第30章 終末の向こう
終末権能が消えると、世界を支えていた音が止まった。
赤黒い空に亀裂が走る。
二つの月が紙の絵のように剥がれ、暗い外側へ落ちた。
「走って!」
ミサキがアスカの手を引く。
もう重力を変えられない。時間も進められない。崩落を食べることも、扉を命令することもできない。
二人は普通の高校生の足で走った。
神殿が傾く。
壁だった面が床になり、砕けた石碑が二人を追って滑り落ちる。アスカは反射的に手を上げた。何も起きない。
「能力」
「ない!」
ミサキが襟をつかみ、横へ引く。石碑の破片が制服の背をかすめた。
これまでなら、ミサキも空へ兵器を一つ出せば足場を作れた。今は手の中にあるのはアスカの襟だけだ。
「離さないで」
「そっちこそ」
互いの手首を握り直す。
最初の十段で、アスカは転んだ。
これまでは重力を軽くし、時間を遅らせ、痛みを血流で抑えられた。今は擦りむいた膝から普通に血が出る。
「立てる?」
「痛い」
「生きてるから」
二人は笑った。
笑っている間にも床が落ちる。
非常階段へ飛び移ると、金属が体重で曲がった。能力があった頃には、自分の身体の重さを意識したことがなかった。一歩ごとに足裏へ衝撃が返り、肺が焼け、心臓がうるさい。
「普通の身体、弱すぎる」
アスカが息を切らす。
「これで体育やってたんだよ」
「持久走、どうやってた?」
「途中で歩いた」
「先生に怒られる」
「帰ったら一緒に怒られよう」
「能力が消えたら、記憶まで忘れないかな」
「私が覚える」
「二人とも忘れたら?」
「書く。帰ったら全部」
その約束が、崩壊する世界で最初のノートになった。
「最初は誰を書く?」
「マドカ」
「死んだ順?」
「出席番号順」
「それだと私たちも入る」
「生きてる人のことも書けばいい」
「自伝になるよ」
「共同執筆」
「意見が割れそう」
「割れたまま載せる」
短い会話を続けると走れた。黙れば、背後で消える世界の音ばかり聞こえる。
神殿の階段を上がる。
植物都市は灰になり、黒い森は光の粒へほどけていく。
模造校舎までの距離が、世界の崩壊で折り畳まれた。
白い扉が見える。
管理者が扉の横に立っていた。
輪郭は足元から崩れている。
顔に初めて疲労が見えた。無表情を作る力さえ失っているのかもしれない。
「帰還経路を開きます」
「二人で通れる?」
ミサキが尋ねる。
「本来、管理権限保持者は同行者を指定できます。封鎖は終末権能を現代へ持ち出させないためのものでした」
「最初から」
「はい」
「じゃあ、三十人は」
「管理権限を得た一名が同行者として指定すれば、帰還できました」
ミサキの手に力が入る。
「それを今まで言わなかった」
「競争が成立しなくなるためです」
「競争のために殺した」
「私は直接、誰も殺していません」
「扉の開け方を隠した」
「命令に従いました」
管理者の答えは変わらない。
ミサキは拳を上げた。
殴れば届く距離だ。能力はなくても、頬を打つことはできる。
アスカは止めなかった。
拳は管理者の手前で止まる。
「腹が立つ」
「はい」
「謝って」
『命令に――』
管理者はそこで言葉を切った。
「謝罪は処理に含まれていません」
「自分で決めて」
崩壊音が近づく。扉を開けなければ、三人とも消える。
管理者は長い時間、ミサキを見た。
「申し訳ありません」
「それで許すとは言ってない」
「はい」
「でも聞いた」
ミサキは拳を下ろした。
管理者はアスカの顔で目を伏せた。
「競争促進の命令へ従いました」
「今は?」
「扉を開くと、私も消えます。それでも開くことを選びます」
「命令?」
「いいえ」
初めて、管理者は即答した。
「私には名前がありません。役割が終われば、記録にも残りません」
「覚えてる」
アスカが言う。
「私たちを戦わせたことも、最後に扉を開けたことも」
「後者だけを残してください」
「両方残す」
「不利益な記録です」
「それでもあなたの選択だから」
管理者は目を伏せた。口元がわずかに緩んだように見えたが、確かめる前に白い光が身体を横切った。
白い扉が開く。
向こうに二年四組の教室がある。
しかし崩れた天井が落ち、扉を塞ごうとする。
三十人分の記憶が現れた。
実体ではない。
梁へ触れた手は透けている。それでも崩落は一瞬遅くなった。三十人の記憶を抱えた二人が、最後の力としてそう見ているだけかもしれない。
ユイだけは二つの姿で立っていた。
片方が扉の右、片方が左に立ち、同じ顔で笑う。
「最後まで二人なんだ」
アスカが言う。
「どっちかに決めてほしかった?」
二人が同時に尋ねた。
「決めなくてよかった」
どちらかが本物で、どちらかが複製だった。その問いは最後まで解けない。解かないまま、二人分の記憶を持って帰る。
ゴウとショウが梁を支える。ナギサとマリンが二人を押す。コトハが声を出さず、行けと口を動かす。
アスカは一人ずつ顔を見る。
「置いていけない」
マドカが笑う。
「もう持っていってくれたじゃん」
「重いよ」
「知ってる」
「忘れたくなる」
「それも知ってる」
マドカは責めなかった。
「毎日覚えてなくていいよ。チョコ食べたときだけでも」
ゴウが梁の下から口を挟む。
「早くしろ。物理的に限界だ」
「記憶なのに?」
「記憶でも限界は守れ」
アスカは泣きながら笑った。
胸ではなく、記憶の中から聞こえた。
ミサキがアスカの手を握る。
二人で扉を越えた。
ミサキが先に教室へ落ちる。握った手が引かれ、アスカの肩まで白い扉を越えた。
その瞬間、背後から何かが足首をつかんだ。
先代人格の最後の欠片だった。
『一人にしないで』
少女の声がする。
アスカは振り返った。顔はもうない。指だけが、崩れる世界から伸びている。
「名前をつけられなかった」
『なら、ここに残して』
「残さない」
アスカはその手を握り返した。
「あなたが間違えたことを書く。止めた世界のことも、最後に怖がったことも」
『それは救いですか』
「分からない。でも、なかったことにはしない」
指の力が緩んだ。
『明日を』
最後の言葉は、崩壊音に半分消えた。
扉の脇で、管理者が両手を広げていた。管理核から伸びた光が、閉じようとする扉を押しとどめている。
白い顔に亀裂が入った。
「管理核の停止を確認しました」
足元から輪郭が光の粉へ変わる。扉を開いた選択とともに、管理者を支える仕組みも消えていく。
「これは命令ではありません。生きてください」
アスカが答える前に、管理者の姿はほどけた。最後まで名前はなかった。それでも、何をしたかも、最後に何を選んだかも、二人は見届けた。
ミサキがアスカを引く。二人の身体が完全に扉を越えた。
現代の教室へ倒れ込む。
背後で白い扉が消える。
壁の時計が、十六時三十八分から三十九分へ動いた。




