第6章 最初の死
試験に使うはずだった非常食は、二袋になっていた。
円城マドカは体育倉庫の前で、それを両手に持っていた。
「ごめん」
笑っている。
終夜アスカは、その笑い方を知っていた。
「夜、運ぶときに落として。拾おうと触ったら、二つになった」
「どうしてすぐ言わなかったの」
天城ミサキの声が硬くなる。
「言おうとしたよ。でも、増えただけだったし。朝まで変わらなかったから」
袋は見た目も重さも同じだった。賞味期限の印字、角の小さな汚れまで一致している。
真壁リクが手袋越しに一袋を調べる。
「完全な複製に見える」
「食べられるかは分からない」
毒島メイが封を開け、匂いを確かめる。
「少量だけ確認する。すぐ全員には配らない」
「ほら、成功じゃん」
マドカの声が明るくなる。
ミサキは笑わなかった。
「昨日の規則を破った」
「わざとじゃないって」
「起きたことを隠した」
「隠してない。言うのが朝になっただけ」
二人の間へカレンが入る。
「まず試験を止めよう。説教はあと」
だが食料が二つになった事実は、すぐ全員へ広まった。
空腹は恐怖より声が大きい。
「一晩増えてないなら安定してる」
「箱ごと増やせば早い」
「水もいけるんじゃない?」
体育倉庫の周りに人が集まる。
アキラは試験続行を決めた。
「事故は報告の遅れだ。能力そのものは制御できている可能性が高い」
「可能性で進めるの?」
ミサキが言う。
「街へ行く危険と比べてる」
「またそれ」
「ほかに数字で比べられる案があるか?」
アスカはマドカを見た。
彼女は自分の分を最後に取る。
中学から同じクラスだったわけではない。親しく話した回数も多くない。それでも、昼休みに菓子を配る姿を何度も見た。
袋に五個しか入っていないとき、マドカは「私、甘いの苦手だった」と言う。
本当は一番好きなくせに。
「一回だけ」
マドカが言った。
「私が触る。増えたら離れる。それで終わり」
試験場所は体育倉庫の中央。
周囲五メートルから用具を運び出した。対象の非常食は床へ置く。マドカ以外は入口の外に立ち、ゴウがいつでも扉を閉められるよう構えた。
「怖かったらやめていい」
アスカが言った。
「怖いよ」
マドカは眼鏡を押し上げる。
「でも、成功したら朝ご飯増えるよ」
しゃがみ、袋へ手を置いた。
何も起きない。
十秒。二十秒。
「増えて、って思えばいいのかな」
「待って」
ミサキが止めるより先に、袋の輪郭がぶれた。
一つが二つになる。
音はなかった。右隣に、同じ袋が初めからあったように現れた。
マドカは手を離した。
「できた」
二袋は動かない。
一分経っても増えない。
リクが時刻を記録する。セラが呼吸と意識状態を尋ねる。マドカは立ち上がり、両手を見せた。
「平気。何ともない」
外で歓声が起きた。
それが早すぎた。
マドカが出口へ歩く。
靴の踵が、増えた袋の角に触れた。
輪郭がぶれる。
二つが四つになった。
「動かないで!」
ミサキが叫ぶ。
マドカは足を上げたまま固まった。
四つが八つになる。
「触ってない」
マドカの声が震える。
「もう触ってないよ」
八つが十六に増えた。
袋同士が重なり、互いを押しのける。床を滑り、マドカの靴へ当たる。当たった袋がさらに二つへ割れる。
「出ろ!」
アキラが叫ぶ。
マドカが走った。
足元で袋が増え、膝まで埋まる。軽いはずの非常食が密集し、波のように押し寄せた。
ゴウが倉庫へ飛び込む。
「手ぇ出せ!」
マドカの腕をつかみ、引く。
アスカたちも外からゴウの制服をつかんだ。
袋は増え続ける。
倉庫の壁が内側から鳴った。
「扉を閉める!」
ミサキが叫ぶ。
「マドカがまだ!」
ゴウは彼女の上半身を引き出した。腰から下が袋に埋まっている。
「痛い、待って、足が」
「引くぞ!」
袋の山が天井へ届いた。
体育倉庫の薄い壁が膨らむ。
アスカの手から、ゴウの制服が滑った。背後からカレンが腰を支える。
「せーので!」
引く。
マドカの身体が少し動いた。
そのとき、倉庫の奥で棚が倒れた。
金属棚が増殖物に押され、出口へ向かって傾く。
マドカはそれを見た。
自分を引いているゴウの向こうには、アスカとミサキ、カレン、セラがいる。
「離して」
「何言ってんだ!」
「棚が来る」
「先にお前を出す!」
マドカはゴウの手へ両手を重ねた。
能力を使った。
ゴウがつかんでいた制服の袖が、二重、四重に増える。布が間へ押し入り、指を開かせた。
「マドカ!」
彼女は増殖物の中へ沈んだ。
直後、棚が出口へ倒れた。
ゴウが両腕で受ける。アスカたちは後ろへ転がった。
「扉を閉めろ!」
アキラとショウが金属扉を押す。
内側から袋があふれ、隙間へ挟まる。全員で押した。扉がゆっくり閉じる。
最後に見えたのは、丸い眼鏡だった。
袋の上に落ち、片方のレンズが割れていた。
扉が閉まる。
ゴウが閂代わりの鉄棒を通した。
次の瞬間、倉庫全体が膨れた。
屋根が持ち上がり、壁に亀裂が走る。
「離れろ!」
全員が校舎へ走る。
背後で破裂音がした。
非常食の袋が空へ噴き上がる。いくつかは飛びながら増え、白い雨のように校庭へ落ちた。
「触るな!」
誰かが叫ぶ。
生徒たちは昇降口へ逃げ込んだ。
扉を閉める。
外で袋が校舎の壁へ当たり、乾いた音を立て続けた。
やがて音が減った。
増殖が止まったのか、触れるものがなくなっただけかは分からない。
ゴウは床へ座り込んでいた。
「引けた」
両手を見ている。
「あと少しだった」
誰も答えられない。
ミサキは立ったまま、閉じた扉を見ていた。
「私が止めていれば」
「投票で決めた」
アキラが言う。
「お前一人の責任じゃない」
「一人の責任じゃなければ、責任が消えるの?」
アキラは黙った。
アスカの胸が痛んだ。
息がうまく吸えない。
床が近づく。膝をついたのだと気づくまで時間がかかった。
「終夜さん?」
カレンの声が遠い。
甘い匂いがした。
星霜学園の昼休み。
マドカが菓子の袋を開けている。
『一個足りないじゃん』
誰かが言う。
『私いらないよ。朝、食べすぎたし』
嘘。
その朝、マドカは寝坊して何も食べていない。
なぜ知っている。
場面が変わる。
厨房。湯気。油の音。マドカの父親が大きな鍋を振っている。
『余ったら、持っていっていい?』
『またクラスに配るのか』
『だって、おいしいものは多いほうがいいじゃん』
これはアスカの記憶ではない。
胸が潰れる。
暗い袋の中で、骨が折れる音がする。
息ができない。
怖い。
痛い。
ごめん。
お腹いっぱいにしたかっただけ。
「やめて!」
アスカは叫んだ。
視界が戻る。
昇降口の床に横たわり、カレンとメイが覗き込んでいる。
「どこが痛い?」
メイが尋ねる。
全部、と答えかけた。
実際には傷一つなかった。
右手の下で、何かが鳴った。
全員が見る。
床に水のボトルがある。
一本だったはずのボトルが、二本になっていた。
アスカは手を引いた。
輪郭が揺れる。
二本が四本になった。
「触るな!」
ミサキが叫ぶ。
アスカは両手を胸へ抱えた。
分かってしまった。
増やし方が。
止められない感覚が。
そして、マドカが最後に何を見て、何を考えたのか。
校庭の石碑が一つ、暗くなった。
円城マドカの名から白い光が抜ける。
光は校舎の壁を通り、アスカの胸へ入った。
《最後の一人》。
欠けていた言葉が、身体の中で目を開けた。




