第27話:代理のお迎え
駅前のスーパーの自動ドアを出た瞬間、瀬戸文乃の手元のスマートフォンが、バッグの奥底で激しく震えた。
時刻は午後六時四十九分。
木曜日の定時退社を終え、夕飯の買い物――週末の作り置きにも使える根菜と、新鮮な卵、豆腐を詰めたエコバッグを肩にかけ、初夏の微風に吹かれながらマンションへ向かおうとしていた矢先のことだった。
画面に浮かび上がっていたのは、見慣れた『佐伯航平』の文字。
普段ならLINEのメッセージで、しかも丁寧な敬語と幾重もの前置きを添えて連絡してくる生真面目な男が、直接音声通話をかけてくるなど、これまでに一度たりともなかった。
嫌な胸騒ぎが、冷たい針のように文乃の胸の真ん中を貫く。
通話ボタンをスワイプし、耳元に当てた。
「もしもし、佐伯さん?」
『瀬戸さん……っ!! 本当に、本当に身勝手なお願いなのは承知の上なんですが……っ!!』
スピーカーの向こうから飛び込んできたのは、息も絶え絶えな、喉を血で滲ませたかのような航平の悲鳴だった。
背景からは、けたたましいアラートの電子音と、怒号のような男たちの声が微かに漏れ聞こえてくる。
『会社の決済システムで、致命的な障害が発生してしまって……僕が今ここを離れると、会社が、すべてが終わってしまうんです。シッター会社も、派遣サービスも、どこも当日対応が全滅で……でも、あおぞら保育園のお迎え上限が、二十時なんです。あと一時間を切っていて……すずが、すずが一人きりで、園に取り残されてしまう……っ!』
男の喉が激しく痙攣し、呼吸が浅く乱れているのが、電波越しにも痛いほど伝わってきた。
他人に迷惑をかけることを何よりも恐れ、独身女性の善意に甘えることを自らに厳しく禁じていたあの男が、今、すべてのプライドをかなぐり捨てて、必死に娘を救おうと叫んでいる。
文乃は立ち止まり、深く息を吸い込んだ。
迷う余地など、最初から一秒たりとも存在しなかった。
「佐伯さん」
文乃の声は、自分でも驚くほど落ち着いており、そして力強かった。
「状況は分かりました。今、私は駅前にいます。すぐに走れば、十分であおぞら保育園に着きます」
『え……っ!?』
「すずちゃんのお迎え、私が行きます。だから佐伯さんは、お仕事に集中してください」
『で、でも、瀬戸さんにそんな……他人の子どもの引き取りなんて、そんな重たい責任を押し付けるわけには……!』
「佐伯さんッ!」
文乃は電話口で、ピシャリと強い声を張り上げた。
「すずちゃんを一人で泣かせたいんですか!? 今は大人の意地や遠慮を言っている場合じゃありません! すずちゃんを迎えに行けるのは、今、私しかいないんです! ……信じて任せてください!」
『…………っっっ』
受話器の向こうで、航平が息を呑み、小さく嗚咽を漏らすような気配がした。
『……園には、僕から今すぐ直通電話を入れます。瀬戸さんの名前を、以前……万が一のために提出してある【緊急連絡代理人名簿】の末尾に、追加登録してあるんです。身分証を持っていれば、引き渡しを受けられるはずです……!』
「分かりました。運転免許証と保険証、両方持ってます。すぐに向かいますから、佐伯さん、落ち着いてキーボードを叩いてください。……すずちゃんは、私が絶対に守ります」
『文乃さん……っ、頼みます……!』
通話が切れた瞬間、文乃は踵を返した。
肩にかけていた重たいエコバッグを左腕に抱え直し、パンプスの踵をアスファルトに強く打ち付ける。
初夏の生ぬるい夜風を切り裂きながら、文乃は駅前通りを脇目も振らずに疾走し始めた。
――あおぞら保育園へ。
すずちゃんが待っている、あの場所へ。
息が上がり、肺が熱く焼けるようだった。足首が軋み、パンプスの硬い革が爪先を圧迫するが、足を緩める気には到底なれなかった。
あの不器用な父親が、どれほどの絶望の中で電話をかけてきたか。
そして何より、夕暮れが過ぎ、友達が一人、また一人と親の手を握って帰っていくホールで、小さな身体を縮こまらせて父親を待ち続けているであろう、あの少女の心細さを想うと、胸が張り裂けそうだった。
信号を渡り、住宅街の路地を駆け抜け、住宅街の角を曲がる。
見えてきたのは、街灯の下にひっそりと佇む、二階建てのクリーム色の建物――『あおぞら保育園』だった。
昼間の賑やかな喧騒が嘘のように、園舎の明かりはほとんど落とされ、一階の職員室と玄関ホールだけに、ぽつんとオレンジ色の照明が灯っていた。
時計の針は、午後七時十分。
文乃は呼吸を整えようと胸元を押さえながら、門扉を押し開け、玄関のインターホンのボタンを力いっぱいに押し込んだ。
ピン、ポーン――。
インターホンのスピーカーから、すぐに返答があった。
『はい、あおぞら保育園です』
「夜分遅くに申し訳ありません! 佐伯すずちゃんの代理人でお迎えに上がりました、瀬戸文乃と申します!」
インターホンの向こうでハッと息を呑む気配がし、数秒後、重い自動ドアのロックが解除された。
カチャリ、と扉が開き、文乃が玄関ホールへと滑り込むと、奥の職員室から小走りで駆け寄ってくる人影があった。
担任の男性保育士――柏木創だった。
エプロン姿の柏木は、肩で息をする文乃の姿を一目見るなり、安堵と敬意の入り混じった柔らかな表情を浮かべた。
「瀬戸さんですね! お待ちしていました。先ほど、佐伯航平さんご本人から、園長室の直通電話に切迫したお電話をいただきました」
「ご、ご迷惑をおかけして本当にすみません……! 佐伯さんのお仕事で緊急のシステム障害が発生してしまって、どうしても抜けられないそうで……」
「ええ、状況はすべて伺いました。航平さん、本当に泣きそうな声で『お隣の瀬戸さんが向かってくれている、どうか娘を引き渡してほしい』と仰っていましたよ」
柏木はそう言うと、受付カウンターのバインダーを手際よく開き、文乃へと差し出した。
「航平さん、新学期が始まった四月の初旬に、園の【緊急時引き渡し代理人登録票】の更新書類を出してくださっていたんです。通常は祖父母や親族を書く欄なんですが、航平さんは遠方でご両親が来られないからと、事前に瀬戸文乃さんのお名前とご住所を、代理人の第三希望として登録してくださっていました。ですから、手続きは極めて正規のものです」
「四月に……佐伯さんが……」
文乃の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
あの人は、ずっと前から考えていたのだ。
自分に何か突発的な事態が起きた時、すずを一人ぼっちにしないための最後の砦として、文乃の名前をそこに託してくれていた。それは、文乃に対する深い、深い信頼の証に他ならなかった。
「身分証の確認をさせていただきますね」
「はい、運転免許証です」
文乃が財布から取り出した免許証を、柏木は台帳の登録情報と照合し、丁寧に確認印を押した。
「確認いたしました。手続きは完了です。……瀬戸さん、本当にありがとうございます。航平さんのあの取り乱し方、もし瀬戸さんが来てくださらなかったら、どんなことになっていたか……」
「いいえ、お礼なんて……すずちゃんは、どこですか?」
「こちらです。ホールの一角でお預かりしています」
柏木が促し、文乃は靴を脱いでホールの廊下へと足を踏み入れた。
昼間は何十人もの園児たちの歓声で満ち溢れていた広いホール。
けれど今、その広い空間には、他の園児の姿は一人もいなかった。片付けられた絵本棚の隅、小さな丸テーブルの横に、ぽつんとひとつの小さな人影が座り込んでいた。
佐伯すずだった。
ミツバチのTシャツにデニムのサロペット。
床に散らばった数個のプラスチックブロックを、小さな手で無言のまま、ただカチャ、カチャと積み上げては崩し、積み上げては崩していた。
その背中は、広いホールの中で信じられないほど小さく、痛々しいほどに丸まっていた。
玄関の自動ドアが開くたびに、他の友達が「ママ!」「パパ!」と笑顔で飛びついて帰っていった。
その光景を、あの子はどんな思いで見つめ続けていたのだろう。
自分だけが取り残され、時計の針が進み、外が真っ暗になっていく恐怖。
父親が来ない不安。
けれど、ここで泣いてしまえば迷惑がかかるとでも知っているかのように、すずは小さな唇を固く引き結び、涙を必死に奥歯で噛み殺して、耐え続けていたのだ。
「すずちゃん」
文乃は、喉の奥から絞り出すように、けれど世界で一番優しい声で呼びかけた。
ピクッ、とすずの小さな肩が跳ねた。
すずはゆっくりと、恐る恐る振り返った。
その瞳は、限界まで我慢していた涙でいっぱいに濡れ、真っ赤に充血していた。
そして――そこに立っているのが、パパでもなく、見知らぬシッターでもなく、大好きなエプロンの匂いのする『あやのちゃん』だと認識した瞬間。
「…………っ、あ……」
すずの小さな唇が震えた。
持っていたプラスチックのブロックが、カラン、と手から滑り落ち、床に転がる。
「あやの……ちゃん……?」
「すずちゃん!」
文乃が両手を広げてしゃがみ込んだ、その瞬間だった。
「あやのちゃぁぁぁぁぁぁんっっっ!!!!」
ダムが決壊したかのような、激しい泣き声がホール中に響き渡った。
すずは短い足を必死に動かし、床を蹴り飛ばすようにして走ってきた。
そして、文乃の腰元へ、弾丸のように突っ込んできたのだ。
ドサッ、と文乃の身体に小さな体重が激突する。
二本の短い腕が、文乃の首筋にぎゅううううっと力いっぱいに巻きつけられた。
「うわああぁぁぁぁんっ! あやのちゃん、あやのちゃんっっ!! パパ、こないのぉぉぉっ! すず、ひとりぼっちだったのぉぉぉっっ!!」
すずは文乃のブラウスの胸元に顔をぐしゃぐしゃに押し当て、火がついたように泣きじゃくった。
小さな身体が、恐怖と心細さでガタガタと激しく震えている。
堪えていたのだ。ずっと、ずっと、パパを困らせないために、先生の前で泣かないように、小さな胸が張り裂けそうなほどの寂しさを一人で抱え込んでいたのだ。
文乃の目からも、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
文乃はすずの小さな背中を、折れそうなほど強く、けれど壊れ物を扱うように優しく、両腕でしっかりと抱きしめた。
「ごめんね……ごめんね、すずちゃん。待たせちゃって、本当にごめんね」
文乃はすずの汗ばんだ頭を、何度も、何度も手のひらで撫でた。
「パパね、お仕事ですっごく大変なことになっちゃって、どうしても今すぐ来られなくなっちゃったの。でもね、パパ、すずちゃんのこと絶対に忘れてないよ。『すずを助けてほしい』って、泣きそうな声でお姉ちゃんにお願いしてくれたんだよ」
「パパ……パパ、すずのこと、すき……?」
「大好きに決まってるじゃない! 世界で一番、すずちゃんのことが大好きなんだよ!」
文乃はすずの涙に濡れた小さな顔を両手で包み込み、額をそっと合わせた。
「パパは今、すずちゃんのために一生懸命お仕事頑張ってるから。今日はお姉ちゃんのおうちで、パパのこと一緒に待ってようね。美味しいもの作って、温かいお風呂に入って、パパが帰ってくるのを待ってよう? ね?」
すずは文乃の澄んだ、温かな瞳をじっと見つめた。
そこに映っているのは、嘘偽りのない、自分を心から愛し、守ってくれようとしている大人の光だった。
すずはしゃくりあげながら、袖口で鼻水を拭い、こくりと力強く頷いた。
「……うん。あやのちゃんのおうち、いく……」
「うん、お利口さんね」
文乃は立ち上がり、すずの涙を自分のハンカチで丁寧に拭い去った。
下駄箱の前にいた柏木先生が、黄色いキルティングの通園バッグ――先週文乃が縫い付けた、あのミルクティー色のクマのワッペンがついたバッグを手に持ち、静かに歩み寄ってきた。
柏木の目頭も、微かに赤らんでいた。
「すずちゃん、よかったね。あやのちゃんが来てくれて」
「うん……柏木せんせい、ばいばい」
「うん、また明日ね、すずちゃん。明日も給食いっぱい食べようね」
柏木はバッグをすずの肩に優しく掛け、それから文乃に向き直った。
そして、保育士としての、そして一人の人間としての深い敬意を込めて、直角に近い角度で深々と頭を下げた。
「瀬戸さん」
「はい」
「航平さんも、すずちゃんも……本当に、あなたに救われています」
柏木の低く、澄んだ声が、静かな玄関に響いた。
「一人親の家庭が社会で孤立していくケースを、僕は今まで嫌というほど見てきました。航平さんのような真面目な方は特に、誰にも頼れずに自滅してしまうことが多いんです。……でも、航平さんの隣に、瀬戸さんがいてくださって本当によかった。心から、感謝します」
「柏木先生……」
「すずちゃんを、よろしくお願いします」
「はい。大切に、お預かりします」
文乃は力強く頷き、すずの手をぎゅっと握りしめた。
あおぞら保育園の自動ドアを出ると、外はすっかり濃紺の夜の闇に包まれていた。
五月の風が、火照った二人の頬を心地よく撫で上げていく。
すずは、もう泣いていなかった。
文乃の左手を両手でしっかりと抱きかかえるようにして握りしめ、時折小さく鼻をすすりながらも、文乃の歩幅に合わせて前へ前へと歩いていた。
街灯の明かりが、アスファルトの上に二つの影を並べて落とす。
ひとつの大きな影と、ひとつの小さな影。
すずの肩に揺れる黄色い通園バッグのクマのワッペンが、夜の街灯に照らされて、誇らしげに光っていた。
「あやのちゃん」
ふいに、すずが小さな声で見上げてきた。
「なあに、すずちゃん?」
「パパ……今日、帰ってくる?」
「帰ってくるよ。遅くなっちゃうかもしれないけど、絶対に帰ってくる。だから、パパが帰ってきたら『お仕事お疲れ様』って、ギュッてしてあげようね」
「うん! すず、パパにギュッてする!」
すずの顔に、いつもの愛らしい笑顔が戻っていた。
文乃はすずの手を握る力を、ほんの少しだけ強めた。
マンションの三〇一号室。
今夜は、一人分の静かな部屋ではない。
傷つき、怯え、けれど必死に耐え抜いたこの小さな命を、全身全霊で温めて迎えるための、愛の食卓が待っている。




