第9章 鏡の中のユイ
御影ユイが二人になったのは、夜明け前だった。
悲鳴を聞いて終夜アスカが洗面所へ駆け込むと、同じ顔が向かい合っていた。
二人とも右腕に包帯を巻いている。
二人とも左側の髪に長いピンを留めている。
二人とも、相手を指さして叫んだ。
「そっちが偽物!」
洗面台の鏡には布がかけられていた。床にスマートフォンが落ち、紙の覆いが外れている。画面は割れ、その暗い表面に二人のユイが映っていた。
「誰も近づくな」
アキラが入口を塞ぐ。
「鏡も画面も見ない。二人を別々にする」
「待って、私をあいつと同じに扱わないで」
右側のユイが言う。
「それ、私の台詞」
左側も同じ声で返した。
二人は別室へ移された。
本物を確かめるための質問が始まる。
誕生日。住所。家族。昨日の食事。マドカの記憶についてアスカと交わした会話。
答えはすべて同じだった。
「生成された時点まで、本物と同じ記憶を持つ」
リクは記録を見比べる。
「石碑の説明どおりなら、質問では判別できない」
「癖なら?」
ナナが言う。
「御影さんは噂話をする前、相手が逃げられる方向を見る」
右のユイも、左のユイも、出口を見た。
「こういうこと?」
同時に言い、同時に顔をしかめる。
アスカは二人を見た。
どちらも怖がっている。
本物であることを証明できない怖さ。偽物と決められれば、殺されるかもしれない怖さ。
「二人ともユイじゃ駄目なの?」
雨宮ナギサが尋ねた。
「能力の説明には、本物と入れ替わろうとするってあった」
セラが答える。
「どちらかが本体を排除しようとする可能性がある」
「可能性で一人を偽物にするの?」
「放置して被害が増えたら?」
また同じ形の問いだった。
マドカのときと同じ。
何もしない危険と、決める危険。
「本人たちに聞こう」
ミサキが言った。
「二人で生きることを受け入れられる?」
右のユイが先に答えた。
「無理」
左のユイも、少し遅れて首を振った。
「だって、私の家に帰るんでしょ。私のお母さんをお母さんって呼んで、私の友達に私の顔で会う。そんなの」
「私だって同じこと思ってる」
二人の声が重なる。
昼まで話し合いは続いた。
二人を別々の班に置く。一人ずつ監視する。帰還できた場合のことは今決めない。どちらも本物として扱う。
暫定案が決まった。
右側のユイはユイA、左側はユイBと呼ばれることになった。
「最低」
二人が同時に言った。
「名前まで奪うの?」
零崎ナナが名簿を閉じた。
「AとBは管理上の記号。呼ぶときは二人ともユイさんでいい」
「振り向いたら二人とも返事するよ」
「それでいいじゃない」
ナナは真顔だった。
二人の生活用品も分けられた。
同じ鞄をどちらが持つか。一本しかない歯ブラシをどちらのものとするか。母親からもらったという小さな鏡は、危険物として布に包まれた。
「それは私の」
二人が同時に言った。
鏡の裏には、油性ペンで「ユイへ」と書かれている。
「半分に割る?」
カレンが提案し、すぐに自分で首を振った。
「鏡を割るのはまずいか」
「物の問題じゃない」
ユイAが言う。
「お母さんが私にくれた」
「私にもくれた」
ユイBが答える。
二人の間にあるのは、片方だけが嘘をついている争いではなかった。どちらの言葉も本人にとって本当だった。
昼食では、二人とも同じ味を好み、同じ順番で乾燥食を残した。誰かが冗談を言うと、一拍遅れて同じ箇所で笑う。
その一致を見れば見るほど、クラスメートは不安になった。
「分身なら、少しくらい違ってくれればいいのに」
ナギサがアスカへ囁く。
「違ったら偽物って決めるの?」
「決めたくないよ。でも、決めなくていい方法が見つからない」
残ったユイの右腕の傷をメイが診る。もう一人の同じ場所にも同じ傷があったが、治り方がわずかに違った。
「こっちのほうが赤い」
セラが指摘する。
「生成された時刻が違うから」
リクが記録する。
「差が広がれば、時間経過で別人になる」
「じゃあ今は?」
アスカが尋ねる。
「生成直後から別個体だ」
「個体じゃなくて、人として」
リクは答えに詰まった。
ユイたちはその会話を聞いていた。
「私たちが目の前にいるのに」
一人が言う。
「研究発表みたいに話さないで」
判定しようとする行為そのものが、二人を人間から遠ざけていた。
夜、アスカはユイBの監視を担当した。
教室から反射物は運び出され、窓には毛布が掛けられている。二人は離れて床に座った。
「どっちだと思う?」
ユイが尋ねる。
「分からない」
「嘘。アスカ、人の癖を覚えてるでしょ」
「二人とも同じ癖がある」
「じゃあ、私が偽物でも分からない?」
「うん」
ユイは膝へ顔を埋めた。
「本物だったら、分かってもらえないのが怖い。偽物だったら、自分が偽物だと分からないのが怖い」
「どっちでも、いま怖いのは本当だと思う」
ユイが顔を上げる。
「それ、慰め?」
「分からない」
「アスカって、分からないってよく言うよね」
「うん」
「でも、分かったふりされるよりいいか」
深夜、廊下で物音がした。
アスカが扉へ目を向けた瞬間、ユイBが立ち上がった。
「待って」
扉が開く。
入ってきたのはユイAだった。
監視役の姿がない。
「どうして」
ユイBが後ずさる。
「あの人、眠った。ネムの声が廊下から聞こえたみたい」
「嘘」
「本当。私、話がしたくて」
二人が向かい合う。
アスカは間へ入った。
「近づかないで」
「アスカには関係ない」
どちらが言ったのか分からなかった。
「これは私の人生だから」
「私の人生だよ!」
ユイAが飛びかかった。
二人が床へ倒れる。包帯がほどけ、同じ場所から血がにじむ。
アスカは腕をつかもうとした。どちらに触れればいいか一瞬迷った。
その一瞬に、銀色の光が走った。
割れたスマートフォンの破片だった。
一人のユイが、もう一人の胸へ突き立てている。
「やめて!」
アスカが腕を引く。
破片が落ちた。
刺されたユイは胸を押さえ、床へ崩れる。
もう一人が顔を青くした。
「違う。殺すつもりじゃ」
足音が近づく。
ミサキ、メイ、アキラが駆け込んだ。
メイが傷口を押さえる。血が指の間からあふれる。
「名前を呼んで」
久遠エマが遅れて入ってきた。
「意識をつないで。ユイ、聞こえる?」
床のユイが、アスカを見た。
「どっち」
声にならない息が漏れる。
「私、どっちだった?」
アスカは膝をついた。
「御影ユイ」
姓と名を呼ぶ。
「秘密を話す前に、相手の逃げ道を見る。怖くても、マドカのことを私に聞かなかった」
それがどちらのユイだったかは分からない。
「覚えてる」
ユイの唇が動く。
「じゃあ、それで」
息が止まった。
アスカの胸へ、記憶が流れ込む。
鏡の前で髪を結ぶ朝。
姉と比べられた食卓。
洗面所で画面を拾い、そこに映った自分が先に瞬きをした瞬間。
本物なのか、分からない。
死んだユイ自身も、最後まで分かっていなかった。
残ったユイが壁際で震えている。
「私が本物」
誰に言うでもなく繰り返す。
「私が、本物だから」
アスカの中で《鏡像感染》が目を開けた。
窓を覆う毛布の裏で、鏡のようなものが笑った。




