第19話:すずの保育園バッグの破れ
月曜日の朝という時間帯は、一秒の猶予すら許されない精密機械の歯車に似ている。
午前七時四十五分。瀬戸文乃は、洗面台の鏡の前で最後の身だしなみチェックを終えたところだった。
柔らかなラベンダー色のブラウスに、アイロンの利いたチャコールグレーのテーパードパンツ。耳元には控えめなパールのピアスをあしらい、髪は後ろでハーフアップに品よくまとめている。キッチンカウンターの上には、昨夜のうちに仕込んでおいた常備菜を詰めた秋田杉の曲げわっぱのお弁当箱と、保温ボトルに入った熱いほうじ茶。それらを通勤用の本革トートバッグへと滑り込ませ、玄関へ向かってヒールを履こうとした、まさにその瞬間だった。
――ピン、ポーン……。
静かな部屋の空気を震わせたのは、どこか遠慮がちに、けれど指先が震えているかのように途切れ途切れに鳴らされたインターホンの電子音だった。
文乃はパンプスに滑り込ませかけた爪先を止め、怪訝そうに眉を寄せた。
「こんな時間に……宅配便?」
通販の荷物を午前中指定で頼んだ覚えはない。新聞の勧誘や宗教の訪問にしては時間が早すぎる。
忍び足で玄関ドアへと歩み寄り、そっと真鍮のドアスコープに片目を寄せる。
魚眼レンズの丸く歪んだ視界の向こう、内廊下の蛍光灯の下に立っていた人物を捉えた瞬間、文乃の喉から息が止まりかけた。
「佐伯、さん……?」
そこにいたのは、スーツの上着すら羽織れず、ワイシャツにネクタイを締めただけの姿で立ち尽くす佐伯航平だった。
だが、その様子は尋常ではなかった。普段の冷静で知的な面影は完全に消失し、髪は乱れ、顔色はまるで氷水に浸かったかのように真っ青に染まり、今にも泣き出しそうなほど絶望的に眉を八の字に下げている。
そしてその腕の中には、顔を真っ赤に鬱血させ、両目から大粒の涙をポロポロとこぼしながら、火がついたように激しく泣き叫んでいるすずの姿があった。
文乃は躊躇することなく、ドアガードを跳ね上げ、鍵を二重に回してドアを一気に開け放った。
「佐伯さん! どうしたんですか!?」
開いた扉の隙間から、すずの引き裂かれるような金切声が廊下へと溢れ出す。
「うわああぁぁぁんっっ!! やだぁぁぁ! これじゃなきゃやだぁぁぁっっ!!」
「瀬戸、さん……っ!!」
文乃の姿を認めた瞬間、航平は膝から崩れ落ちそうになりながら、すずを抱きしめたまま直角に近い角度で頭を下げた。
「朝早くから……っ、本当に、本当に申し訳ありません……!! こんな時間に押しかけて、ご迷惑極まりないのは百も承知なんですが……もう、僕の手には負えなくて……っ!」
航平の声は、極度の焦燥とパニックで完全に上ずっていた。額には冷や汗がびっしりと滲み、抱きかかえる腕がガタガタと小刻みに震えている。
「落ち着いてください、佐伯さん。すずちゃん、怪我でもしたんですか!?」
「怪我じゃないんです……! これ……これが……っ!」
航平が震える手で差し出したのは、すずがいつも保育園へ持っていっている、黄色いキルティング生地で仕立てられた小さな通園バッグだった。
表面には手芸用のフェルトでアップリケが縫い付けられ、すずの名前がひらがなで刺繍されている、見るからに愛用されてきたバッグ。
だが、その右側の持ち手の付け根が――無残にも、ブチリと音を立てて完全に引き裂かれていた。
キルティングの中綿が毛羽立って外へと飛び出し、カバン本体の布地ごと、十円玉ほどの大きさで無惨に抉り取られるように破断している。
「これ……千切れちゃったんですね」
「はい……っ、今朝、家を出る直前に、すずが玄関のドアノブにバッグの持ち手を引っ掛けてしまって……。急いで行こうと無理に引っ張った瞬間に、経年劣化もあって一気にブチッと……」
航平は絶望に顔を歪めながら、喉を詰まらせた。
「代わりの手提げ袋を持たせようとしたんですが、『この黄色いバッグじゃないと絶対に保育園に行かない』って泣き叫んでしまって……。コンビニで買ったトラベル用のソーイングセットの針と糸で縫い付けようとしたんですが、キルティングの布が厚すぎて針が途中でポキッと折れて、僕の手じゃどうにもならなくて……っ!」
「やだぁぁぁっ! クマちゃんのお鞄がいいのぉぉぉっ! これじゃないと、あおぞら園いかないぃぃぃっ!」
すずは航平の胸元に顔を埋め、全身をバタつかせて激しく拒絶していた。
幼い子どもにとって、お気に入りの持ち物は単なる道具ではない。自分の安心領域そのものであり、母親のいない寂しさや園での不安を埋めてくれる、絶対的なお守りなのだ。大人から見れば「代わりの袋で行けばいい」という話であっても、四歳の子どもにとっては世界が崩壊するほどの危機に等しい。
航平の腕時計は、すでに七時四十八分を指していた。
あおぞら保育園の朝の登園リミットと、航平が会社へ向かうための電車の時間が、刻一刻と迫っている。このまま立ち往生すれば、登園も出社も完全に破綻する。
男手一つ、裁縫道具もミシンも持たない若い父親が、愛娘の頑なな癇癪を前にして、完全に袋小路へと追い詰められていた。
文乃はすずの涙に濡れた頬と、千切れた黄色いバッグを一瞥した。
そして、一切の迷いを捨て去り、玄関のドアを大きく開け放った。
「すぐ直せます! 佐伯さん、すずちゃん、早く上がってください!」
「え……っ? で、でも、瀬戸さんも出勤前で――」
「いいから! 私の会社は九時始業です、まだ時間に余裕があります! ぐずぐずしてたら佐伯さんが遅刻しちゃいます、早く!」
文乃の凛とした強い声に背中を押され、航平は「し、失礼します……!」と靴を脱ぎ捨て、すずを抱いたままリビングへと上がり込んだ。
文乃は二人をソファへと促すと、コートを脱ぎ捨て、腕まくりをして奥の和室の押し入れへと疾走した。
「待っててね、すずちゃん。お姉ちゃんが今すぐ元通りにしてあげるからね」
押し入れの上段から両手で抱え出してきたのは、プラスチックの頑丈なハードケースだった。
蓋のロックを外すと、中から現れたのは、文乃が学生時代から手入れを欠かさず愛用し続けている、重厚な金属製のアームを持つ本格的な電子ミシンだった。
実家の兼業農家で、祖母から野菜の育て方や出汁の引き方と同じように叩き込まれたのが、衣類の手入れとリメイクの技術だった。破れた作業着を繕い、古い布から雑巾や小物を仕立てるのが日常だった文乃にとって、針と糸は包丁と同じくらい身体の一部だった。
カチャリ、と電源コードをコンセントに差し込み、フットコントローラーを床にセットする。
パチンと主電源を入れると、針元を照らす小さなLEDライトがピカッと白く点灯した。
「佐伯さん、バッグをこちらへ!」
「は、はい!」
航平から手渡された黄色いバッグを、文乃は作業台の上に広げ、瞬時に損傷個所をプロの眼光でスキャンした。
「……なるほど。持ち手のアクリルテープそのものよりも、本体のキルティング生地が負荷に耐えきれずに裂けちゃってるんだわ。ただ縫い直すだけじゃ、また同じ場所から裂けちゃう」
引き裂かれた傷口は、布地の織り糸がほつれ、ボロボロになっていた。
通常の細い手縫い糸で縫い合わせたところで、子どもの力任せな引っ張りに耐えられるはずがない。
文乃は引き出しから、裁縫道具の詰まった木箱を取り出した。
中から迷うことなく選び出したのは、通常のミシン糸(六十番)ではなく、帆布やジーンズの縫製に使われる極太の『三十番・カバン用太番手ポリエステル糸』の生成り色。
さらに、手芸用の端切れストックの中から、アイロンの熱で布の裏側に強力に密着する『超厚手・不織布接着芯』のシートを小さく切り取った。
「すずちゃん、ちょっとだけ待っててね。アイロンの熱いのが通るから、近寄っちゃダメだよ」
「……う、うん」
すずはソファの上で航平の膝に抱きついたまま、涙をいっぱいに溜めた瞳で、文乃の神速の手つきを瞬きもせずに見つめていた。
ジュゥゥゥッ……!
スチームアイロンの熱い蒸気が、千切れた傷口の裏側に当てられる。
接着芯が溶け、ほつれたキルティングの繊維を裏側から強固に一枚の板のように固め直す。これで、布地にかかる引張応力に耐えうる土台が完成した。
続いて、引き裂かれた持ち手のアクリルテープを、元の位置へと正確に重ね合わせる。
「よし……いくよ」
文乃はミシンの押さえレバーを下げ、フットコントローラーに右足の爪先を乗せた。
トタタタタタタタッッッ――!
小気味よい、精密機械の連続打撃音がリビングに響き渡った。
太い十四番のミシン針が、分厚いキルティングと接着芯、そしてアクリルテープの重なりを、狂いなく垂直に貫いていく。
文乃の両手は、職人のように滑らかだった。
ただ直線に縫うのではない。持ち手の付け根に正方形のステッチをかけ、さらにその内側に、対角線を結ぶ『バッテン(X字)』の補強ステッチを二重に走らせる。登山用リュックや軍用の装備品に施される、もっとも引き裂き強度に優れた縫製パターンだ。
トタタタッ、カシャン。返し縫いレバーを押し込み、三往復の返し縫いを施す。
糸切りバサミで余分な糸をパチンと根元から切り落とした。
所要時間、わずか七分。
持ち手は、大人の男が全力で引っ張ってもビクともしないほどの強度を取り戻していた。
だが――。
文乃はそこで手を止めなかった。
「……これじゃ、ダメね」
文乃は眉をひそめ、縫い合わされた箇所をじっと見つめた。
強度こそ完璧に戻ったものの、一度大きく引き裂かれた布地の傷跡は、幾重にも走った太い縫い目のせいで、痛々しい手術痕のように黒ずんで見えていた。
大人の道具ならこれで十分かもしれない。けれど、すずちゃんにとって、このバッグは宝物なのだ。お気に入りの黄色いカバンに、こんな無骨で痛々しい傷跡が残っていたら、見るたびに悲しい気持ちになってしまうかもしれない。
「あと五分……いける!」
文乃は木箱の奥から、色とりどりのフェルト生地の端切れ入れを引っ張り出した。
その中から選び出したのは、柔らかなミルクティー色のフェルトと、濃い焦げ茶色のフェルト。
型紙も当てず、文乃の裁ちバサミが電光石火の勢いでフェルトの上を滑っていく。
チョキ、チョキ、チョキ。
丸い耳がふたつ。ふっくらとした輪郭の輪っか。
わずか三十秒で切り抜かれたのは、愛らしい小さな『子グマの顔』のパーツだった。
焦げ茶色の小さな丸い鼻と、笑っているような細い口元を、手縫い針の黒い刺繍糸でキュッキュッと二針、三針。瞬く間に、命が吹き込まれたような柔らかな表情のクマが誕生する。
文乃はそのフェルトのクマを、先ほど補強ステッチを施した持ち手の付け根――あの痛々しい傷跡の真上へと、ぴったりと重ね合わせた。
傷口が、完全にクマの顔の下へと隠れる。
ミシンの押さえを素早く交換し、ジグザグ縫いのダイヤルを回す。
カタカタカタカタッ!
フェルトの縁をなぞるように、細やかなステッチがクマの輪郭を包み込んでいく。
まるで、最初からそこにデザインされていたかのような、既製品以上の温もりを湛えたワンポイントのアップリケ。
「……できたっ!」
文乃は最後の糸をパチンと切り落とし、バッグを両手でパンパンと叩いて埃を払った。
時計の針が、八時零分を指した瞬間だった。
二人が部屋に飛び込んできてから、わずか十五分。
文乃は額の汗を手の甲でぬぐい、満面の笑みを浮かべて、ソファの前へと膝をついた。
「お待たせ、すずちゃん。……治ったよ!」
文乃の両手から、差し出された黄色い通園バッグ。
引き裂かれていた持ち手は、寸分の狂いもなく元の位置に頑丈に縫い止められ、その根元には、にっこりと微笑む小さなミルクティー色のクマのワッペンが、誇らしげにちょこんと座っていた。
「…………っ!」
すずの動きが、完全に止まった。
涙で濡れていた大きな瞳が、これ以上ないほどカッと見開かれる。
しゃくりあげていた喉の痙攣がピタリと止まり、すずはおずおずと小さな両手を伸ばして、そのバッグを抱きしめた。
そして、持ち手の根元にあるフェルトのクマを、小さな指先でそっと撫でた。
「……クマさん?」
「うん。すずちゃんのお鞄が痛いの痛いの飛んでいけーって、クマさんがお留守番に来てくれたの。もう引っ張っても、絶対にちぎれないよ」
文乃が優しく語りかけると、すずの顔に、まるで朝露に濡れた花びらが一気に開くかのような、眩い光が満ち溢れた。
「クマさん……! クマさんついてる……!!」
すずはソファから飛び降りると、バッグを高く掲げて、リビング中をピョンピョンと跳ね回った。
「パパ! みて! クマさんついてるよ! 前よりかわいい! すずのお鞄、前よりずーっと可愛くなったよ!!」
泣き叫んでいたのが嘘のように、鈴を転がすような歓声が部屋いっぱいに響き渡る。
その奇跡のような光景を前にして、航平は――。
「…………っ」
航平はソファから立ち上がり、自分の腕時計を見つめた。
午前八時二分。
あおぞら保育園までは、大人の足で徒歩十分。今すぐ出れば、通常の登園時間である八時十五分に、何一つ遅れることなく到着できる。
そして自分も、予定通りの電車に乗り、九時の始業前のオフィスへ涼しい顔で滑り込むことができる。
絶望の淵から、わずか十五分で手繰り寄せられた、完璧な救済。
「あ……ああ……」
航平の喉から、震える呼気が漏れた。
全身の力が抜け落ちたように、航平はその場にガクリと膝をついた。
そして、床に額が擦り切れるのではないかというほどの勢いで、文乃に向かって深々と、深々と頭を下げた。
「瀬戸さん……っ、本当に……本当に、ありがとうございました……!!」
掠れた、けれど魂の底から絞り出された男の叫び。
「僕じゃ……僕の手じゃ、すずを泣かせることしかできなくて……。針一本通せなくて、途方に暮れて……。それを、瀬戸さんはこんな……こんな短時間で、こんなに綺麗に、可愛く直してくださって……っ!」
頭を下げたまま、航平の背中が激しく波打っていた。
父親としての無力さに苛まれ、絶望の淵にいた彼の手を、この女性はまたしても、当たり前のような顔をして引き上げてくれたのだ。
「佐伯さん、頭を上げてください!」
文乃は立ち上がり、慌てて航平の肩に手を添えた。
「お礼なんて後でいいですから! ほら、八時五分になっちゃいます。すずちゃんを園に送っていかないと!」
「あ……っ、はい! 行きます、すぐ行きます!」
航平は弾かれたように立ち上がり、すずの手をぎゅっと握りしめた。
すずは黄色いバッグをしっかりと肩に掛け、もう片方の手で文乃のスカートの裾をちょこんと引いた。
「あやのちゃん、ありがとう! すず、保育園行ってくるね!」
「うん、いってらっしゃい、すずちゃん! クマさんと一緒に、たくさん遊んでおいでね!」
「はーい!」
すずは満面の笑顔で玄関へと走り、靴を履いた。
航平は最後に、もう一度だけ文乃の目を見つめた。
その瞳には、言葉では到底言い尽くせないほどの深い感謝と、そして、この女性に対する底知れぬ敬意が、熱い光となって満ちていた。
「瀬戸さん……行ってきます。本当に、ありがとうございました!」
「はい、お気をつけて!」
バタバタと、二人の弾むような足音が三階の廊下を駆け抜けていく。
エレベーターの扉が閉まる音が遠くに響き、やがてマンションに、いつもの穏やかな朝の静寂が戻ってきた。
文乃は大きく息を吐き出し、リビングの作業台の前に戻った。
まだ微かに熱を帯びているアイロンの電源を落とし、ミシンのコードを巻き取る。
机の上には、フェルトを切り抜いた時に出た、小さな糸くずが散らばっていた。
「……ふふ」
文乃の口元から、自然と柔らかな笑みがこぼれ落ちる。
時計を見れば、八時十分。
自分の支度を整え、家を出るのにも、ちょうどいい時間だった。
自分の手元にある技術が、またひとつ、あの小さな家族の朝の危機を救うことができた。
誰かの役に立てたという確かな手応えと、すずちゃんのあの満開の笑顔の残像が、これから始まる月曜日の労働に向かう文乃の背中を、どこまでも力強く、温かく押し出してくれていた。




