9話
家に向かう帰り道。
夕方の風が、少しだけ強くなっていた。
咲はいつものようにメガネを押し上げながら歩いている。
その隣を、優がぼんやりした顔のままついてきていた。
「ちょっと待って」
咲が立ち止まる。
鞄のファスナーを閉め直そうとした、その瞬間だった。
風がふっと吹く。
「あ――」
指先が少し引っかかって、メガネがするりと外れた。
「あっ」
慌てて掴もうとする。
でも間に合わない。
視界が一気にぼやけて、世界の輪郭が曖昧になる。
「おい、大丈夫か?」
優の声が、すぐ近くで聞こえた。
咲は反射的に顔を上げる。
その瞬間。
真正面で優と目が合った。
一瞬だけ、時間が止まる。
優の表情が、ほんの少し固まった。
咲の方はもっとだ。
(やばい)
メガネ越しじゃない優は、思ったより距離が近い。
ぼやけてるはずなのに、妙にはっきり存在感だけある。
逃げ場がない。
「……見んな」
反射的にそう言って、すぐ目をそらす。
優は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
「いや無理だろ。目合ってんのに」
「合ってないし」
「合ってた」
「合ってない」
咲はしゃがみ込みながら、必死にメガネを探す。
指先が少し震えているのが、自分でも分かった。
優は先にメガネを拾うと、咲に差し出した。
「ほら」
「……ありがと」
受け取る手が、少しだけ早い。
咲は急いでメガネをかけ直した。
やっと呼吸が戻る。
優はそのまま立ち上がって、咲を見下ろした。
「お前さ」
「なに」
咲はメガネを押し上げながら返す。
優は少しだけ間を置いてから言った。
「今の顔、普通にびびった」
「うるさい」
即答。
でも耳が熱い。
優は軽く笑う。
「昔もそうだったな」
「何が」
「メガネないと、別人みたいになるの」
咲は一瞬固まる。
「……覚えてるの、それ」
優は肩をすくめた。
「そりゃな」
何でもないことみたいに言う。
でも、咲の方は全然何でもなくなっていく。
咲はメガネを押し上げて、わざと強い声を出した。
「はいはい、もういいから行くよ」
優は一瞬だけ咲を見て、少し笑う。
「はいよ」
また二人で歩き出す。
でも、優の横顔は、さっきより少しだけ柔らかかった。
咲は前を向いたまま、心の中でだけ小さくため息をつく。
(……やめてほしい、こういうの)
なのに足は、ちゃんと優の隣を歩いていた。




