第17話:お魚克服大作戦
土曜日の朝市で買った泥付きの大根は、三〇一号室のキッチンの片隅で、青々とした立派な葉を誇らしげに広げていた。
日曜日の午後、瀬戸文乃は清潔な麻のエプロンを締め、調理台の上に置かれた二枚の生鮭の切り身を見つめていた。
薄いピンク色をした身には、細かな脂が綺麗にサシのように入り、鮮やかな銀色の皮が光を浴びて鈍く輝いている。スーパーの鮮魚コーナーで手に入る、塩分も何も加えられていない生の銀鮭だ。
文乃の脳裏に、昨日の朝市からの帰り道、マンションのエントランスで別れ際に佐伯航平が困り果てたように漏らした言葉が蘇る。
『瀬戸さんのおかげで、すずは野菜に対する恐怖心を少しずつ解いてくれたみたいなんです。……でも、実はもうひとつ、どうしても乗り越えられない巨大な壁がありまして』
『巨大な壁、ですか?』
『……魚、なんです』
航平は長身を小さく丸め、酷く申し訳なさそうに眉を下げていた。
『一ヶ月ほど前、身体にいいからと思って、スーパーで買ってきた塩紅鮭を焼いて出したことがあったんです。そうしたら、身の中に残っていた細い小骨がすずの喉の奥に引っかかってしまって……。火がついたように泣き叫んで、吐き出して、それ以来、魚を見るだけで「痛い」「チクチクするから嫌だ」って、食卓から逃げ出すようになってしまったんです。僕が、骨をちゃんと全部確認しなかったのが悪いんです……』
自責の念に押し潰されそうになりながら語る航平の横で、すずは父親のコートの裾を握りしめ、「お魚、チクチクするもん。パサパサして、変なにおいするもん」と、今にも泣きそうな顔で唇を尖らせていた。
幼児にとって、魚という食材は幾重ものハードルを孕んでいる。
喉に刺さるかもしれない小骨への恐怖。火を通しすぎた魚特有の、パサパサとした喉越しの悪さ。そして、大人は気にならなくても、敏感な子どもの鼻腔を直撃する魚特有の生臭さ――トリメチルアミンの匂いだ。
「一度植え付けられた恐怖心は、口先だけで『大丈夫だよ』って言っても絶対に消えない。……だったら、五感のすべてで覆してあげるしかないよね」
文乃は引き出しから、先の平たいステンレス製の骨抜きピンセットを取り出した。
料理人たちが愛用する、重みのある本職用の道具だ。
まずは、徹底的な骨抜き作業から始まる。
まな板の上に鮭の切り身を皮目を下にして置く。指の腹を滑らせ、鮭の身の繊維に沿って優しく撫で上げていくと、指先にツンと小さな硬い感触が当たる。血合い骨だ。
文乃は骨抜きの先端を骨の頭にしっかりと噛ませ、身の繊維を壊さないよう、頭側の斜め前方へ向かって、すっと引き抜く。
プチッ、という微かな手応えとともに、白い半透明の小骨が抜ける。
一本、二本、三本。
指先をミリ単位で動かし、少しでも引っかかりのある場所を探し出す。身の中央に並ぶ太い骨だけでなく、腹骨の削ぎ残しや、尾に近い部分の微細な骨まで、丹念に、狂気的なまでの集中力で探り当てていく。
切り身二枚から抜いた骨は、実に二十本を超えていた。
最後に、もう一度全体を縦横に指で撫で回し、どこにも一切の引っかかりがないことを確認する。
「よし……これで『チクチク』は完全にゼロ」
次は、第二の関門である「生臭さ」の徹底的な除去だ。
骨を抜いた鮭の両面に、少量の純米酒を霧吹きで吹きかけ、上質な粗塩をパラパラと薄く振る。そのままバットの上に斜めに置き、冷蔵庫で二十分ほど休ませる。
浸透圧によって、鮭の内部から余分な水分と、生臭さの元となるドリップがじんわりと汗のように表面に浮き出てくる。文乃は清潔なキッチンペーパーを二重にし、その水分を擦らず、押さえるようにして丁寧に、完全に拭い去った。
これだけで、焼き上がりの魚特有の臭みは七割がた消失する。
そして、ここからが文乃の仕掛ける最大の魔法――特製の『味噌床』だった。
大きめのホーローバットに、京都産の白味噌――塩分が控えめで、米麹の豊かな甘みとまろやかなコクが際立つ西京味噌を、たっぷりと三〇〇グラム投入する。
そこに、煮切ってアルコールを完全に飛ばした本みりんを大さじ三杯、純米酒を大さじ二杯。さらに、子どもの舌に優しく寄り添うよう、ミネラルを含んだ微粒子のきび砂糖を小さじ一杯と、文乃のこだわりである『濃いめの一番出汁』を大さじ二杯だけ混ぜ合わせた。
木べらで練り上げると、まるで上質なカスタードクリームのように滑らかで、艶やかな淡い黄金色の味噌床が完成する。
「ふふ、いい香り……」
白味噌の麹の芳醇な香りと、出汁の旨味が合わさり、それだけで舐めてしまいたくなるような上品な甘みが立ち上る。
文乃はバットの底に味噌床を三分の一ほど敷き詰め、その上に清潔な医療用の滅菌ガーゼを広げた。
味噌の中に直接魚を漬け込むと、焼くときに味噌が身にこびりついて激しく焦げ付いてしまう。ガーゼを一枚挟むことで、味噌の旨味と糖分、そして適度な塩分だけを魚の身にじんわりと浸透させ、焼くときはガーゼを剥がすだけで綺麗に調理できるのだ。
ガーゼの上に水気を拭き取った鮭を並べ、上からもう一枚のガーゼを被せる。そして、残りの味噌床をゴムベラで隙間なく塗り広げ、鮭全体を味噌の布団で優しく包み込んだ。
ラップを密着させ、冷蔵庫のチルド室へ。
じっくりと時間をかけて、二日間。
塩分が鮭の余分な水分を抱え込みながら、麹の酵素が魚のタンパク質を分解し、旨味成分であるアミノ酸へと変えていく。同時に、白味噌の油分と糖分が繊維の隙間に入り込み、火を通してもパサつかず、しっとりとした柔らかな食感を保つための保水膜を形成してくれる。
実はこの鮭、金曜日の夜に航平と「等価交換」の約束を交わした直後、土曜日の朝市へ行く前の未明に仕込んでおいたものだった。
丸二日が経過した今、まさに最高の熟成状態を迎えていた。
「さあ、美味しく焼こうね」
日曜日の夕暮れ。文乃はチルド室からバットを取り出した。
表面のガーゼをそっとめくると、味噌の琥珀色がほんのりと移り、身がキュッと引き締まりながらも、吸い付くようなしっとりとした艶をまとった鮭が現れた。
魚焼きグリルに、魚がくっつかない波型のアルミホイルシートを敷く。
味噌漬けの魚は、糖分が多いため極めて焦げやすい。強火は厳禁だ。
極々弱火に設定し、じっくりと温めたグリルに、鮭の皮目を上にして静かに滑り込ませた。
パチ、パチパチ……。
静かなキッチンに、微かな油の爆ぜる音が響き始める。
五分、六分と時間が経つにつれて、換気扇の排気口から、息を呑むほどに甘やかで香ばしい匂いが立ち上ってきた。
西京味噌の焦げた香ばしい芳香。
鮭の皮下脂肪が熱で溶け出し、皮目をパリッと焼き上げていく音。
覗き窓から見ると、皮は美しいきつね色の焼き色がつき、身の端からはふつふつと透明な脂と出汁の混ざった泡が湧き出していた。ひっくり返し、裏面も弱火で二分。余熱で中までふっくらと火を通す。
焼き上がった西京焼きは、箸を入れるまでもなく、身がふっくらと盛り上がり、驚くほど柔らかそうに揺れていた。
そして文乃は、もう一品を並行して仕上げていた。
昨日の朝市で買った泥付き大根。その立派な葉を、文乃は爪先ほども無駄にはしなかった。
流水で泥を完璧に洗い流した大根の葉を、熱湯で三十秒だけさっと湯通しして冷水に取る。これで特有の青臭さと強いえぐみが完全に抜ける。固く絞って水分を切り、まな板の上で細かく、細かく微塵切りにする。
フライパンに純正のごま油を小さじ一杯熱し、刻んだ大根の葉を投入。
ジャッ、と小気味よい音が立ち、水分を飛ばすように中火で炒める。そこへ、たっぷりのちりめんじゃこを加える。
じゃこから出る自然な塩気と海の旨味が、大根の葉に絡みつく。みりんを一筋、薄口醤油を小さじ半分回し入れ、汁気が完全に飛ぶまでパラパラに炒り上げる。仕上げに、指先でひねり潰した白いりごまをたっぷりと振り入れた。
『大根葉とじゃこの自家製ふりかけ』の完成だ。
シャキシャキとした大根葉の歯ごたえと、ごま油の香ばしさ、そしてじゃこのカリッとした塩気が調和した、ご飯が何杯でも食べられる最高の常備菜。
文乃は、正方形の耐熱ガラスタッパーに、焼きたての鮭の西京焼きを崩さないよう丁寧に並べた。
もう一つの小さな丸型タッパーには、出来立ての大根葉のふりかけをふんわりと詰め込む。
時計の針は、午後五時半を指していた。
日曜日。夕食の準備を始めるには、ちょうどいい時間帯だった。
文乃は容器をリネンのクロスで包み、三〇一号室のドアを開けた。
共用廊下には、夕暮れの穏やかな空気が満ちていた。
三〇二号室の前に立ち、インターホンを押す。
ピン、ポーン――。
電子音が鳴り響いてから、わずか数秒。
「はーい!」
中から小さな足音が駆け寄ってきて、ガチャリと鍵が開いた。
ドアが大きく開くと、中から部屋着のトレーナー姿の航平と、足元からひょっこりと顔を出したすずが出迎えてくれた。
「瀬戸さん! こんばんは」
航平は穏やかな笑顔を浮かべていた。金曜日の嵐の夜を経て、彼の表情からはあの痛々しい警戒心や罪悪感の影が完全に消え去り、そこには頼れる隣人としての温かな信頼が宿っていた。
「あやのちゃん! いらっしゃい!」
すずも嬉しそうに目を細め、文乃のスカートの裾を掴んでくる。
「こんばんは、佐伯さん、すずちゃん。あの……約束通り、今日のお夕飯のおかずをお持ちしました」
文乃はリネンの包みを解き、タッパーの蓋をそっと外して見せた。
その瞬間。
ふわぁっ……と、廊下に立ち上ったのは、上品な白味噌の甘みと、こんがりと焼けた魚の、信じられないほど香ばしく芳醇な香りだった。
「わ……っ、すごくいい匂いですね」
航平が思わず鼻腔を広げ、感嘆の声を漏らす。
だが、その横で、すずの動きがピタリと止まった。
すずはタッパーの中にある、銀色の皮目ときつね色の焼き目がついた切り身をじっと見つめ、それからサッと顔色を変えて、航平の足の後ろへと後ずさりした。
「……お魚だ」
小さな、怯えた声。
すずは航平のスウェットをぎゅっと握りしめ、眉を八の字にして首を激しく横に振った。
「すず、お魚こわい……。チクチクするもん。痛いのやだ……」
一ヶ月前のトラウマ。喉の奥に小骨が引っかかり、泣き叫んだあの記憶が、すずの小さな身体を強張らせていた。
航平が困ったように眉を寄せ、「すず、瀬戸さんがせっかく作ってくれたんだから……」と宥めようとしたが、文乃は手でそれを優しく制した。
無理強いは絶対にしない。
文乃は玄関のたたきに膝をつき、すずの目線まで腰を落とした。
そして、持参していた清潔な小さなスプーンを取り出し、西京焼きの端っこを、そっとすくい取った。
すっ、と何の抵抗もなく、スプーンが鮭の身に入っていく。
断面からは、透明な肉汁がじゅわりと溢れ出し、繊維がほろほろと柔らかくほどけた。
「すずちゃん」
文乃はスプーンに乗せた一口大の鮭を、すずの目の前に掲げて見せた。
「見てごらん。このお魚ね、骨はぜーーんぶ、お姉ちゃんが一本ずつピンセットで抜いちゃったの。チクチクする骨は、もう一ミリも残ってないよ」
「……ほね、ないの?」
すずが、航平の足の影から恐る恐る目をパチクリとさせた。
「うん、一本もないよ。それにね、パサパサもしないの。お味噌とお出汁の甘いお布団に二日間ずーっと寝かせてあったから、お肉みたいに甘くて、ふわっふわなの。……チクチクするかどうか、お姉ちゃんが保証する。ほんのちょびっとだけ、舐めてみるだけでもいいから、食べてみない?」
文乃の声音は、どこまでも優しく、嘘偽りのない確信に満ちていた。
すずは文乃の澄んだ瞳を見つめ、それからスプーンの上の鮭へと視線を落とした。
立ち上る湯気からは、あの生臭い嫌な匂いは微塵もしない。
甘い、まるでお菓子のような、優しいお味噌の匂いがする。
お腹が、小さくきゅうと鳴った。
すずは航平を見上げた。航平はすずの肩にそっと手を置き、優しく頷いてみせた。「大丈夫だよ、すず。あやのちゃんのお料理だよ」。
意を決したように、すずはトタトタと二歩前に出た。
そして、小さな口をあーんと開け、文乃の差し出すスプーンをパクリと咥えた。
ごくり、と航平が息を呑む音が聞こえた。
すずの小さな口が、もぐ、もぐ、とゆっくり動き始める。
一秒、二秒。
すずの眉間が、最初はきゅっと引き結ばれていた。
骨がないか。痛くないか。生臭くないか。舌の神経のすべてを研ぎ澄まして、未知の物体を確かめている。
だが――三秒目。
すずの瞳が、カッと大きく見開かれた。
「…………っ!」
黒目が驚きに震え、強張っていた顔全体の筋肉が、まるで春の陽射しを浴びた雪のように、一瞬でとろけていく。
「……あまい!」
すずは口の中のものを、何の引っかかりもなく、すんなりと喉の奥へと飲み干してしまった。
「パパ! これ、お魚なのに、チクチクしない! 痛くない!」
すずは叫ぶと、自分の両手でパタパタと頬を叩き、ピョンピョンと跳ね上がった。
「すっごく柔らかい! お口の中で、ふわぁぁぁ〜って溶けちゃった! パサパサしないの! お汁がじゅわ〜って出て、あまい!」
「え……!?」
航平が信じられないといった表情で目を見張る。
「チクチクしない……? 本当に?」
「うん! チクチクゼロ! あやのちゃん、すず、これすき! もっと食べたい!」
あんなに魚を恐れ、泣いて拒絶していた少女が、自ら身を乗り出してタッパーを指差している。
文乃の胸の奥で、カッと熱い安堵の火が灯った。
「よかった……! すずちゃん、いっぱい食べてね」
「瀬戸さん……僕も、一口いただいてもいいですか?」
航平が我慢できないといった様子で箸を取り、鮭の端を小さく摘んで口へと運んだ。
咀嚼した瞬間、航平の動きが完全に静止した。
「…………っ!!」
航平の目が見開かれ、そのまま絶句した。
「な……なんですか、これ……。鮭って、こんなにふっくら焼けるものなんですか……!?」
航平の声が、上ずっていた。
「パサつきが一切ない……。身の繊維が信じられないくらいしっとりしていて、噛むと中から西京味噌のまろやかな甘みと、鮭の上品な脂が溢れ出してくる……。それに、魚特有の生臭さが完全に消えていて、香ばしい味噌の風味だけが残っている……! これ、料亭の味じゃないですか……!」
「ふふ、白味噌とお出汁の力ですよ。二日間じっくり漬け込んだので、中まで味が染みてるんです」
文乃が得意げに笑うと、航平はタッパーの中の鮭を見つめたまま、呆然と何度も首を横に振った。
「信じられない……僕が今までフライパンで焼いていた鮭は、一体何だったんだ……。同じ魚とは思えない……」
「パパ! すず、ごはん! ごはんと一緒にたべたい!」
すずが航平のズボンを引っ張り、待ちきれないとばかりに急かす。
「あ、そうだ、すずちゃん。これもご飯に乗せてみて」
文乃はもう一つの丸いタッパーの蓋を開けた。
「昨日、朝市ですずちゃんが選んでくれた、あの大根さんの葉っぱで作ったふりかけだよ」
「大根さんの葉っぱ!?」
すずが目を丸くしてタッパーを覗き込む。
「大根の葉っぱを細かく刻んで、ごま油とおじゃこで香ばしく炒めたの。シャキシャキして、ご飯にすっごく合うんだよ」
「たべる! すず、おっきいお茶碗でたべる!」
すずはタタタッとリビングへ走り、自分のお気に入りのウサギのお茶碗を両手で持って戻ってきた。
航平が炊飯器からホカホカの炊きたて白米をふっくらとよそい、その上に文乃が西京焼きの大きな切り身と、大根葉とじゃこのふりかけをたっぷりと乗せる。
緑と赤と白。目にも鮮やかな、極上の特製鮭丼の完成だ。
すずは子ども用のスプーンを握りしめ、テーブルにつくのももどかしい様子で、一口目を口いっぱいに頬張った。
シャクッ、モグモグ……。
「んんん〜〜〜〜っっっ!!!」
すずは両手で自分の小さな頭を抱え、美味しさのあまり体を左右に揺らした。
「おいしすぎる!! 葉っぱがシャキシャキして、おじゃこがカリカリして、お魚がふわふわ! ごはんが、とまらないよ!」
そこからのすずの食べっぷりは、圧巻だった。
スプーンを猛烈な勢いで動かし、大きな口を開けて、ご飯と鮭とふりかけを次から次へと胃袋の中へとかき込んでいく。
かつて魚の骨に怯えて泣き叫んでいた姿など、影も形もない。
最後には、お茶碗の隅についた最後の一粒の米粒までスプーンで綺麗に集め、ペロリと平らげてしまった。
カラン、とスプーンが置かれる。
空っぽになったピカピカのお茶碗を両手で掲げ、すずは満面の笑顔で胸を張った。
「ごちそうさまでした! ……パパ、すず、お魚ぜんぶたべられたよ!」
その誇らしげな娘の姿を見つめながら、航平の目頭がじわりと赤く潤んでいた。
「ああ……すず、すごいな。本当によく頑張ったな……」
航平はすずの頭を何度も優しく撫で、それから文乃に向き直り、深く、深く頭を下げた。
「瀬戸さん……本当に、ありがとうございました。すずが、こんなに美味しそうに魚を食べる日が来るなんて……夢にも思っていませんでした。骨を一本ずつ抜いてくださったこと、二日間も手間をかけて漬け込んでくださったこと……何とお礼を言ったらいいか分かりません」
「佐伯さん、お礼なんていりませんよ」
文乃は立ち上がり、柔らかな笑みを浮かべた。
「すずちゃんが、あんなに幸せそうに笑って平らげてくれたんですから。……私の方こそ、作って本当によかったです」
三〇二号室のリビングに満ちる、白味噌とごま油の温かな残り香。
偏食という名の頑なな呪縛が、またひとつ、出汁と工夫の魔法によって心地よく解き放たれていく。
空っぽになった二つのタッパーを抱えながら、文乃は、この不器用で愛おしい親子との距離が、昨日よりもさらに一歩、確かに近づいたことを実感していた。




