第15話:名前で呼び合う夜
午後八時半を回った頃には、先ほどまでの荒れ狂う嵐が嘘のように、街の喧騒すらも雨上がりの静寂の中へと吸い込まれていた。
洗われたばかりの夜空には、雲の裂け目から青白い月が浮かび、濡れたアスファルトが街灯の光を柔らかく照り返している。
瀬戸文乃は、泥水が浸水しかけていたベランダのサッシレールを雑巾で何度も水拭きし、吸水のために敷き詰めていたタオル類をすべて洗濯機に放り込んで、ようやくリビングの片付けを終えたところだった。
洗面所で手を洗い、鏡を見る。
パニックで乱れていた髪を整え、新しい薄手のカーディガンを羽織り直す。先ほど航平と交わした握手の感触――傷口を保護した絆創膏越しに伝わってきた、あの骨太でカッと熱い男の手のひらの温度が、今も文乃の指先の皮膚に鮮やかに焼き付いていた。
「……等価交換、か」
思わず口元がほころぶ。
火曜日にあんなにも頑なで、冷たい札束を突きつけてきた航平が、あんなにも泥だらけになって排水溝をこじ開け、最後には子供のように照れくさそうに笑って手を握り返してくれた。
あの人は、本当に不器用なだけだったのだ。
文乃の善意を搾取したくないと必死に抗い、けれど文乃の部屋が水浸しになりかけた瞬間には、世間体もプライドも泥水の中に放り出して飛び込んできてくれた。
そんな誠実すぎる隣人を前にして、文乃の胸の中には、もう何の蟠りも残っていなかった。
「よし……しっかり温め直そう」
文乃はキッチンのコンロの前に立った。
火曜日の夕暮れ、持っていこうとして果たせず、そのまま冷蔵庫の奥で出番を失っていた『柔らか鶏つくね』。
一度火を通してタレを絡めてあるが、冷えたままでは豆腐と長芋のふんわりとした食感が損なわれてしまう。文乃は深型のフライパンにつくねを並べ、大さじ二杯の日本酒を回し入れて蓋をし、弱火でじっくりと蒸気を回した。
熱が芯まで通ったところで蓋を開け、煮詰めてあった照り焼きのタレを再び回しかける。
ジュワッと心地よい音が弾け、甘辛い醤油と出汁の香りが一気に立ち上る。木べらで優しくフライパンを揺すり、飴色の艶を全体に纏わせると、冷え切っていたつくねは、まるで今焼き上がったばかりのようにふっくらと息を吹き返した。
そして、もうひとつのコンロには、航平を部屋に見送った直後から仕込み始めていた大鍋が乗っていた。
――具だくさんの豚汁。
泥水に腕を突っ込み、全身ずぶ濡れになって文乃の部屋を救ってくれた男と、留守番をしながらパパの帰りを待っていた小さな女の子。あの二人の冷え切った身体を内側から温めるために、これ以上の料理は思いつかなかった。
豚バラ肉は一口大に切り、鍋肌でカリッとするまで炒めて余分な脂をペーパーで拭き取る。
そこへ、乱切りにして水にさらした大根、薄くいちょう切りにした人参、笹がきにした牛蒡、手でちぎって下茹でした蒟蒻、そして短冊に切った油揚げを惜しみなく投入する。ごま油を一筋回し入れ、強火で全体を炒め合わせる。野菜の表面に油が回り、牛蒡の土の香ばしさと豚肉の脂の甘みが混ざり合ったところで、今朝から取っておいた昆布と厚削り鰹節の合わせ出汁を一気に注ぎ入れた。
コトコト、コトコト。
火を弱め、丁寧に灰汁を取り除きながら二十分。
大根が半透明に透き通り、出汁の旨味を吸い込んで柔らかくなったのを見計らい、仕上げに信州の白味噌と、コクを出すための赤味噌を八対二の割合で溶き入れる。
ぶわっと、部屋いっぱいに広がる芳醇な味噌の香り。
火を止める直前に、斜め切りにした長ネギをたっぷり加え、余熱でくったりと火を通す。
お椀によそえば、豚肉のコクと根菜の甘みが出汁と味噌の海に溶け合い、一口啜るだけで全身の強張りが解けていくような、完璧な一杯に仕上がっていた。
「……できた」
文乃は、洗って清潔にしておいた耐熱ガラスのタッパーに、熱々の鶏つくねを崩さないように詰め込んだ。照り焼きのタレもたっぷりと回しかける。
そして、二段重ねのスープジャーには、熱々の豚汁をなみなみと注ぎ入れ、しっかりと蓋を閉めた。
時計の針は、午後九時を指していた。
遅すぎる時間かもしれない。けれど、航平は泥水で服を濡らし、シャワーを浴びて洗濯に追われているはずだ。今夜の夕食を作る余裕など、絶対にあるはずがなかった。
「仲直りの、印」
文乃は二つの温かい容器を、生成りのエコバッグへと丁寧に収めた。
部屋の鍵を手に取り、玄関を出る。
廊下に踏み出すと、雨上がりの澄み切った冷気が頬を撫でた。
三〇一号室から三〇二号室へ。
わずか数歩の距離。火曜日の夕方にはあれほど重たく、断崖絶壁のように感じられたその床が、今は不思議なほど足元を軽く支えてくれていた。
三〇二号室のインターホンの前に立つ。
文乃は小さく息を吸い込み、呼び出しボタンを人差し指で押し込んだ。
ピン、ポーン――。
電子音が鳴り響く。
以前のように「拒絶されるのではないか」「迷惑がられるのではないか」という怯えは、もう文乃の胸の中には一片もなかった。
すると、呼び出し音が消えるか消えないかのうちに、廊下に響く軽やかなパタパタという足音が近づいてきた。
ガチャリ。
解錠の金属音が響き、ドアが迷うことなく、一気に大きく開け放たれた。
チェーンロックすら、掛かっていなかった。
「あやのちゃん!!」
満開の向日葵のような、弾けるような甲高い声。
玄関の明かりを背にして、そこに立っていたのは、トトロのぬいぐるみを小脇に抱えた佐伯すずだった。
淡い水色のフリースパジャマに着替え、髪は綺麗に梳かされて左右の耳の上でふたつに結ばれている。すずは文乃の顔を見るなり、ぴょんと小さく飛び跳ねて、誇らしげに両手を広げてみせた。
「あやのちゃん、みて! パパ、お洋服きれいになったよ!」
「え……?」
文乃が目を丸くすると、すずの後ろから、柔らかな足音とともに長身の影が進み出てきた。
「……瀬戸さん。こんばんは」
そこにいたのは、すっかりさっぱりとした佐伯航平だった。
先ほどの泥だらけのワイシャツと濡れそぼったスラックスは脱ぎ捨てられ、ゆったりとした濃紺の長袖スウェットに、黒のイージーパンツという寛いだ部屋着姿。
シャワーを浴びたばかりなのだろう、タオルドライされた黒髪はまだわずかに湿り気を帯びて額に落ち、微かに石鹸の清潔な香りが漂っていた。
そして何より――その顔だった。
火曜日の夕暮れに見せていた、あの氷のように冷たく強張った表情はどこにもなかった。
目の下の隈こそまだ残っているものの、その双眸は穏やかに細められ、目尻には困ったような、けれど心底から寛いだような、柔らかな笑みが浮かんでいた。
「佐伯さん……お怪我、大丈夫ですか?」
「はい。瀬戸さんが手当てしてくださったおかげで、全然痛くありません。……部屋も、泥を持ち込んでしまって大変だったでしょう」
「いいえ、雑巾でさっと拭いたら綺麗になりました。それよりも……あの、これ」
文乃は胸の前に抱えていたエコバッグを、両手で航平へと差し出した。
「仲直りの、印です。……火曜日に持ってこようとしていた、ひじき入りの鶏つくね。温め直して、照り焼きのタレを絡めました。それと……佐伯さんもすずちゃんも、身体が冷え切っていると思ったので、具だくさんの豚汁を作ってきたんです」
バッグの隙間から、ふわりと漏れ出す甘辛い醤油と、豚汁の香ばしいごま油と味噌の香り。
航平は一瞬だけ目を丸くし、それから胸元を押さえて、息を呑んだ。
以前の航平なら、ここで青ざめ、両手を振って「そんな、受け取れません!」と頑なに拒絶していただろう。
けれど今夜の航平は、違っていた。
航平は文乃の目をまっすぐに見つめ、それからゆっくりと、大判の絆創膏が貼られた右手を前に出した。
躊躇うことなく。
卑屈になることも、施しを恐れて身を縮こまらせることもなく。
航平は、両手でしっかりと、文乃の持つエコバッグの底を包み込むようにして受け止めた。
ずっしりとした重み。
タッパーとスープジャーから布地越しに伝わってくる、確かな熱。
その温もりを受け取った航平の手は、力強く、そしてどこまでも敬意に満ちていた。
「……瀬戸さん。ありがとうございます」
低く、澄んだ、心からの声。
「いただきます。今夜は……すずと一緒に、大切に食べます」
「…………っ」
文乃の胸の奥が、じんわりと熱くなった。
受け取ってもらえた。
嘘の言い訳で無理やり押し付けるのではなく、札束で買い叩かれるのでもなく。お互いの存在を認め合い、感謝と敬意を込めて、真っ直ぐに受け取ってもらえたのだ。
「あやのちゃん、これなぁに?」
すずが航平の足元から身を乗り出し、バッグの中を覗き込もうと背伸びをした。
文乃はすずの目線まで腰を落とし、優しく微笑みかけた。
「すずちゃん。今日はね、柔らかい鶏肉のつくねだよ。甘辛いタレがたっぷりかかってて、ハンバーグみたいに柔らかいんだよ」
「つくね……?」
「うん。実はね、すずちゃんが前にお話ししてくれた『黒いお野菜』……ひじきが入っているの」
「ひじき……?」
すずの眉が、一瞬だけピクッと寄った。
金曜日の夜の記憶が掠めたのか、少しだけ警戒の色が浮かぶ。
文乃はすずの小さな手をそっと包み込み、ゆっくりと言葉を続けた。
「でもね、すずちゃん。お姉ちゃん、ひじきをすっごく細かくトントン叩いて、お肉の中に隠しちゃったの。黒くて長いのはどこにもいないよ。お肉と一緒に食べると、甘いタレとお出汁の味がして、全然苦くないの。……一口だけ、パパと一緒に食べてみてくれる?」
すずは文乃の目を見つめ、それから父親が大切そうに抱えているバッグを見上げた。
立ち上る湯気からは、あの土曜日の朝に玄関先で嗅いだ、大好きな「お出汁のにおい」がしていた。
すずはトトロをぎゅっと抱きしめ、力強くこくりと頷いた。
「うん! あやのちゃんのごはん、すず、たべる! お肉、すきだもん!」
「ふふ、偉いね、すずちゃん」
文乃が頭を撫でると、すずは嬉しそうに目を細めた。
その様子を見守っていた航平の瞳にも、温かな光が満ちていた。
かつて食卓を「戦場」と呼び、毎晩絶望に沈んでいた父親の顔は、そこにはもうなかった。娘が新しい味覚に挑戦しようとする勇気を、誇らしげに見守る優しい父親の横顔。
航平はバッグを胸元に抱え直し、文乃に向かって深く一礼した。
「瀬戸さん……本当に、ありがとうございます。先ほどの約束……絶対に忘れません。お部屋のことで何か困ったことがあれば、些細なことでもすぐに呼んでください。僕にできることなら、何でもしますから」
「はい。頼りにしていますね、佐伯さん」
文乃は真っ直ぐに微笑み返した。
言葉が、自然に心を通わせていく。
もう、無理な作り笑いも、相手を試すような駆け引きも必要なかった。
廊下の換気窓から吹き込んできた夜風が、二人の間を通り抜けていく。
時計の針は、九時十五分を回ろうとしていた。
そろそろ、おやすみの時間だ。
文乃は一歩後ろへと下がり、両手を体の前で重ねた。
「じゃあ……冷めないうちに、召し上がってくださいね。夜も遅いですから」
「はい。……本当に、ごちそうさまです」
航平が柔らかく目を細めた。
そして、父親の横で、すずが小さな両手を大きくブンブンと振った。
「あやのちゃん、おやすみなさい! またあしたね!」
無邪気で、透き通った子どもの声。
文乃もまた、満面の笑みですずに手を振り返した。
「おやすみなさい、すずちゃん。いっぱい食べて、いい夢見てね」
「うん!」
文乃は視線を上げ、航平の目を見つめた。
航平もまた、文乃の視線から逃げることなく、静かに見つめ返していた。
「……佐伯さんも、今日はお疲れ様でした。ゆっくり休んでくださいね」
「はい」
航平は、噛み締めるように頷いた。
「おやすみなさい、瀬戸さん」
その声の響きは、低く、温かく、文乃の胸の奥底へと優しく染み渡っていった。
カチャリ。
三〇二号室のドアが、静かに閉じられた。
内側から鍵が掛けられる金属音が響く。けれど、その音はもはや外の世界を拒絶する冷たい遮断の音ではなかった。守るべき温かな食卓を、内側に大切に閉じ込めるための、優しい鍵の音だった。
文乃もまた、三〇一号室のドアを開け、自分の部屋へと戻った。
玄関の鍵を閉め、靴を脱ぐ。
静まり返ったワンルーム。
換気扇の止まったキッチンには、まだほんのりと、豚汁を煮出した一番出汁の香りが漂っていた。
文乃はリビングのクッションに腰を下ろし、深く息を吐き出した。
――ト、トン。
その時。
薄い壁の向こう側から、小さな音が聞こえてきた。
椅子を引く音。
続いて、タッパーの密閉蓋をパチンと外す音。
そして――。
『パパ、つくね、あまい! お汁、すっごくおいしい!』
『……本当だな。豚汁も、すごく温かいな……すず、ゆっくり噛んで食べような』
壁を隔てて漏れ聞こえてくる、親子のささやかな会話。
泣き叫ぶ声でもなく、絶望のため息でもない。
温かい湯気を囲み、笑い合いながら食事を分け合う、幸せな食卓の気配だった。
文乃は壁にそっと背中を預け、膝を抱えた。
胸の真ん中が、まるで陽だまりの中にいるかのように、ぽかぽかと温かかった。
三〇一号室と、三〇二号室。
物理的には、コンクリートと石膏ボードで隔てられた、わずか十数センチの壁一枚の距離。
けれど、昨日まで冷たく立ちはだかっていたその壁は、もう二人を隔てる障害ではなかった。
お互いの名前を呼び合い、お互いの暮らしを思い遣り、確かな約束で結ばれた二つの部屋。
窓の外を見上げると、夜空には満天の星が瞬いていた。
明日から始まる新しい日々を想いながら、文乃はそっと目を閉じ、心の中で、もう一度その名前を呟いた。
「おやすみなさい、佐伯さん。……すずちゃん」
静かな金曜日の夜は、穏やかな幸福の余韻を残しながら、優しく更けていった。




