第14話:等価交換のルール成立
あれほど激しく窓ガラスを叩きつけていた豪雨は、嘘のように勢いを弱め、いつしか静かな細波のような雨音へと変わっていた。
低く垂れ込めていた雷雲の切れ間から、夕暮れの名残をとどめた濡れた青紫色の光が差し込み、ベランダのコンクリートを柔らかく濡らしている。配管の奥へとすべての泥水を飲み干した排水溝は、時折トポン、と穏やかな水滴の音を響かせるだけで、先ほどまでの決壊寸前の緊迫感はどこにも残っていなかった。
「……佐伯さん、中に。とりあえず、中に入ってください」
「あ……いえ、滅相もないです。こんな、泥だらけの靴下のまま上がったら、お部屋が取り返しのつかないことになります」
大判のバスタオルを肩に掛けられたまま、佐伯航平は青白い唇を震わせて首を横に振った。
彼の言う通り、白いワイシャツの胸元から腹部にかけては茶色いヘドロがべっとりと染み付き、スラックスの膝下は完全に泥水を吸って重たく垂れ下がっている。捲り上げた前腕は黒く汚れ、右手の甲には擦り傷から滲んだ赤い血が、雨水と混ざり合って薄く筋を引いていた。
文乃はそんな航平の言葉など耳に入らないとばかりに、彼の逞しい二の腕を服の上からぐっと掴んだ。
「いいから! 風邪を引いちゃいます。玄関のたたきまででいいですから、早く!」
有無を言わさぬ文乃の強い力に押され、航平は申し訳なさそうに身を縮めながら、サッシを跨いでリビングを通り抜け、玄関の三和土へと移動した。
たたきには、今朝文乃がハッカ油で磨き上げたばかりの清潔なタイルが広がっていたが、航平はそこに一歩足を踏み入れることすら躊躇い、上がり框の手前で直立不動のまま固まった。
「すみません……本当に、勝手に上がり込んで……お部屋を汚してしまいました。タオルまでお借りしてしまって……」
「佐伯さん、謝らないでください!」
文乃は洗面所へと走り、熱湯で固く絞ったフェイスタオルを二枚と、救急箱、そして清潔なウールのひざ掛けを抱えて戻ってきた。
「佐伯さんが気づいて飛んできてくださらなかったら、私の部屋、今頃完全に水没してました。お気に入りのラグも、本棚も、家電も、全部ダメになって階下へ漏水事故を起こすところだったんです。お部屋の汚れなんて、雑巾で拭けば一秒で元通りになります! それよりも……これ、使ってください。顔と手を拭いて」
差し出された熱い蒸しタオル。
航平はおずおずとそれを受け取ると、両手で顔を覆った。
じゅわっ、と温かな蒸気が、雨水で冷え切っていた彼の肌を包み込む。深く息を吐き出す航平の喉から、微かな震えが漏れ聞こえた。
泥だらけだった前腕を拭い、額に張り付いていた濡れ髪を拭き上げる。文乃はその隙に、救急箱から消毒用の脱脂綿と大判の絆創膏を取り出した。
「手、見せてください」
「えっ……いや、これくらい放っておけば治りますから」
「ダメです。泥水が入ったら化膿しちゃいます。早く」
文乃が真剣な眼差しで右手を差し出すと、航平は観念したように、泥の落ちた大きな右手を恐る恐る文乃の手のひらの上へと乗せた。
指先が触れ合った瞬間、文乃はその手の大きさと、骨張った感触に息を呑んだ。
普段はキーボードを叩いているITエンジニアの手。けれど、その指先は荒れて硬く、爪の生え際には日頃の育児と家事の苦闘が刻まれている。そして今、手の甲の関節の皮膚が擦り剥け、じわりと赤い血が滲んでいた。
「……少し、しみますよ」
文乃は消毒液を浸した脱脂綿を、傷口にそっと当てた。
航平の肩がビクッと微かに強張る。けれど彼は痛みを声に出すこともなく、じっと耐えていた。
文乃は傷口の汚れを丁寧に拭い去ると、ガーゼ付きの防水絆創膏を貼り、その上から手のひらでそっと温めるように押さえた。
「……痛くありませんでしたか?」
「いえ……全然。ありがとうございます、瀬戸さん。手当てまでしていただいて……」
航平は視線を落とし、手当てされた自分の右手をじっと見つめた。
文乃は立ち上がり、「寒いですから、ひざ掛けを腰に巻いていてくださいね。今、温かいお茶を淹れますから」と言い置いてキッチンへ向かった。
火にかけた薬缶がシュンシュンと音を立てる。
文乃は深呼吸をひとつし、棚から実家の母が送ってくれた特選の静岡深蒸し茶を取り出した。普段の自分用よりも贅沢に、茶葉を急須にたっぷりと入れる。湯呑みにお湯を注いで八十度まで冷まし、茶葉の開くのを待ってから、濃い緑色の熱いお茶を二つの陶器の湯呑みに均等に注ぎ分けた。
お盆にお茶と、乾いたハンドタオルを乗せて玄関ホールへと戻る。
航平はたたきの上に置かれた段ボールの板の上に腰を下ろし、肩から大判のバスタオルを羽織ったまま、じっと自分の爪先を見つめていた。その背中は、先ほど泥水を掻き出していた時の猛烈な力強さが嘘のように、小さく丸まっていた。
「佐伯さん、どうぞ。熱いですから気をつけてくださいね」
「……すみません、いただきます」
航平は両手で湯呑みを包み込んだ。
凍えていた指先に、陶器越しに熱い温度が伝わっていく。ふう、と湯気を吹き飛ばし、一口すする。
濃い茶葉の渋みと、奥にあるまろやかな甘みが、喉を通って胃の腑へと落ちていく。航平の喉仏が大きく上下し、強張っていた表情が、目に見えてふっと緩んだ。
「……美味しいです。身体の芯に、染み渡ります」
「よかった。実家の静岡の親戚が送ってくれたお茶なんです」
文乃も上がり框の端に腰を下ろし、自分の湯呑みを両手で持った。
玄関ホールに、雨上がりの静けさと、温かい緑茶の香りが満ちていく。
二人とも、湯呑みを見つめたまま、しばらくの間言葉を失っていた。
雨漏りのパニックが去り、身体が温まったことで、二人の間にあの記憶が――火曜日の夕暮れ、あの白い封筒をめぐる痛烈な衝突の記憶が、再び静かに浮上してきたのだ。
気まずい沈黙。
けれど、それは三日前のような拒絶の冷たさではなく、互いにどう言葉を切り出すべきかを慎重に探る、痛々しいほどの優しさを孕んだ沈黙だった。
沈黙を破ったのは、航平だった。
航平は湯呑みをたたきの端に置き、両手を膝の上にきちんと揃えた。
そして、正座の姿勢のまま、文乃に向かって深く、深く頭を下げた。
額が膝につくほどの、痛烈な謝罪の礼。
「……瀬戸さん。火曜日は……本当に、失礼なことをいたしました」
低く、掠れた、けれど魂の底から絞り出されたような声だった。
「佐伯さん……」
「僕が……僕の浅はかさと、くだらない保身のせいで、瀬戸さんの温かいお気持ちを……あんな無粋な札束で踏みにじるようなことをしてしまいました。どれほど瀬戸さんを傷つけたか、あのあと自分の部屋に戻って、すずの顔を見ながら……骨身に沁みて思い知りました。本当に……申し訳ありませんでした」
航平の肩が、微かに震えていた。
彼は頭を下げたまま、堰を切ったように、自分の胸の内に渦巻いていた葛藤を吐露し始めた。
「親友に……言われたんです」
「え……?」
「僕の会社を一緒にやってる親友に、瀬戸さんからお料理をいただいていることを話したら……怒鳴られました。『独身の若い女性の時間と労力をタダで恵んでもらって、甘えきってるだけだ』『それは善意の搾取だ』と。……その言葉を聞いた時、頭を金槌で殴られたような衝撃を受けました」
航平はぎゅっと拳を握りしめた。
「妻が出ていってから、僕は……すずを一人で育てると決めた時から、誰にも迷惑をかけない、誰かの善意に寄りかかって娘を育てるような無神経な真似だけは絶対にしないと、そう誓っていたはずだったんです。それなのに、僕は瀬戸さんの『作りすぎたから』という優しい嘘に甘えて……タダで美味しいご飯をいただいて、すずの偏食が治ったことに胡坐をかいて、満足していました」
頭を下げたままの航平の瞳から、ポロリと一筋の雫がたたきの上に落ちた。
「でも、瀬戸さんがどんな思いで野菜を刻んで、出汁を引いてくださっていたのか……その時間と労力を考えたら、タダで受け取り続ける自分が、どうしても許せなかったんです。……だから、お金を払わなきゃいけないと思いました。対価を払って、ちゃんとした関係にしなければ、僕は瀬戸さんの優しさを食い物にするだけの、最低の男になってしまうと……怖かったんです」
「佐伯さん……」
「でも、それは僕の傲慢でした」
航平は顔を上げた。
その瞳は赤く潤み、けれどそこには、言い訳を一切削ぎ落とした男の誠実さが宿っていた。
「瀬戸さんの料理は、お金で買えるようなものじゃありませんでした。出汁の甘みも、すずのために皮を剥いてくれたカボチャも、すりおろしてくれたカレーも……すべて、瀬戸さんの優しさと心が詰まったものでした。それを……札束で買い叩くような真似をしてしまった。僕にとって、瀬戸さんの料理は……暗闇の中で溺れかけていた僕とすずの、たったひとつの光だったんです。救いだったんです。……それなのに、あんな無神経なやり方で傷つけてしまって……本当に、取り返しのつかないことをしたと、後悔しています」
航平の告白は、痛々しいほどに不器用で、そして真っ直ぐだった。
文乃の胸の奥で、三日間ずっと重たく冷えていた氷の塊が、じわりと温かい涙となって溶け崩れていく。
――この人は、本当に逃げていたわけじゃなかった。
――私を都合のいい家政婦扱いしようとしたわけでも、見下していたわけでもなかった。
ただ、真面目すぎるあまりに。
一人の大人の男として、父親として、他人の人生や時間を搾取してはならないという鉄のような責任感を背負い込むあまりに、不器用な札束という形でしか自分を守れなかったのだ。
文乃は湯呑みを置き、上がり框から静かに腰を浮かせた。
そして、航平と同じように、たたきの上に両膝をつき、まっすぐに頭を下げた。
「……瀬戸さん!?」
驚いて顔を上げる航平に対し、文乃は深々と礼をしたまま、静かに口を開いた。
「私の方こそ……ごめんなさい、佐伯さん」
「え……?」
「私、火曜日に……ひどいことを言いました。『迷惑な施しだったんですね』なんて……佐伯さんの気持ちも考えずに、自分のプライドばかりを優先して、ドアを叩きつけて追い出してしまいました」
文乃はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、涙が溢れていたが、唇には柔らかく温かな笑みが浮かんでいた。
「佐伯さんが、私の時間や労力を大切に思ってくださっていたこと……本当は、分かっていたんです。タッパーを指紋ひとつ残さずに洗ってくださったことも、几帳面な付箋を書いてくださったことも、全部……佐伯さんの誠実さだったのに。私、自分の善意を否定されたような気がして、カッとなってしまって……本当にごめんなさい」
「瀬戸さん……そんな、頭を上げてください。瀬戸さんが謝ることなんて、何ひとつありません……!」
航平は慌てて両手を伸ばしかけ、けれど触れることを躊躇うように空中で指を止めた。
二人の視線が、至近距離で交錯する。
互いに頭を下げ合い、互いに相手の傷を思い遣り、自分を責め合っている。そのあまりにも不器用で真っ直ぐな姿に、文乃の口元から、ふっと微かな笑みがこぼれ落ちた。
「……ふふ」
「瀬戸さん……?」
「私たち、似た者同士ですね。お互いに遠慮しすぎて、真面目すぎて……空回りしてばかり」
文乃の言葉に、航平もまた目を丸くし、それから情けなそうに、けれど心底安堵したように眉を八の字に下げた。
「……本当に、そうですね。情けないです」
冷たい風が、玄関のドアの隙間からすっと吹き抜けていく。
けれど、二人の間の空気は、先ほど淹れたばかりの深蒸し茶のように、どこまでも温かく澄み渡っていた。
文乃は膝の上に手を置き、呼吸を整えた。
ここからが、本題だった。
火曜日のような悲劇を、二度と繰り返さないために。
航平が罪悪感に押し潰されることなく、文乃もまた自分の料理を心から楽しんで届けることができる、健全で対等な関係を築くために。
「佐伯さん」
「はい」
「私、やっぱり……お金は受け取れません」
文乃ははっきりと、けれど柔らかな声で告げた。
「お金をもらってしまったら、それは『仕事』になってしまいます。メニューを考えたり、味付けを工夫したりする楽しさが、全部義務になってしまう。私は、自分の趣味で作った料理を、誰かが『美味しい』って笑って食べてくれる……その瞬間が、何よりも幸せなんです。すずちゃんがカボチャを食べてくれた時の笑顔や、佐伯さんがカレーをおかわりしてくれたこと……それだけで、私にとっては十分すぎる報酬なんです」
「ですが……それじゃあ、僕たちは一方的に受け取るだけで、瀬戸さんに甘え続けることになってしまいます。それだけは……どうしても耐えられません」
航平の瞳に、再び頑なな自制心が影を落としかける。
文乃はその影を吹き飛ばすように、悪戯っぽく口角を上げた。
「ですから、提案があるんです」
「提案……ですか?」
「はい」
文乃は指を一本、スッと立てた。
「佐伯さんが、どうしてもタダでご飯を食べるのが心苦しいと仰るなら……私の苦手なことを、佐伯さんが代わりにやってくれませんか?」
「え……? 瀬戸さんの、苦手なこと?」
航平は目を白黒させた。
文乃は立ち上がり、リビングの天井を見上げた。
「私、背が低いので……高いところの作業が本当に苦手なんです。キッチンの換気扇のフィルター掃除も、お風呂場の高いところのカビ取りも、いつも手が届かなくて放置しがちで。それに、電球が切れた時も、椅子の上にプルプル震えながら乗って交換してるんです」
さらに、文乃はリビングのテレビの裏にぐちゃぐちゃに絡まっている配線や、デスクの上のノートパソコンを指差した。
「あと、機械や力仕事全般! 通販で買ったカラーボックスを組み立てるのも、ネジが曲がっちゃって半日かかりますし、パソコンの動作が重くなったり、Wi-Fiの調子が悪くなったりすると、もう何が何だか分からなくて泣きたくなるんです」
文乃は再び航平へと向き直り、両手を腰に当てて胸を張った。
「佐伯さんは、ITのエンジニアですよね? それに、さっきの排水溝の詰まり……あんなに錆びついてビクともしなかった金具を、工具を使って、ほんの数分でこじ開けて直しちゃいました。あんなの、私一人じゃ逆立ちしたって絶対に無理でした」
航平は呆然と文乃を見上げていた。
文乃は一歩踏み込み、たたきの上に座る航平の目線をまっすぐに見つめた。
「お金はいりません。その代わり――私の部屋の電球が切れた時。家具の組み立てが必要な時。パソコンの調子が悪い時。そして、今日みたいに力仕事が必要な時。……私のことを、助けてくれませんか?」
「…………っ」
航平の喉が、息を呑んで止まった。
「そんな……そんなことで、いいんですか?」
航平の声が震えていた。
「電球の交換や家具の組み立てなんて……僕にとっては、日常の些細な作業です。PCのトラブルシューティングだって、本業ですから造作もないことです。そんなことで……瀬戸さんのあんなに手の込んだ、命を削るようなお料理と引き換えになるなんて……釣り合っていません」
「釣り合っています!」
文乃はきっぱりと言い切った。
「佐伯さんにとっては些細なことでも、私にとっては泣くほど困る大問題なんです。逆に、私にとっては楽しくて仕方がない料理が、今の佐伯さんにとっては毎晩の過酷な負担になっている。……だったら、お互いの得意なことを交換すればいいじゃないですか」
文乃はふわりと微笑み、両手を広げてみせた。
「私は料理が好きだから、余分に作って届ける。佐伯さんは機械や力仕事が得意だから、私が困った時に腕を貸してくれる。……これなら、どちらかが一方的に搾取されていることにはなりません。立派な『等価交換』です。これでお互い様、文句はありませんよね?」
「等価、交換……」
航平はその言葉を、舌の上で転がすように何度も反芻した。
目から鱗が落ちるような衝撃。
金を払うか、完全に拒絶するか――その二者択一しかないと思い詰め、自分を崖っぷちまで追い込んでいた航平の目の前に、文乃はまったく新しい、けれどあまりにも温かく健全な第三の道を切り拓いてくれたのだ。
施しではない。慈善事業でもない。
隣人同士が、互いの得意な手札を持ち寄り、互いの欠けたピースを埋め合って生きていくという、暮らしの知恵。
「……瀬戸さん」
航平の双眸から、頑なだった警戒と恐怖の光が完全に消え去っていた。
代わりにそこに宿ったのは、澄み渡るような安堵と、この女性に対する底知れぬ敬意、そして胸の奥底から湧き上がる熱い感謝だった。
航平は立ち上がった。
泥だらけのスラックスのまま、バスタオルを羽織った長身を真っ直ぐに伸ばす。
そして、大判の絆創膏が貼られた右手を、迷うことなく文乃の前へと差し出した。
「……はい! 喜んで、引き受けさせていただきます!」
力強く、澄んだ男の声が、玄関ホールに響き渡った。
「電球の交換でも、家具の組み立てでも、PCのクリーンアップでも……僕にできることなら、夜中でもいつでも呼んでください。どんな力仕事でも、全身全霊でやらせていただきます!」
「ふふ、頼もしいです」
文乃は破顔し、差し出された航平の右手を、自分の両手でしっかりと握りしめた。
キュッと結ばれた手のひら。
航平の手は、骨太で、大きく、先ほどまでの冷たさが嘘のように、カッと熱い体温を取り戻していた。傷口を保護した絆創膏のガーゼ越しに、力強い男の脈動が文乃の指先へとダイレクトに伝わってくる。
文乃の柔らかな手の温もりに触れ、航平の耳元が、ほんの少しだけ赤らんだ。
けれど、彼は今度は手を引かなかった。
しっかりと、互いの体重を預け合うように、力強くその握手を交わし続けた。
「じゃあ……契約成立ですね、佐伯さん」
「はい。契約成立です、瀬戸さん」
二人の顔に、同時にこぼれ落ちた笑み。
外の空気が、ふわりと澄んだ夜の匂いを運んできた。
雨は完全に止んでいた。雲の切れ間から覗いた夜空には、洗われたばかりの星がひとつ、ふたつと瞬き始めている。
壁一枚を隔てた三〇一号室と三〇二号室の間にあった、分厚く冷たい鉄の壁は、もうどこにも存在しなかった。
そこにあるのは、お互いの暮らしを支え合い、認め合うための、確かな約束の架け橋だった。




