第18話:航平のお返し・高所作業と換気扇掃除
日曜日の午後二時。障子を通したような柔らかい冬の光が、瀬戸文乃の部屋のリビングを穏やかに満たしていた。
普段の休日であれば、文乃はお気に入りのマグカップに淹れたての珈琲を注ぎ、文庫本を片手にローテーブルの前でゆったりとした読書の時間に浸っている頃合いだ。あるいは、平日のための常備菜をもう一品、鼻歌交じりに仕込んでいるか。
けれど今、文乃はキッチンの流し台の前に立ち、小さく腕を組んで、頭上にそびえ立つステンレス製の巨大な塊――レンジフードの換気扇を見上げていた。
「……やっぱり、どう見ても限界よね」
ぽつりとこぼれ落ちた溜息が、清潔なシンクに虚しく反響する。
築八年、分譲賃貸のマンションであるメゾン・ド・フルールは、単身者向けとしては設備が充実しており、キッチンも二口のガスコンロに広めの調理スペースが確保されている。だが、その頭上に設置された深型のブーツ型レンジフードは、文乃にとって長年の「触れられない聖域」となっていた。
文乃の身長は百五十四センチ。小柄な体格の彼女が爪先立ちになっても、フードの手前の縁に指先がようやく届く程度だ。
自炊をほぼ毎日欠かさず、揚げ物や炒め物、出汁を煮詰める作業を繰り返す文乃のキッチンにおいて、換気扇の吸い込み口は、目に見えない油煙を浴び続けている。外側のステンレスパネルこそ、日頃からアルカリ電解水のスプレーを吹きかけてピカピカに拭き上げているものの、金属フィルターの奥――カタカタと回転翼が回るシロッコファンの深部には、茶色く重合して粘りついた頑固な油汚れが、地層のように蓄積しているはずだった。
一度、折りたたみ式の踏み台に乗ってフィルターを外そうと試みたことがあった。
だが、グラつく踏み台の上で両腕を限界まで頭上に突き上げ、固着したフィルターのツマミを回そうとした瞬間、バランスを崩して危うくコンロの上に転落しかけたのだ。それ以来、恐怖心も手伝って、奥の分解清掃からは完全に目を背けていた。
――そこへ、あの約束だった。
『電球の交換でも、家具の組み立てでも……僕にできることなら、夜中でもいつでも呼んでください。どんな力仕事でも、全身全霊でやらせていただきます!』
金曜日の嵐の夜、泥水に腕を突っ込んで排水溝を救い出してくれた佐伯航平が、絆創膏の貼られた大きな手で力強く文乃の手を握り返し、宣言してくれた「等価交換」の誓い。
そして今朝、すずちゃんが保育園のお友達の誕生会に招かれて、近所のママ友の家へ夕方まで遊びに行っていると聞いた文乃が、恐る恐る「あの、もしご都合がよろしければ……換気扇のフィルターを外すのを手伝っていただけないでしょうか」とメッセージを送ったところ、即座に『喜んで伺います! 道具一式を持参します!』と、前のめりすぎる返信が返ってきたのだった。
ピン、ポーン――。
控えめだが、どこか待ちきれないといった勢いを感じさせるインターホンの電子音が鳴り響いた。
文乃はハッとしてエプロンの裾を整え、小走りで玄関へと向かった。
ドアスコープを覗くまでもない。カチャリと鍵を開けてドアを引くと、そこには約束の午後二時きっかりに、三〇二号室の住人が立っていた。
「瀬戸さん、こんにちは! お待たせしました!」
「佐伯さん、こんにちは。どうぞ、上がってください」
出迎えた文乃は、航平の姿を一目見た瞬間、思わず目を丸くして息を呑んだ。
そこに立っていたのは、平日の疲れ果てたスーツ姿でも、金曜日のずぶ濡れのワイシャツ姿でも、ましてや土曜日の朝のボロボロのスウェット姿でもなかった。
黒のシンプルな長袖カットソーに、色落ちの少ないストレートの濃紺デニム。
無駄な装飾の一切ないその装いは、航平の百八十センチ近い長身と、無駄な肉の削ぎ落とされた細身だが逞しい骨格を、驚くほど鮮やかに際立たせていた。肩幅は広く、胸板には薄く硬質な筋肉の厚みがあり、長い脚がすらりと伸びている。
跳ねていた黒髪は清潔感のあるワックスで自然に整えられ、涼しげな目元には、エンジニアらしい理知的な落ち着きが戻っていた。
そして何より、彼の両手には、本格的すぎる装備が抱えられていた。
右腕には、金曜日の夜にも登場したあの重厚なスチール製の青い工具箱。
左手には、緑色の養生テープが貼られた特大のマスカーフィルム(養生シート)のロール、業務用の油汚れ用強力アルカリ洗剤のボトル、そして先端の形状が異なる何本ものワイヤーブラシやヘラが詰め込まれたプラスチックのバケツが握られていた。
「あ、あの……佐伯さん、その大荷物は……?」
「換気扇の分解清掃と伺いましたので、必要になりそうな道具を一通り揃えてきました」
航平は悪戯っぽく口角を上げ、白い歯を覗かせた。
「我が家の換気扇も引っ越してきた時に一度バラして洗浄したんですが、賃貸の備え付けシロッコファンは、専用の道具がないと油の固着を剥がすのが大変なんです。瀬戸さんの手を煩わせるわけにはいきませんから、僕に全部任せてください」
「す、すごい……本格的な業者さんみたいです」
「元ガソリンスタンド店員の意地にかけて、新品同様にしてみせますよ。……お邪魔します」
航平は玄関でスニーカーを脱ぎ、揃えて端に置くと、長い足で室内へと足を踏み入れた。
文乃の部屋に入った航平は、部屋のインテリアや生活感をジロジロと見回すような無遠慮な真似は一切しなかった。視線をまっすぐにキッチンスペースだけに固定し、余計な私物には指一本触れまいとする、徹底した紳士的な配慮。その生真面目さが、文乃の胸をくすぐるように温める。
「では、まず周囲を養生しますね。油混じりの洗剤が飛ぶと、壁紙やコンロが痛みますから」
航平は手際よくバケツを床に置き、緑色の養生テープを引き出した。
カッターを使わず、指先の爪でスパッとテープを切り裂き、コンロの天板、調理台の人工大理石、そしてキッチンの壁面へと、見事な手つきで透明なビニールシートを貼り巡らせていく。シートが空気を含んで膨らまないよう、手のひらでピシッとシワを伸ばす動作には、迷いが一片もなかった。
わずか三分で、文乃のキッチンの一角は、完璧な作業ブースへと変貌を遂げていた。
「よし、これで下準備は完了です。……瀬戸さん、ちょっと頭上失礼しますね」
「は、はい」
文乃が一歩後ろに下がると、航平がレンジフードの正面へと進み出た。
文乃が踏み台に乗っても必死に手を伸ばさなければ届かなかったレンジフードの底面。
だが、航平は踏み台など一瞥すらせず、すっと長い背筋を伸ばし、両腕を自然に持ち上げた。それだけで、彼の大きな手のひらは、フードの奥の金属フィルターの取っ手へと、いとも容易く届いてしまったのだ。
「うわ……高っ……」
思わず文乃の口から、素直すぎる感嘆が漏れた。
航平の頭頂部が、レンジフードの傘のすぐ下にある。見上げるアングルになるため、航平の広い背中と、引き締まった腰のラインが、文乃の視界を圧倒的な質量で覆い尽くしていた。
「フィルターの留め具、油で少し固着してますね。……よし、外れた」
カチャリ、と小気味よい金属音が響き、一枚目、二枚目の金属フィルターが外された。
現れたのは、黒ずんだオイルパンと、その奥に潜む円筒形のシロッコファンだ。
「ここからが本番ですね」
航平は一旦手を下ろすと、着ていた黒の長袖カットソーの袖口に指をかけた。
キュッ、キュッと、布地を手繰り寄せるようにして、両腕の袖を肘の上――二の腕の付け根近くまで、無造作にまくり上げる。
「…………っ」
文乃の喉が、音を立てずに小さく跳ねた。
露わになった航平の前腕。
白いワイシャツの袖に隠されていたその腕は、文乃が想像していた「インドアなプログラマー」のそれとは、まるで違っていた。
細身ではあるが、皮膚の下には無駄のない筋肉の筋が何本も走り、手首から肘にかけて美しい曲線を描いている。重い工具箱を軽々と持ち上げるたびに、太い血管が浮き上がり、男らしい骨太な手首が力強く軋む。
金曜日の夜に泥だらけになっていたあの腕。
今、間近で見るその剥き出しの腕の生々しい逞しさに、文乃の胸の奥底が、トクン、と熱い拍動を刻み始めた。
――普段はあんなに物腰が柔らかくて、すずちゃんの前では優しいパパなのに。
――やっぱり、大人の男の人なんだ。
そんな当たり前の事実が、狭いキッチンの空気の中で、強烈なリアリティを伴って文乃の意識を支配していく。
「中央の固定ナットを外します。……逆ネジになってるから、時計回りに回して……よし、緩んだ」
航平は工具箱から取り出したモンキーレンチを巧みに操り、ファンの中心部にある真鍮のナットをあっさりと緩めてみせた。
両手でファンの両端をしっかりと掴み、慎重に手前へと引き抜く。
ゴトン、と重みのある音を立てて外れたのは、何十枚もの金属羽根が円筒状に並んだシロッコファンだった。羽根の隙間には、茶色い水飴のように硬化した油汚れがびっしりとこびりついている。
「うわぁ……汚い……! ごめんなさい佐伯さん、こんなに汚れてて……!」
文乃が恥ずかしさのあまり顔を覆うと、航平はファンをバケツの中に置きながら、快活に笑って首を横に振った。
「謝ることなんて何もないですよ! これ、毎日しっかり美味しい料理を作っている証拠じゃないですか。むしろ、油がしっかり換気扇に吸い込まれて部屋に油煙が回っていなかったってことですから、換気扇としては本望ですよ」
「佐伯さん……」
「さて、ここからが僕の腕の見せ所です」
航平の瞳に、エンジニア特有の――あるいは、職人特有の火が灯った。
バケツの中に、業務用の強アルカリ洗剤を惜しみなく注ぎ込む。さらに、給湯器の設定温度を六十度まで一気に引き上げ、熱湯をバケツの縁までなみなみと注ぎ入れた。
シュワワワッ――!
洗剤と熱湯が反応し、細かな泡がファンの羽根の隙間へと浸透していく。強烈な熱気とともに、硬化していた油が白く乳化し、ドロドロと浮き上がってきた。
「五分ほどつけ置きして油を浮かせます。その間に、フードの内側の油をこそぎ落としましょう」
航平はプラスチックのヘラとアルカリ電解水のスプレーを手に取り、再びフードの奥へと腕を伸ばした。
シュッ、シュッと洗剤を吹きかけ、ヘラのエッジを使って、フードの天井や側面にこびりついた油の膜を削ぎ落としていく。
シャッ、シャッ、と小気味よい音が響く。
航平の長身が、キッチンの狭い空間の中でリズミカルに動く。腕を伸ばすたびに、黒いカットソーの背中がピンと張り、肩甲骨の起伏が布地越しに浮き彫りになる。
真剣な横顔。
モニターを見つめる時と同じなのだろう、少しだけ細められた瞳は鋭く、集中力の極致にあった。額にはうっすらと汗が滲み、跳ねた黒髪の隙間から覗く伏せられたまつ毛が、驚くほど長い。
文乃は、キッチンの背後にある食器棚の前に立ち尽くしたまま、動けなくなっていた。
お茶を淹れようとして、湯呑みを出したはずだった。
それなのに、急須に茶葉を入れたまま、お湯を注ぐ手は止まり、視線はどうしても航平の背中と、逞しい前腕、そして汗の光る横顔へと吸い寄せられてしまう。
力強く、迷いのない所作。
他人の家の頑固な汚れを、嫌な顔ひとつせず、むしろ楽しそうに、誇らしげに落としていくその誠実さ。
――かっこいいな。
ふいに、心の中にぽつりと浮かび上がったその言葉に、文乃自身が息を呑んだ。
隣人の限界パパ。
救ってあげたい、助けてあげたいと思っていた、不器用なシングルファザー。
そんな枠組みの向こう側にいる、「佐伯航平」という一人の大人の男の魅力が、強烈な熱量を持って文乃の胸の真ん中を貫いていた。
心臓が、トクトクと速い鐘を乱打し始める。耳たぶが熱い。
見惚れていた。完全に、我を忘れて見惚れてしまっていた。
その時だった。
「よし、内側の大まかな汚れは落ちたな。……次はファンのブラッシングを――」
作業の一段落を終えた航平が、息を吐き出しながら、ふと背後へと振り返った。
そして――。
お茶の急須を持ったまま、呆然と自分を見つめていた文乃の視線と、至近距離で真正面からぶつかり合った。
「…………っ」
「…………っ」
二人の視線が、空中でピタリと絡み合い、静止した。
キッチンの狭い空間。二人の距離は、わずか一メートルも離れていなかった。
航平の息遣いが聞こえるほどの距離。
航平は文乃の潤んだ瞳と、微かに赤らんだ頬をじっと見つめ、それから自分の格好を見下ろして、眉をピクリと動かした。
「……瀬戸さん?」
低く、少し掠れた声が、文乃の鼓膜を震わせる。
「あの……何か、気になることでもありましたか? 僕のやり方、何かまずかったでしょうか……?」
航平は自分の捲り上げた袖や、洗剤の飛沫がついた手を気にしながら、怪訝そうに首を傾げた。
その純粋すぎる問いかけに、文乃の思考が激しくパニックを起こした。
何かしら言い訳をしなければ。
手際がいいですね、とか、道具がすごいですね、とか、無難な褒め言葉はいくらでもあったはずだ。
なのに――。
見惚れていたという事実の衝撃と、心臓の激しい高鳴りに脳の言語中枢が完全に麻痺していた文乃の唇からは、あろうことか、心の中の呟きがそのまま音になって滑り落ちてしまった。
「い、いえ……! 手際が良くて……見惚れてしまって……っ」
「………………え?」
時間が、完全に止まった。
換気扇の止まった静かなキッチンに、文乃の声の残響だけが、あまりにも鮮明に木霊した。
――み、みほれて……!?
自分の口から飛び出した言葉の意味を理解した瞬間、文乃の全身の血液が、頭頂部めがけて沸騰するように駆け上がった。
「っっっっっっっっっ…………!!!!」
文乃は持っていた急須をあわや落としそうになりながら調理台に叩きつけ、両手で自分の口元を力いっぱいに覆った。
顔面から火が出るどころの騒ぎではない。
首筋から耳の先、デコルテの皮膚まで、全身が一瞬にして茹で上がった蛸のように真っ赤に染め上げられていく。
何を言っているのか、自分は。
見惚れていただなんて、そんな告白めいた破廉恥な言葉を、白昼堂々、隣の男性の真正面で口走るなんて、正気の沙汰ではない。
「ち、違っ……! 違います! 今のは言葉のあやで、そうじゃなくて、プロの業者さんみたいに作業が素早くて感心したという意味でして、決して佐伯さんのお顔や腕に見惚れていたとかそういうやましい意味では断じてなく――っ!!」
弁解すればするほど墓穴を掘り、顔を覆った指の隙間から涙目になって激しく首を横に振る文乃。
そんな文乃の猛烈な取り乱しぶりを前にして、航平は――。
「…………っ」
航平の動きもまた、完全に凍結していた。
見惚れて、という言葉の直撃を受けた航平の端正な顔立ちが、みるみるうちに朱色へと変色していく。
耳の先どころか、首筋の太い血管の周りまでカッと熱い赤みが広がり、彼は持っていたヘラを落としそうになりながら、慌てて視線を天井の隅へと逸らした。
「あ……、いや……その……」
航平は空いた左手で、自分の口元を覆った。
そして、ゴホン、とわざとらしいほど大きな咳払いをひとつ落とした。
「……み、見惚れるだなんて、そんな……滅相もないです。僕なんか、ただの泥臭い作業をしてるだけで……」
掠れた、けれど酷く動揺した航平の声。
普段の冷静沈着な姿はどこへやら、彼もまた耳まで真っ赤にして、居心地が悪そうに長い指先をモゾモゾと動かしていた。
大人の男女が二人きり、狭いキッチンで顔を真っ赤にして立ち尽くす。
沈黙が、甘く、息苦しいほどの密度を持って二人の間に立ち込める。
耐えかねたように、航平は再び小さく咳払いをし、バケツの中のファンへと視線を落としながら、照れ隠しのように早口で語り始めた。
「……僕、昔」
「は、はい……」
「学生時代、ガソリンスタンドで四年間、ずっとアルバイトをしてたんです」
「ガソリンスタンド、ですか……?」
文乃がおずおずと手を口元から下ろすと、航平はファンを浸したお湯の泡を見つめながら、ぽつりぽつりと昔話を紡ぎ出した。
「はい。学費と生活費を稼ぐために、夜勤も含めてずっとスタンドに入り浸っていて。給油だけじゃなくて、ピットでのオイル交換や、トラックの足回りのグリスアップ、エンジンルームの分解清掃なんかも全部仕込まれたんです。機械油って、一度服や手につくとなかなか落ちないんですが、専用の溶剤を使って、頑固な油汚れを根こそぎ落とす工程が……昔から、不思議と好きだったんです」
航平はワイヤーブラシを手に取り、洗剤に浸かっていたシロッコファンを引き上げた。
柔らかくなった油の塊にブラシを当て、シャッ、シャッと擦る。
驚くべきことに、ブラシが通った箇所の金属は、新築時のような眩いシルバーの輝きを取り戻していた。
「真っ黒に汚れて、動かなくなっていた機械が、自分の手で洗って磨くことで、本来の綺麗な姿に戻って、また滑らかに回り出す。……その瞬間を見るのが、好きだったんですよね。だから……キッチンの換気扇の油落としだけは、昔からちょっとした特技なんです」
そう語る航平の横顔には、先ほどの照れ臭さはまだ残っていたものの、どこか懐かしそうに目を細める、柔らかな温もりが宿っていた。
苦学生として、必死に自分の腕一本で生きてきた青春時代。
その泥臭い経験の積み重ねが、今のこの人の誠実さと、頼もしさの根底にあるのだと知り、文乃の胸の奥が、ぎゅっと愛おしさに締め付けられた。
「……素敵ですね」
「え?」
航平が顔を上げると、文乃は照れを押し隠すように、けれど心からの敬意を込めて微笑んでいた。
「誰かのために、自分の得意なことで汗を流せるのって……すごく素敵だと思います。佐伯さんが一生懸命磨いてくれたから、この換気扇も、きっとすごく喜んでますよ」
「瀬戸さん……」
航平は目を見張り、それから、困ったように、けれど心底嬉しそうに目尻を下げた。
「……ありがとうございます。瀬戸さんにそう言っていただけるなら、腕が千切れるまで磨いた甲斐があります」
そこからの航平の作業は、まさに神業だった。
ファンの羽根の表裏、数十枚を一本の隙間もなくブラシで磨き上げ、熱湯で洗い流す。
外した金属フィルターも、アルカリ洗剤の泡で包み込み、毛先の柔らかいブラシで目詰まりを完璧に掻き出す。
最後に、乾いたマイクロファイバー布で水滴を一粒残さず拭き上げ、軸受けの金属部分にシリコンスプレーを一筋注油する。
カチャリ、カチリ。
逆の手順で、ピカピカに生まれ変わったシロッコファンがフードの奥へと収まり、真鍮のナットが寸分の狂いもなく締め直される。金属フィルターが小気味よい音を立ててカチリと嵌め込まれた。
「よし……完成です」
航平は養生シートを剥がして手早く丸めると、レンジフードの運転スイッチへと手を伸ばした。
カチッ。
――ヒュオオオオオオオオ……。
低く、澄んだ、軽快な吸気音がキッチンに響き渡った。
以前のような、油の重みでファンの軸がブレるようなカタカタとした耳障りな異音は、跡形もなく消え去っていた。ティッシュペーパーを一枚かざすと、ピタッと吸い付き、まるで新品の換気扇のように猛烈な勢いで空気を吸い込んでいく。
「すごい……! 音が全然違う……!」
文乃が歓声を上げると、航平は満足そうに腕を組み、深く頷いた。
「吸排気効率が劇的に上がりましたから、これでどんなに煙の出るお料理をしても、お部屋に匂いが残ることはありませんよ。……任務完了、です」
「佐伯さん、本当に……本当にありがとうございました!」
「いいえ。金曜日の豚汁と、今日の鮭の西京焼き……あの極上のお料理に比べたら、これくらいのお返し、まだまだ足りないくらいです」
航平は袖を元通りに下ろし、照れくさそうに笑った。
文乃は「お茶、今度こそちゃんと淹れましたから!」と、湯呑みを二つ、キッチンの小さなカウンターの上に並べた。
立ち上る湯気。
狭いキッチンの中に、二人で並んで立つ。
肩が触れ合いそうなほどの距離感の中で、二人で熱いお茶をすする。
綺麗になった換気扇が静かに回り続ける中、漂う微かな柑橘系洗剤の香りと、先ほどの「見惚れてしまって」という言葉の甘い残響。
お互いに視線を合わせるたびに、耳元をほんのりと赤らめながら、けれど二人の距離は、言葉以上に確実に、深く、縮まり合っていた。




