもの頃は、遊ぶ場所が何にもなくて退屈だと思ってたんですけどね。東京に出てきて一人暮らしを始めてから、実家の採れたての野菜の美味しさとか、祖母が漬けてくれた味噌や梅干しのありがたみが、骨身に染みるようになりました」
「おばあさまの手仕事が、文乃さんの料理の原点なんですね」
「そうなんです。祖母がいつも言ってたんです。『野菜を食べる時は、無理に飲み込ませるんじゃなくて、お出汁の甘みで優しく包んであげるんだよ』って。……佐伯さんのご実家は、どちらなんですか?」
「僕は……山形です。日本海側の、雪の多い町で」
航平は遠くの夜空を見つめながら、懐かしそうに目を細めた。
「冬になると、屋根まで雪に埋もれるような豪雪地帯で。父親が職人気質で無口な大工で、子どもの頃は怖くてあんまり話せなかったんですけどね。自分が親になってみて、一人で子どもを育てることの重みを知ってから……父親の背中の大きさが、ようやく分かってきた気がします」
「山形……寒そうですね。でも、お米もお水もすごく美味しそう」
「ええ。新米の季節になると、米だけで茶碗三杯はいけますよ。……今度、秋になったら実家からつや姫が届くので、文乃さんにもお裾分けしますね」
「わあ、本当ですか!? 絶対ですよ、約束ですからね!」
「はい、約束です」
何気ない故郷の話。
幼い頃の記憶や、家族の思い出。
普段の生活の中では、決して他人に自分から語るようなことのない、心の奥底に大切にしまってある柔らかな記憶の欠片たちが、ぽつり、ぽつりと夜風に乗って解き放たれていく。
仕切り板一枚。
姿は見えないけれど、すぐそこに相手がいる。
呼吸の音も、缶コーヒーを傾ける金属の音も、笑った時に喉の奥が微かに鳴る音も、すべてがすぐ耳元で聞こえる。
顔を合わせないからこそ、繕わない本音をさらけ出すことができる――それは、どんな豪奢なレストランで向かい合って食事をするよりも、ずっと深く、濃密に心が触れ合っているような、不思議な親密さに満ちた空間だった。
ふと、会話が途切れ、穏やかな沈黙がベランダを包み込んだ。
気まずい沈黙ではない。
お互いの存在の温もりを、静かに噛み締めるような、心地よい静寂。
五月の風が、文乃のルームウェアの裾をふわりと揺らし、航平の黒髪を柔らかく乱していく。
遠くで、夜行列車が鉄橋を渡るような、ガタゴトという微かな響きが夜の底に吸い込まれていった。
やがて、航平が空になった缶コーヒーを手すりの上に置き、小さく息を吸い込んだ。
「……文乃さん」
「はい?」
低く、どこか掠れた、けれど酷く真っ直ぐな男の声。
航平は手すりに体重を預けたまま、仕切り板の方へとほんの少しだけ顔を傾けた。
「僕……文乃さんと話していると」
「……ええ」
「不思議と……呼吸が、深くなる気がします」
「…………っ」
文乃の胸の奥で、カッと激しい火花が散った。
息が、止まりそうになった。
航平の言葉には、計算された口説き文句のような濁りは微塵もなかった。
ただ、日々の重圧に押し潰されそうになりながら、息を止めるようにして必死で生き抜いてきた男が、心からの安堵を噛み締めるように零した、あまりにも無防備で、純粋すぎる本音。
「毎日……仕事でも、家でも、すずの前でも、ずっとどこかで気を張っていて。誰にも弱音を吐けないし、倒れるわけにはいかないから、いつも胸の真ん中がキュッと縮こまっていたんです」
航平は手すりを握る自分の大きな手を見つめながら、静かに続けた。
「でも……文乃さんのご飯を食べたり、こうしてベランダで他愛もない話をしたりしていると……凝り固まっていた身体の力が、すっと抜けていくのが分かるんです。……本当に、ありがたいです」
「佐伯、さん……」
文乃の喉が、熱く詰まった。
ドクン、ドクンと。
胸の奥で早鐘を打つ心臓の音が、静かな夜の闇の中で、自分でも驚くほど大きく響いていた。
呼吸が深くなる。
それは、自分自身も全く同じだった。
一人暮らしの静かな部屋で、自分のためだけに料理を作っていた日々も、確かに気楽で心地よかった。
けれど、あの親子と出会い、タッパーを渡し、こうして夜の風の中で声を交わすようになってから――文乃の心の中にあった、自分でも気づいていなかった小さな孤独の隙間が、じんわりと温かな温度で満たされていたのだ。
仕切り板の向こう側に感じる、航平の確かな体温の気配。
姿は見えないのに、まるで彼の大きな手が、自分の冷えた指先をそっと包み込んでくれているかのような、強烈な錯覚。
文乃は手すりをぎゅっと握りしめ、火照る頬を夜風に晒しながら、夜空の上弦の月を見上げた。
「……私の方こそ」
文乃の声は、微かに震えていた。
「私の方こそ……佐伯さんとお話しできて、すごく……嬉しいです」
それ以上は、言葉にならなかった。
これ以上何かを口にすれば、胸の奥で溢れそうになっている熱い感情が、形を持って零れ落ちてしまいそうだったから。
「……そろそろ、十一時ですね」
航平が腕時計のバックライトを光らせ、名残惜しそうに告げた。
「身体、冷えてきちゃいますね。……部屋に、戻りましょうか」
「はい……そうですね」
二人は同時に手すりから身体を起こした。
空になった缶コーヒーのアルミが、微かに擦れる音。
「文乃さん、おやすみなさい。……明日もお仕事、お互いに頑張りましょうね」
「はい。おやすみなさい、佐伯さん。……すずちゃんにも、よろしくね」
「ええ、伝えておきます」
ガララ……と、二つのサッシが、ほぼ同時に静かに閉まった。
パチン、とクレセント錠が掛かる金属音。
リビングに戻った文乃は、サッシのカーテンを閉めるのも忘れ、ガラス窓にそっと額を押し当てた。
窓ガラス越しに見える、隣のベランダの手すり。
さっきまで、すぐそこに彼がいた。
彼が吐き出した呼吸の温もりと、缶コーヒーの苦い香り。
そして、『呼吸が深くなる』と言ってくれた、あの低く澄んだ声の残響が、部屋中の空気に満ちていた。
文乃は自分の両手で、カッと熱く火照った両頬をぎゅっと包み込んだ。
「……もう」
小さく漏れた呟きは、初夏の夜の静けさの中へと甘く溶けていった。
ただの、お隣さん。
等価交換のご近所付き合い。
そう自分に言い聞かせてきたはずの心の防壁が、風通しのいい夜のベランダで、音もなく、けれど決定的に揺らぎ始めていた。




