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お隣の限界パパと偏食園児に「余り物」を届けたら、懐かれすぎて逃げられなくなりました  作者: タカノ


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16/50

第16話:土曜日の朝市

土曜日の朝七時半。冬の終わりを告げる澄み切った大気は、針の先のように冷たく尖っていたが、吸い込む肺の奥を心地よく洗い清めてくれる清涼感を孕んでいた。


駅前広場へと続く石畳の歩道を、瀬戸文乃は少し早足で歩いていた。


平日のオフィスカジュアル――膝丈のタイトスカートに薄手のストッキング、足元を締め付けるパンプスという戦闘服から解放された休日の装いは、文乃にとって心身を解き放つための大切な皮膚のようなものだ。


今日の装いは、ざっくりとしたローゲージのアイボリーのタートルネックニットに、歩くたびに柔らかく揺れる深いフォレストグリーンのロングフレアスカート。足元は歩きやすいキャメル色のスエードのショートブーツを合わせ、肩からは実家から持ってきた厚手のリネンでできた、大容量のエコバッグを提げている。後ろでひとつに束ねた黒髪は、毛先を少しだけ遊ばせて、柔らかな休日仕様に整えてあった。


目指すのは、週末の朝にだけ駅前広場のけやき並木の下で開催される、地元近郊の契約農家たちが集う『青空朝市』だ。


スーパーマーケットの整然と並んだ陳列棚も便利でありがたいが、朝市にはそこにしかない圧倒的な生命力がある。市場を通さず、今朝未明に畑から引き抜かれてそのまま運ばれてきた野菜たちには、まだ夜露の湿り気と、黒々とした大地の土の香りが濃密に残っているのだ。


「今朝は、あるかな……」


広場に足を踏み入れると、すでに色とりどりのテントが十数軒立ち並び、防寒着を着込んだ農家の人々の威勢のいい掛け声と、買い物かごを提げた近隣の住民たちの活気で満ちていた。あちこちのテントから立ち上る白い息と、ドラム缶で焚かれた薪のパチパチという爆ぜる音。どこか懐かしい冬の情景に、文乃の頬が自然と緩む。


文乃の目当ては二つあった。


一つは、スーパーの野菜売り場ではまず見かけることのない、洗われていない『泥つきの無農薬人参』だ。


化学肥料を使わずにじっくりと寒風に晒されて育った冬の人参は、皮のすぐ下にある糖度と香りが段違いに高い。泥がついたままの状態で保存すれば乾燥も防げるし、何より、すりおろしたりポタージュに仕立てた時の、大地の力強い甘みは格別だ。


そしてもう一つが、出始めの『春キャベツ』。


冬キャベツのずっしりとした重厚な巻きとは異なり、ふんわりと葉が重なり合い、鮮やかな黄緑色をした巻きの緩い春キャベツ。指先で押せばパリッと小気味よい音を立てて割れそうなほどみずみずしく、葉の繊維が柔らかいため、さっと熱湯をくぐらせて出汁に浸すだけで、驚くほど甘いお浸しになる。


「いらっしゃい! 今朝採れたての三浦の大根、いいの入ってるよ!」


「おばちゃん、このほうれん草、根元が赤くて甘そうだね」


「よく見てるねえ、霜に当たってるから今が一番甘いんだよ!」


行き交う人々の活気に包まれながら、文乃は一軒の馴染みの農家のテントの前で足を止めた。


木箱の上に山積みにされているのは、真っ白な肌に青首が鮮やかな、葉付きの大根たちだ。葉の先までピンと張りがあり、切り口からは水分が滲み出している。


「ふふ、立派な大根……。葉っぱは細かく刻んで、ちりめんじゃことごま油で炒めてふりかけにしたら、ご飯が何杯でも進みそう」


文乃はエコバッグを持ち直し、大根の山から首の太い一本を品定めしようと、腰を少し落とした。


その時だった。


――タタタタタタッ!


背後から、凍てつく朝の空気を切り裂くような、弾むような小さな足音が響いてきた。


大人の落ち着いた歩調ではない。ゴム底の小さなスニーカーが、石畳の隙間を軽快に蹴り上げながら、一直線にこちらへと突進してくる音。


そして、文乃が振り返るよりも早く。


「あやのちゃぁぁぁんっっ!!」


鈴を転がすような、けれど広場中に響き渡るほどの甲高い歓声が耳元に届いた。


「え……?」


トンッ、と柔らかな小さな衝撃が、文乃の右足のふくらはぎを直撃した。


二本の短い腕が、文乃のロングスカート越しに、ぎゅううっと力いっぱいに足首へしがみついてくる。


文乃は驚いて体勢を崩しかけ、慌てて大根の木箱に手を突いて踏みとどまった。足元を見下ろす。


そこには、ふわふわの白いポンポンがついた毛糸のニット帽を被り、淡いラベンダー色のモコモコしたスヌードにすっぽりと小さな顎を埋めた、見覚えがありすぎる愛らしい少女の姿があった。


「すず……ちゃん!?」


文乃が目を見開くと、スヌードの隙間から、寒さで赤くなった小さな鼻と、三日月のように細められた大きな瞳が覗いた。


佐伯すずだった。


キャメル色の小さなダッフルコートを着て、背中にはお気に入りのウサギのリュックサック。文乃の足にしがみついたまま、すずは満面の笑みを咲かせ、顔をすりすりと文乃のスカートに擦り付けてきた。


「あやのちゃん! みつけた! あやのちゃん、いたぁぁ!」


「す、すずちゃん、どうしてここに……!? 一人で走ってきたの!?」


文乃が慌ててしゃがみ込み、すずの小さな肩を抱き留めた、まさにその瞬間。


――ハァッ、ハァッ、ハァッ……!


人混みをかき分けるようにして、肩で激しく息を切りながら、長身の男性が猛ダッシュで飛び込んできた。


「すずッ!! ダメだって言っただろ、急に走り出したら……っ!!」


悲鳴のような掠れ声を上げながら駆け寄ってきたのは、佐伯航平だった。


濃紺のウールコートのボタンは中途半端に外れ、首に巻いたグレーのマフラーは片側が風に煽られて肩の後ろへと跳ね上がっている。手には、スーパーの買い物カゴ二つ分は裕に入りそうな、巨大な生成りのキャンバストートバッグを抱え込んでいた。


息を乱し、膝に手をついて荒い呼吸を整えようとした航平は、すずの目の前にしゃがみ込んでいる人物の姿を捉えた瞬間――。


「っ…………!!!」


ピタリと、その動きを完全に停止させた。


まるで、目に見えない雷に打たれたかのように、見開かれた瞳が凝固する。


航平の視線が、文乃の顔へ。


それから、ふわりと肩にかかるアイボリーのざっくりとしたニットへ。


そして、地面に優雅に広がるフォレストグリーンのロングスカートへと、滑るように落ちていった。


いつもマンションの廊下で見かける、清楚で几帳面なオフィスカジュアルや、機能的なエプロン姿とは全く違う。


休日の朝の光を浴びて、少しだけ抜けた空気感を纏い、柔らかく女性らしい温もりを醸し出している、瀬戸文乃の「私服の姿」。


「あ……」


航平の喉から、声にならない吐息が漏れた。


普段の冷静で論理的なエンジニアの思考回路が、一瞬にしてショートしたのが見て取れた。航平は立ち尽くしたまま、瞬きすら忘れ、ただただ圧倒されたように文乃の姿を見つめていた。


そして――。


ボッ、と音がしそうなほどの勢いで、航平の首筋から耳の付け根、そして青白かった頬全体へと、鮮烈な赤みが一気に駆け上がっていった。


「っ……! あ、あの……っ、瀬戸、さん……!?」


航平は弾かれたように二歩後ずさり、視線を泳がせながら、右手で自分のマフラーの端をぎゅっと握りしめた。


「す、すみません……! おはようございます、じゃなくて……本当にすみません! すずが、前を歩いている瀬戸さんの後ろ姿を見つけるなり、『あやのちゃん!』って叫んで僕の手を力いっぱいに振りほどいて突っ走ってしまって……! お怪我はありませんでしたか!? ぶつかって、痛くなかったですか……!?」


直角に近い角度で頭を下げ、パニック状態で捲し立てる航平。


そのあまりの狼狽えぶりと、耳まで真っ赤にして視線を彷徨わせる純情な少年のごとき反応に、文乃は胸の奥がトクンと小さく跳ね上がるのを覚えた。


――この人、私の私服を見て、こんなに動揺してる……?


ほんの少しの気恥ずかしさと、それを上回るくすぐったいような温かさが、文乃の頬をふわりと染め上げる。


文乃は立ち上がり、ニットの裾を整えながら、柔らかく目を細めて微笑んだ。


「大丈夫ですよ、佐伯さん。すずちゃん、ちっちゃいですから、ぶつかっても全然痛くありませんでした。ふふ、びっくりはしましたけど」


「本当に……申し訳ありません。人混みの中で急に手を離すなんて、僕の注意が足りませんでした……」


航平は恐縮しきりで眉を八の字に下げ、項垂れるように息を吐き出した。


けれど、その横顔には、先週までのあの「死神のようなドス黒い隈」はもうなかった。睡眠が取れているのか、肌には健康的な血色が戻り、昨夜の豚汁と鶏つくねが効いたのか、立ち姿にも芯の通った力強さが感じられた。


「あやのちゃん! 手、つなぐ!」


反省する父親の横で、すずは全く悪びれる様子もなく、文乃の右手を両手でぎゅっと包み込んできた。


毛糸の手袋越しではない、素手の温もり。すずの小さな手のひらは、走ってきたせいかぽかぽかと温かく、文乃の指にしっかりと絡みついて離そうとしない。


「すず、瀬戸さんのお買い物の邪魔をしちゃダメだろ。パパと手を繋ぎ直そう」


航平が困り顔で手を伸ばすが、すずは「やだ!」と体を捻って文乃の背中の後ろへと隠れてしまった。


「あやのちゃんと繋ぐの! あやのちゃん、あったかいもん!」


「すず……っ」


「いいですよ、佐伯さん」


文乃はくすくすと笑いながら、すずの小さな手を優しく握り返した。


「私、右手は空いてますから。ね、すずちゃん」


「うん!」


すずは誇らしげに鼻を鳴らし、文乃の手をぶんぶんと嬉しそうに揺らした。


文乃は視線をすずの目線へと戻し、優しく語りかけた。


「おはよう、すずちゃん。朝市に来たの? 朝早くから、えらいねぇ」


「うん! すずね、パパと、お野菜買いに来たの!」


胸を張って答えるすずの言葉に、文乃は思わずハッと目を見張った。


「お野菜を……?」


文乃が信じられない思いで顔を上げると、航平がマフラーに顎を埋めながら、照れくさそうに、けれどどこか誇らしげに視線を漂わせた。


「……そうなんです。瀬戸さんのおかげなんです」


「私の……?」


「はい」


航平はキャンバストートバッグの持ち手をぎゅっと握り直し、静かに言葉を紡いだ。


「木曜日のカレーも、昨夜の鶏つくねも……すず、本当に綺麗に完食したんです。ひじきのつくねなんて、『お肉の中に黒い星がある! 甘くて美味しい!』って、三個も食べて……。今朝起きた時、すずが突然言ったんです。『パパ、お野菜見に行きたい。あやのちゃんが美味しいお料理にしてくれるお野菜、どんな形してるのか見たい』って」


「すずちゃんが……」


文乃の胸の奥底が、熱い湯気で満たされるようにじんわりと震えた。


あの、野菜を見るだけで「苦い」「黒いお化けが入ってる」と泣き叫び、食卓を戦場に変えてしまっていた少女が。


自分から「野菜を見に行きたい」と言ってくれたのだ。


恐怖の対象でしかなかったものが、文乃の出汁と工夫を通じて、「美味しいもの」「興味深いもの」へと、その小さな心の中で完全に反転したのだ。


「僕……今まで、スーパーのパックに入ったカット野菜や、コンビニの惣菜ばかり選んでいました」


航平は自嘲気味に、けれど澄んだ瞳で続けた。


「野菜がどんな土から抜かれて、どんな葉っぱをつけているのか、すずに一度も見せてやったことがなかったんです。泥がついていて、不揃いで、自然の匂いがする本物の野菜を見せたら、もっと野菜を好きになってくれるかもしれないと思って……それで、思い切って朝市に連れてきてみたんです」


「佐伯さん……」


文乃は航平を見つめた。


この人は、本当に真っ直ぐな父親だ。


文乃が料理というきっかけを作った。けれど、それをただ「楽になった」で終わらせず、娘の成長のチャンスとして受け止め、休日の朝七時に娘の手を引いて泥臭い朝市へと足を運ぶ。その不器用で、けれどどこまでも真摯な愛情に、文乃は胸を打たれずにはいられなかった。


「パパ! みて! おっきな大根!」


すずが文乃の手を引っ張りながら、木箱の上の大根を指差した。


「葉っぱ、チクチクしてる! これ、あやのちゃんのお汁に入ってたやつ?」


「そうよ、すずちゃん。昨日の豚汁に入っていた大根だよ」


文乃がしゃがみ込んで教えると、すずは恐る恐る小さな人差し指を伸ばし、泥のついた大根の白い肌をツンと突いた。


「つめたい! かたい! ……これ、煮ると、あま〜くなるの?」


「そうよ。コトコト煮るとね、お出汁をいっぱい吸い込んで、お口の中でとろけちゃうの」


「すず、これすき! パパ、これ買って!」


「お、おう、買うか。すずが選んだやつにしよう」


航平が顔を綻ばせ、すずが指差した泥つきの大根を、腕まくりをして一本持ち上げた。ずっしりとした重みに「うおっ、重いな」と声を漏らす航平の姿に、テントの農家のおじさんが「兄ちゃん、いい大根選んだね! 葉っぱも美味いよ!」と笑い声を上げる。


「瀬戸さん、これ……どうやって持ち帰りましょう。僕のバッグ、入りますかね」


「ふふ、私のエコバッグに葉っぱ側を上にして入れましょうか。佐伯さんのバッグには、重たい泥つき人参を入れてもらえれば……あ、これが私の目当ての人参です!」


文乃が隣の木箱を指差すと、そこには真っ黒な土をまとった、小ぶりだが身の詰まった人参が並んでいた。


「わあ……本当に泥だらけですね」


航平が感心したように屈み込む。長身の彼が文乃の隣に並んでしゃがみ込むと、ふわりと、昨夜のシャンプーの清潔な香りと、冬の朝風の匂いが混ざり合って文乃の鼻腔をくすぐった。肩と肩が、触れ合うか触れ合わないかの至近距離。


「泥がついている方が、甘みが逃げないんですよ。綺麗に洗って、皮ごと薄く切ってきんぴらにしたり、ポタージュにすると、お砂糖を入れなくてもすっごく甘いんです」


「へえ……人参って、皮ごと食べられるんですね。僕、いつもピーラーで半分くらい削ぎ落としちゃってました」


「もったいないです! 人参は皮のすぐ下が一番栄養も香りもあるんですよ。タワシで泥を落とすだけで十分なんです」


「なるほど……勉強になります」


航平は真剣な顔で頷き、まるで重要な仕様書を読み込むプログラマーのように、泥つき人参をじっと観察している。その几帳面で真面目な横顔が可笑しくて、文乃は思わず小さく吹き出してしまった。


「あやのちゃん、わらってる!」


すずが文乃の顔を覗き込み、キャッキャと嬉しそうに笑う。


「パパがね、真面目なお顔で人参見てるから、面白くなっちゃったの」


「えっ、僕、変な顔してましたか……?」


航平が慌てて自分の頬を押さえると、すずが「変なお顔ー!」と囃し立て、三人の間に柔らかな笑い声が弾けた。


大根一本、泥つき人参を一袋、そして巻きの柔らかい春キャベツをひと玉。


買い求めた野菜たちを、文乃のリネンバッグと航平の大きなキャンバストートへと手分けして詰め込む。ずっしりとした大地の重みが、肩を通して心地よく伝わってきた。


「すずちゃん、キャベツ持てる?」


「もてる! すず、力持ちだもん!」


すずは両手で小さな春キャベツを抱え込み、よちよちと誇らしげに歩き始めた。


その真ん中を歩くすずを挟むようにして、右手に文乃、左手に航平が並んで歩く。


すずの小さな左手は文乃の指をしっかりと握り、右手は航平の大きな指をぎゅっと握りしめていた。小さな三つ編みが、歩道を踏みしめるたびに、タートルネックの襟の上でピョコピョコと楽しげに跳ねている。


ふと、すずの頭越しに、文乃と航平の視線が交錯した。


航平は一瞬だけ照れくさそうに視線を逸らしかけたが、すぐに思い直したように、穏やかで深みのある眼差しで文乃を見つめ返した。


「……瀬戸さん」


「はい?」


「今日……偶然お会いできて、本当によかったです」


低く、澄んだ声が、朝の静けさに溶け込んでいく。


「すずが、こんなふうに笑って野菜を抱えている姿……少し前の僕には、想像もできませんでした。全部、瀬戸さんが……僕たちに諦めないでいてくれたおかげです」


「佐伯さん……」


「先週の僕は、本当に情けないことばかり言って、瀬戸さんを困らせてばかりで……。でも、昨日の約束、本当に心強かったんです。僕にできることなら、何でも言ってくださいね。力仕事でも、高いところの電球でも」


航平は自分のコートのポケットから、絆創膏の貼られた大きな手を出して、握りこぶしを作ってみせた。


その仕草が、普段の知的なエンジニアの姿とは裏腹に、どこか少年のように純真で、文乃の胸を不意にぎゅっと締め付けた。


「はい。頼りにしていますからね、佐伯さん」


文乃は真っ直ぐに微笑み返した。


冬の朝の風は、相変わらず冷たく肌を刺していた。


けれど、繋いだすずの小さな手の熱と、すぐ隣を歩く航平の確かな体温が、まるで春の陽だまりのように、文乃の身体全体を優しく包み込んでいた。


駅前広場のけやき並木を抜けて、二つの部屋が待つマンションへと続く帰り道。


かごいっぱいに詰まった土の香りと、三人の弾むような足音が、まだ眠気の残る街の朝を、あたたかな光で染め上げていった。

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