第20話:保育士・柏木の驚き
午前八時十五分。認可保育園『あおぞら保育園』の玄関ホールは、一日のうちで最も慌ただしく、もっとも熱を帯びた登園ラッシュのピークを迎えていた。
自動ドアが開閉を繰り返すたびに、外の冷たい冬風とともに、仕事へ急ぐ保護者たちの足音と、まだ眠気やぐずりを引きずった子どもたちの甲高い声が雪崩れ込んでくる。コートを脱がせ、体温計の数値を報告し、連絡帳を提出ボックスに入れ、下駄箱に靴を収める――わずか数分の間にこなさなければならない一連の儀式を前に、ホール全体が焦燥感と喧騒に包まれていた。
年中クラス『にじ組』の担任を務める保育士・柏木創は、エプロンのポケットに両手を入れ、玄関ホールの正面で腰を落として子どもたちを笑顔で出迎えていた。
「おはよう、蓮くん! 今日も元気に走ってきたね。ママ、いってらっしゃい!」
「おはよう、美咲ちゃん。あ、髪の毛に可愛いリボンつけてるね」
今年で三十歳になる柏木は、この道八年目のベテラン男性保育士だ。百七十五センチほどの穏やかな体躯に、人懐っこい笑顔。柔らかな声と確かな観察眼を持ち、子どもたちからはもちろん、何かと肩身の狭い思いをしがちな父親層や、仕事と育児の狭間で切迫する母親たちからも絶大な信頼を寄せられていた。
一人ひとりの子どもの表情、足取り、衣服の乱れ、そして保護者の顔色。
柏木は挨拶を交わすほんの数秒の間に、家庭環境の微妙な変化や子どもたちの抱える小さなSOSを掬い取ることを、保育士としての信条としていた。
そして、その柏木がここ半年間、誰よりも心を砕き、深く案じ続けてきた家庭が――佐伯航平と、その娘のすずだった。
自動ドアがスーッと左右に開く。
入ってきた二人の姿を視界に捉えた瞬間、柏木の瞳が微かに見開かれた。
「…………あれ?」
柏木の喉から、思わず小さな呟きがこぼれた。
いつもなら、この時間帯の佐伯親子は、まるで戦場から辛うじて脱出してきた敗残兵のような空気をまとっていた。
航平は目の下に濃い隈を張り付かせ、ボロボロのスーツの裾を乱し、すずの小さな手を今にも引きちぎらんばかりの力で握りしめながら、滑り込むように園へ飛び込んでくる。そしてすずはといえば、父親のズボンの裾にしがみつき、朝食を巡る激しいバトルの名残で真っ赤に目を腫らし、怯えたように俯いて廊下を踏みしめるのが常だった。
だが、今朝の二人は、まるで違っていた。
「柏木せんせぇぇぇぇいっっ!!」
ホールの喧騒を切り裂いて響いたのは、鈴を転がすような、どこまでも澄んだ少女の歓声だった。
すずが、父親の手から自らパッと手を離し、下駄箱の前の人工芝の上をトタトタと小気味よく駆け抜けてきたのだ。キャメル色のダッフルコートの裾を翻し、白いポンポンのついたニット帽を揺らしながら、一直線に柏木めがけて突進してくる。
その後ろから歩いてくる航平も、息こそ少し上がっているものの、その表情にいつもの痛々しい切迫感はなかった。ネクタイは綺麗に整えられ、背筋はすっと伸び、娘の背中を愛おしそうに見守る眼差しには、穏やかな光が宿っていた。
「おっと、すずちゃん! おはよう! 朝からすっごく元気だね!」
柏木が両手を広げて受け止めると、すずは柏木の膝の上にぽすんと飛び込んできた。
そして、靴を脱ぐのももどかしいといった様子で、肩に掛けていた黄色いキルティングの通園バッグを両手でグッと前へと突き出した。
「柏木せんせい、みて!! すずのお鞄、みて!!」
「ん? お鞄……?」
「クマさん! あやのちゃんが、クマさんつけてくれたの!!」
すずは満面の笑顔で、胸を反らせて誇らしげに叫んだ。
柏木は「どれどれ?」と微笑みながら、すずが差し出してきた黄色いバッグを両手で受け取った。
そして、持ち手の付け根を一瞥した瞬間――柏木のプロとしての視線が、スッと細められた。
「……これは……」
柏木は指の腹で、持ち手の根元に触れた。
分厚いキルティング生地と、アクリルテープの持ち手。本来なら、一度ここから布地ごと引き裂かれてしまえば、家庭用の針と糸で手縫いしたところで、数日と持たずに再び千切れてしまうような致命的な破損箇所だ。
だが、このバッグの裏側には、カチッと硬い手触りがあった。厚手の接着芯がアイロンでしっかりと圧着され、破断した繊維が強固に固められている。
さらに、縫い目を確かめる。通常の細い糸ではない。カバン用の極太のポリエステル糸を使い、正方形の輪郭ステッチの内側に、寸分の狂いもなく二重のX字ステッチが走っている。太番手のミシン針を使い、生地の厚みに負けずに垂直に打ち込まれた、恐ろしいほどに頑丈な補強縫製。
そして、その痛々しいはずの傷跡を完全に覆い隠すようにして、柔らかなミルクティー色のフェルトで作られた小さな子グマのアップリケが、一針一針、丁寧なジグザグステッチで縫い止められていた。
既製品のアイロンワッペンを貼り付けただけの手抜きではない。
フェルトをハサミで切り抜き、手縫いの刺繍糸で目と鼻と口をあしらい、命を吹き込んだ完全な手作りのアップリケ。
「……すごいな。ただ直しただけじゃない。子どもが傷口を見て悲しまないように、こんなに可愛いクマさんで隠してある……」
柏木の胸に、深い感嘆が広がった。
これは、単に「手先が器用な人」の仕事ではない。
通園バッグというものが、幼い子どもにとってどれほど大切な存在であるかを深く理解し、この子が園で笑顔で過ごせるようにと願いを込めて針を通した、圧倒的な愛情と敬意が込められた手仕事だった。
「先生、すみません……!」
そこへ、下駄箱に自分の革靴を揃えた航平が、申し訳なさそうに小走りで駆け寄ってきた。
いつものように、恐縮しきりの表情で深く頭を下げる。
「朝の忙しい時間に、娘が騒がしくしてしまって……」
「いえいえ、とんでもないです! 佐伯さん、おはようございます。……すずちゃん、このバッグ、すごく自慢したかったみたいですよ」
柏木が立ち上がり、バッグを航平の手元へ返しながら笑いかけると、航平は照れくさそうに首の後ろを掻いた。
「すみません……実は今朝、家を出る直前に玄関のドアノブに持ち手を引っ掛けてしまって、根元からブチッと千切れてしまったんです。『このバッグじゃなきゃ行かない』ってすずが大泣きしてしまって、僕の手じゃ針も通せなくて、完全に途方に暮れてしまって……」
「ああ、なるほど……それで、このクマさんが?」
「はい。お隣の部屋の……瀬戸さんという女性の方が、出勤前でお忙しいはずなのに、『すぐ直せますから!』って部屋に上げてくださって。ミシンとアイロンを出して、わずか十五分足らずで、こんなに頑丈に、可愛く直してくださったんです。本当に……何から何まで助けていただいてばかりで、父親として情けないやら、申し訳ないやらで……」
航平は苦笑いを浮かべ、恐縮するように肩をすぼめた。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、柏木の脳内で、ここ数週間の間に蓄積されていた幾つもの「謎」のピースが、音を立ててひとつに噛み合わさった。
――お隣の、瀬戸さん。
――そして、すずちゃんが口にした『あやのちゃん』。
「……ああ、そういうことだったんですね」
柏木の口から、深い納得のため息がこぼれた。
担任保育士として、柏木は佐伯親子の過酷な日常を、誰よりも間近で見守ってきた。
半年前、航平が元妻と離婚し、たった一人ですずを引き取った時のこと。
航平は「自分が引き取ると決めたのだから、一人で完璧に育てなければならない」と、自分自身に過度な重圧を課していた。激務の合間を縫っての送り迎え、夜間の緊急シッターの手配、そして何より――すずの過酷な偏食。
すずは元々、味覚と触覚が非常に敏感な子どもだった。
野菜の青臭さや、繊維を噛んだ時のキシキシとした食感、肉のパサつきに対して極端な恐怖心を抱いており、給食の時間になると、スプーンを持つことすら拒否して涙を流していた。
連絡帳に書かれる航平の文字は、日を追うごとに痛々しさを増していった。
『昨晩もコンビニのハンバーグを一口食べただけで、野菜はすべて吐き出してしまいました』
『お願いだから食べてくれと怒鳴ってしまい、二人で泣きました。父親失格です』
『今朝はゼリー飲料しか喉を通っていません。園での水分補給をお願いします』
几帳面な青いインクで書かれたその文字の隙間から、孤立無援の中で溺れかけている若い父親の悲鳴が、柏木の胸を締め付け続けていたのだ。
ところが――。
ここ一、二週間の連絡帳は、まるで別の世界から届いたかのように、劇的な変化を遂げていた。
『先週土曜日、お隣からいただいたカボチャのそぼろ煮を、生まれて初めて完食しました』
『木曜日の夜、すりおろし野菜のチキンカレーをおかわりまでして平らげました』
『昨夜、鮭の西京焼きと大根葉のふりかけを、お茶碗一杯綺麗に完食できました。骨への恐怖心も克服できたようです』
最初は、見間違いかと思った。
あんなに頑なに野菜と魚を拒絶し、一口でも口に入れば嘔吐くようにして泣き叫んでいたすずが、カボチャを食べ、カレーをおかわりし、魚の切り身をご飯と一緒に平らげただなんて。
そして、その変化は、保育園の給食の時間にも、驚くべき奇跡となって現れていたのだ。
先週の金曜日、給食に『豚肉と大根の味噌煮』が出た時のことだった。
普段なら、大根の薄切りを一目見ただけで「黒いお出汁の味、やだ」と茶碗を押し返していたすずが、おずおずとスプーンを伸ばし、大根を一口かじったのだ。
そして、大きな瞳を丸くして、こう言った。
『……あやのちゃんのお汁と、おんなじにおいする!』
周りの保育士たちが息を呑む中、すずは大根をペロリと飲み込み、続けて人参まで口に運んだ。
『あやのちゃんがね、コトコト煮ると甘くなるよって言ってた! あやのちゃんのお野菜と一緒だから、すず、たべられる!』
あの日、すずは入園以来初めて、給食の煮物をお代わりしたのだ。
空っぽになった食器を前に、誇らしげに胸を張るすずの姿を見て、給食室の調理員たちまでが涙ぐんでいたほどだった。
園での連絡帳に時折登場していた、そしてすずが誇らしげに口にしていた『あやのちゃん』という名前。
それは、親戚でも、新しく雇ったベビーシッターでもなく――隣室に住む、心優しい独身女性の手によるものだったのだ。
「佐伯さん」
柏木は航平の目を見つめ、穏やかで、けれど力強い声で語りかけた。
「謝ることなんて、何ひとつありませんよ」
「え……?」
航平が顔を上げる。
柏木は屈み込み、すずのダッフルコートのボタンを留め直してあげながら、言葉を続けた。
「すずちゃん、最近……園の給食も、毎日お代わりするようになったんですよ」
「えっ……給食を、ですか!?」
航平の瞳が、信じられないものを見るように見開かれた。
「はい。先週なんて、あんなに嫌がっていた大根と人参の煮物を、大きなお口で自分から食べて、『あやのちゃんのお野菜と一緒だから、すっごく美味しい!』って、お友達や調理員さんに自慢していたくらいなんです」
「すずが……園の給食を……」
航平の喉が、言葉を失って小さく痙攣した。
家で文乃の料理を食べるようになっただけでも奇跡だと思っていた。けれど、文乃の料理を通じて「野菜は美味しいもの」「出汁の効いた煮物は甘いもの」という確かな成功体験を得たすずは、保育園の給食という別の環境に置かれても、自分の力で偏食の壁を乗り越え始めていたのだ。
「すずちゃん、あやのちゃんのことが本当に大好きなんですね」
柏木が優しく微笑みかけると、すずは黄色いバッグを抱きしめながら、力いっぱい頷いた。
「うん! あやのちゃん、お料理の魔法つかいだもん! すずのお鞄も、クマちゃん呼んでくれたの!」
「ふふ、本当に魔法使いみたいだね。……佐伯さん」
柏木は立ち上がり、航平とまっすぐに目線を合わせた。
そして、保育士として、そして同じ社会を生きる一人の大人の男として、ずっと航平に伝えたかった言葉を、静かに紡ぎ出した。
「一人で、全部抱え込まなくていいんですよ」
「…………っ」
航平の肩が、ビクッと微かに震えた。
「佐伯さんが、本当に真面目で、責任感がお強くて、すずちゃんのために身を削るようにして頑張ってこられたこと……僕たち保育士は、ずっと見て知っていました。でもね、子育てっていうのは、親一人だけで完結させるものじゃないんです」
柏木の声は、朝の冷たい空気を溶かすように温かかった。
「お隣の瀬戸さんがどんな方なのか、僕には詳しいことは分かりません。でも、このバッグの縫い目を見て、そしてすずちゃんのこの笑顔を見れば、その方がどれほど温かいお気持ちで、お二人に接してくださっているかが痛いほど伝わってきます」
柏木は航平の逞しく、けれど強張っていた肩に、そっと大きな手のひらを置いた。
「他人に頼ることは、甘えでも、父親としての敗北でもありません。すずちゃんの周りに、そうやって愛情を持って手を差し伸べてくれる温かい大人が増えること……それはね、すずちゃんの人生にとって、何物にも代えがたい素晴らしい財産なんですよ」
「財産……」
「そうです。だから、どうか『申し訳ない』なんて自分を責めないでください。『ありがとう』って笑って手を取り合える人が隣にいてくれることを、誇りに思ってください。……佐伯さんが倒れずに笑っていてくれることが、すずちゃんにとって一番の幸せなんですから」
「…………っっっ」
航平の喉仏が、激しく上下した。
眼鏡の奥の瞳に、じわりと熱い涙が滲み出そうになるのを、彼は必死で奥歯を噛み締めて押し留めていた。
誰にも頼ってはいけない。
他人の善意に甘えてはならない。
娘を言い訳にして、独身女性の時間や労力を搾取してはならない――。
そうやって自分自身を厳しく縛り付け、張り詰めたワイヤーの上を歩き続けてきた航平の頑なな心に、柏木の言葉は、まるで春の雨のように優しく染み渡っていった。
頼ってもいいのだ。
瀬戸さんのあの温かな手を、ただ罪悪感で跳ね除けるのではなく、感謝と敬意を持って受け止め、自分のできることでお返しをしながら、共に歩んでいけばいいのだ。
金曜日の夜に文乃と交わした『等価交換』の約束が、保育士という専門家の視点からも、完全に肯定された瞬間だった。
「……はい。……ありがとうございます、柏木先生」
航平は深く、深く頭を下げた。
その声は掠れていたが、先ほどまでの怯えや卑屈さは跡形もなく消え去り、そこには父親としての誇りと、確かな安堵が宿っていた。
「さあ、すずちゃん! お部屋に行こうか。みんなに可愛いクマさん見せてあげよう!」
柏木が手を差し出すと、すずは「うん!」と元気に返事をした。
そして、黄色いバッグを抱きしめたまま、航平の前に立ち、ピシッと敬礼してみせた。
「パパ、お仕事いってらっしゃい! すず、給食ぜんぶ食べるよ!」
「ああ……いってきます、すず。いっぱい遊んでおいで」
航平はしゃがみ込み、すずの小さな身体を力いっぱい抱きしめ、それから満面の笑顔で送り出した。
タタタタッと、すずが保育室へと駆けていく。
黄色いキルティングバッグの横で、文乃が縫い付けてくれたミルクティー色のクマのワッペンが、ホールの明かりを浴びて、誇らしげに揺れていた。
自動ドアをくぐり、園の外へと出た航平は、冷え切った冬の朝の空気を、肺いっぱいに深く吸い込んだ。
見上げる空は、吸い込まれそうなほど青く、どこまでも高く澄み渡っていた。
腕時計を見れば、午前八時二十五分。
予定していた通勤快速の電車に、余裕で間に合う時間だった。
肩の奥にずっと沈んでいた、鉛のような重みが、嘘のように消え去っていた。
足取りが、驚くほど軽い。
駅へと向かう雑踏の中を歩きながら、航平の脳裏に浮かんでいたのは、今朝、出勤前の貴重な時間を割いて、一心不乱にミシンを踏んでくれた文乃の真剣な横顔だった。
――あやのさん。
すずが呼んでいたその名前を、航平は心の中で、そっと大切に転がしてみた。
あの人の温かい手が、すずの心を救い、そして自分自身の張り詰めていた命を、確かに救い出してくれたのだ。
「……頑張ろう」
航平はコートの襟を正し、力強く歩幅を広げた。
今日という一日を、胸を張って生き抜くために。
そして、夕暮れが訪れたら、あの温かな灯りが待つマンションの三階へと、胸を張って帰るために。




