第31章 明日
教室には、机が三十二脚あった。
扉の札には「旧視聴覚室」とある。
さっきまで二年四組だった場所は、廃棄前の備品を置く倉庫になっていた。
終夜アスカは自分の生徒証を開いた。二年一組。天城ミサキの画面には二年三組と表示されている。
この学年は三組までしかない。
二年四組というクラスそのものが、学校の記録から消えていた。
教卓の奥に、表紙のない紙の束が残っていた。文字は一つもない。それでも綴じ穴の近くに、消しゴムで強く擦ったような毛羽立ちが三十か所並んでいる。
アスカは指で一つずつ数えた。
「三十」
「何が?」
「跡」
ミサキも触る。紙の凹凸に、文字の形は残っていない。
「名前を消しても、紙は書かれたことを覚えてる」
「紙が?」
「そう思いたい」
アスカは名簿を光へ透かした。読めない影が三十人分、二つの名前の間に並んだ。
「そんなはず」
ミサキが教師用端末を開く。二年四組を検索しても、該当なしと表示される。
端末の一時保存領域に、文化祭の投票用紙が二枚だけ残っていた。
写真には、二人の間に不自然な空白がある。
文化祭準備の共有フォルダを開く。
ファイルは二つだけだった。
アスカが作った無記名投票用紙と、ミサキの危険物使用申請。
「私たち、二人で文化祭やる気だったみたい」
「何をやる予定になってる?」
投票結果は、喫茶店一票、お化け屋敷一票。
「割れてる」
「二人だけでも決まってない」
笑いかけ、二人とも途中で黙った。
お化け屋敷に一票を入れたのは誰だったか。今の記録ではアスカになっている。だがショウが火を使えると言い張り、カレンに呆れられた声を覚えている。
「投票結果、直す?」
「証拠がない」
「私たちが覚えてる」
「記録を上書きしたら、同じになる」
ミサキは画面を保存し、別の文書へ「記憶では火神ショウが提案」と書いた。元の記録と証言を並べて残す。
廊下から、二年一組の担任が入ってきた。終夜を探していたらしい。
「終夜、こんな所にいたのか。天城も三組へ戻れ。会議が始まるぞ」
「二年四組は?」
ミサキが尋ねる。
「四組? うちの学年は三組までだろ」
「机は三十二脚あります」
「古い教室の備品だろ。来週、まとめて処分する予定だったはずだ」
「予定だった?」
担任は自分の言葉へ首をかしげた。
「いや……そう聞いている」
教卓の引き出しを開ける。赤ペンが三十二本、輪ゴムで束ねてある。
「こんなに買った覚えはないんだけどな」
「一人一本?」
「さあ」
担任は二本だけ取り出し、残りを捨てようとした。
「ください」
アスカが言う。
「三十本も?」
「使います」
「インク、乾くぞ」
「それでも」
担任は不思議そうな顔で束を渡した。
教師に忘れられたことが、アスカには思った以上に苦しかった。いつも全員を名字で呼び、席替えのたびに配置を覚え直した人だった。
「先生」
「何だ?」
名前を一人ずつ言えば、思い出すだろうか。
口を開き、閉じた。
存在削除が残した穴へ無理に記憶を押し込めば、何が起きるか分からない。担任を証人にしたいのは、自分たちが一人で抱えるのが怖いからでもある。
「赤ペン、ありがとうございます」
「変な二人だな。早く自分の教室へ戻れよ」
以前なら、変なクラスだと言ったはずだった。
家族も覚えていなかった。
最初に電話をかけたのは、マドカの家だった。
番号はアスカの端末に残っていない。記憶を頼りに入力すると、最後の一桁で指が止まった。
「四」
ミサキが言う。
「七じゃなかった?」
「四。マドカが、死と同じで嫌だって言ってた」
「それなら四を嫌がる?」
「分からない」
二人は別々の番号を試した。四でつながった。
『円城飯店です』
聞き覚えのある父親の声。
アスカは電話を切った。
「話さないの?」
「何て言うの」
「娘さんを知ってます」
「娘はいないって言われたら」
「それでも」
「今は無理」
ミサキは急かさなかった。二人は直接店へ行った。
二人は一軒ずつ確かめた。
マドカの家の店では、父親が一人で鍋を振っていた。壁の写真には、四人目が立てるほど不自然な隙間がある。
昼を過ぎた店は空いていた。
二人はマドカがいつも注文した炒飯を頼む。父親は何も聞かず、片方から葱を抜いた。
「どうして抜いたんですか」
「お客さん、苦手そうに見えたから」
アスカは葱が嫌いではない。嫌いだったのはマドカだ。
父親は作り終えた鍋を見て、首をひねる。
「時々、三人前作りそうになるんだ。二人前なのにな」
炒飯は少し多かった。
写真には父と母と兄が写っている。母と兄の間だけ、肩一つ分空いていた。父親はその隙間へ毎朝埃がたまると話した。
「誰かいたと思いませんか」
アスカは聞いてしまった。
「誰が?」
「ここに」
写真を指す。
父親は長く見つめた。
「分からない。ただ、店を継ぐやつがもう一人いる気がして、鍋を捨てられない」
厨房の奥に、小さな中華鍋が掛かっていた。柄に黄色いテープが巻かれている。
マドカは文化祭で炒飯を作ると言って、父親から借りる約束をしていた。
「捨てないでください」
「欲しいのか?」
「いつか、使う人がいたって書きます」
父親は意味を聞かなかった。
ルナの家では、祖父の望遠鏡が物置に残っていた。
「孫に譲るつもりだったんだが。孫はいないのに、おかしいな」
望遠鏡の高さは、ルナの目に合わせて低く調整されている。
接眼部には睫毛の油が薄く残り、三脚の一本へ星形のシールが貼られていた。
「触ってもいいですか」
「古い物でよければ」
アスカが覗く。昼の空しか見えない。
ルナが月を落とす前、これで一緒に空を見た。二つの月のどちらが本物か話した。今の空には月が一つしかない。
「今夜、また来ても?」
「星が好きなのか」
「友達が」
過去形にできなかった。
祖父は二人へ星図を一枚くれた。端に「ル」と書きかけた跡がある。
ゴウの家の工房には、持ち主のない湯呑みがあった。底に「ご」とだけ刻まれている。
父親は湯呑みを失敗作の棚へ置いていた。
「字を彫ってる途中でやめたらしい。俺が作った覚えはない」
工房の床には、皿を割った跡を補修した線がある。
アスカはゴウが最後に言った言葉を思い出す。
「割ったこと、隠してないと思います」
「何の話だ?」
「この床を直した人」
「俺だよ」
「一人で?」
父親は答えかけ、眉を寄せた。
「小さい手が、横で粘土をこねてた気がするな」
存在削除は記憶を消しても、身体の動作までは完全に奪えない。父親は無意識に、隣の誰かへ道具を渡す仕草をした。
そこには誰もいない。
名前を消しても、物の配置や理由の分からない癖が残っていた。
二人は写真の空白、誰も使わない机、返す相手のいない図書カードを集めた。
一日で三十軒は回れなかった。
訪ねるたび、家族の生活へ穴を開ける。本人たちは喪失を知らない。二人だけが、ないはずの痛みを持ち込む。
三軒目の帰り、ミサキが駅のベンチへ座った。
「続ける?」
「続けたい」
「今日じゃなくてもいい」
「忘れる前に」
「急いで間違えたら?」
アスカは立ったまま動けない。
「私、マドカの電話番号を間違えた」
「私も確信なかった」
「もう始まってる」
忘却は神殿を出ても止まらない。普通の記憶と同じ速度か、能力が消えた影響かは分からない。
「だから書く」
ミサキはベンチの隣を叩いた。
「休んでから」
二人は駅の売店で缶のココアを買った。
「冬じゃない」
「飲みたいって言った」
ぬるい甘さだった。
ノートへ、ミサキは夏にもココアを飲む、と書く。
「例外」
「例外も記録」
教室の机の裏には、マドカが隠した四角いチョコが一つだけ残っていた。
半分に割り、二人で食べた。
甘さが、失った時間を一瞬だけ戻した。
円城という飲食店はあるが、娘はいない。星野家の望遠鏡を受け継いだ少女はいない。学校の写真部に、いつも撮影側へ回った男子はいない。
世界から三十人分が抜け落ちていた。
抜けた場所は、すぐ別の何かで埋まり始めた。
学校の記録では、アスカは二年一組、ミサキは二年三組で最初から過ごしていたことになっていた。旧視聴覚室の机は廃棄待ち。写真の余白は撮影時の配置ミス。三十人分の備品は、発注ミス。
世界は矛盾を嫌い、もっともらしい理由を作る。
二人は理由が固まる前に、机の傷、ロッカーのシール、図書室の貸出票を撮った。
ヨルのカメラは見つからなかった。
写真部の棚に、撮影者不明の記録媒体が一枚だけ残っている。
開くと、二年四組の集合写真が三十一枚あった。どれにもヨルは写っていない。最後の一枚だけ、全員がカメラへ向かって詰め、画面の端に黒い袖が少し映っていた。
「ヨル」
アスカが名前を呼ぶ。
ファイル名は空白だった。
二人は上書きせず、複製したほうへ日付と記憶を書き足した。
翌日、アスカとミサキは文具店へ行った。
同じ青い大学ノートを三十冊、籠へ入れた。
レジへ運ぶと、店員が業務用かと聞いた。
「個人用です」
「同じ色でいいんですか」
二人は顔を見合わせた。
色で分ければ探しやすい。だがマドカは黄色、ルナは濃紺と、本人が選べない色を二人で割り当てることになる。
「同じでいいです」
ミサキが答えた。
ユイのノートだけは二冊にするか迷った。
「一冊を、前と後ろから使おう」
アスカが提案した。
「どっちが前?」
「決めない。最初に開いた側を、その日の前にする」
一人分の名を二冊へ分けず、二つの記憶を一冊の両側から書く。いつか中央で出会っても、どちらかへまとめない。
「一人一冊」
ミサキが言う。
「全部書く。覚えてる限り」
「意見が違ったら?」
「両方書く」
「どっちが正しいか決めない?」
「決められないことも残す」
最初のノートに、円城マドカと書いた。
一頁目で意見が割れた。
アスカは、マドカが自分から能力実験へ賛成したと書いた。
ミサキは、周囲の期待に押されたと書いた。
「自分から手を上げた」
「役に立ちたいって言わせる空気があった」
「それだと本人の選択を消す」
「本人だけの責任にしたら、私たちの圧力が消える」
鉛筆を持ったまま、二人は一時間言い争った。
最後に、頁を縦線で二つに分けた。
左へアスカの記憶。
右へミサキの記憶。
下に共通して覚えている事実を書く。
意見が一致しないことを、最初の一冊から隠さなかった。
次に御影ユイ。
どちらが本物だったかは書けない。だから、分からなかったと書く。二人とも同じように怖がり、同じように生きたと書く。
真壁リクのノートだけは、記憶の出所が片方に偏った。
アスカは方眼紙、緩みやすい眼鏡のつる、計画の余白を語る。ミサキはその場にいたはずなのに、何一つ思い出せない。
最初の頁へ、ミサキは書いた。
――私は真壁リクを覚えていない。この人を知ったのは、アスカの記憶と残された筆圧からだ。
覚えていない事実も、空白へ理由をつけるための証言になった。
三十冊を埋めるのに、何年もかかった。
最初の一年で、二人の記憶はすでに変わった。
シオンの手袋が赤だったのは、彼女が実際に望んだのか、精神世界でアスカが見た像なのか。ハヤテが最後に笑ったかどうか。ウタの歌の旋律。
確信度を三段階で記すことにした。
共同記憶。片方のみ。推測。
書き直すときは前の文章を消さず、線を引いて横へ追記した。
ノートはきれいな伝記にはならなかった。
矛盾し、余白へ疑問が増え、同じ出来事が何度も書かれた。
それでも名前だけは、すべての頁に残った。
二人は毎日一緒にはいなかった。
一年目、アスカはミサキからの連絡へすぐ返事をした。
返事が十分遅れるだけで、終末界へ戻ったように怖くなる。
ミサキも、アスカが能力名で誰かを呼ぶ夢を見て、夜中に電話をかけた。
「これ、続けたら二人の世界になる」
ある夜、ミサキが言った。
「二人しか覚えてない」
「だからって、二人しか信じないのは違う」
学校の友人へ、最初は名前を伏せて話した。
創作だと思われた。
笑う者もいた。矛盾を指摘する者、証拠がないと離れる者もいた。
二人は傷ついた。それでも相手の記憶を消そうとはしなかった。
読んだ一人が、マドカのノートへ感想を書いた。
――この子の炒飯を食べてみたかった。
本人を知らない人が、名前を一つ覚えた。
片方だけが記憶の証人になることを恐れながらも、互いだけへ依存して世界を閉じないと決めた。
別の学校へ進み、別の友人を作り、それでも月に一度はノートを持ち寄った。
最後の一冊を閉じたのは、旧視聴覚室だった。
処分されるはずだった机は、二人が学校へ頼み込み、三十二脚とも残してもらった。三十冊のノートを一冊ずつ机へ置く。残った二脚に、アスカとミサキが座った。
壁の時計は十六時三十八分を指していた。
秒針が止まった。
アスカは息を止める。終末界から戻った時刻と同じだった。
窓の外で、空が白く割れた。
雲の上に、上下を逆さにした都市が浮かんでいる。白い塔の先端が地上へ向き、窓のない建物がどこまでも続いていた。
教室の端末が勝手に起動した。二人の端末だけではない。街の看板も、車の画面も、止まった時計の文字盤さえ、同じ言葉を映した。
《外部提供者の再接続を確認》
《終末権能の回収要求を拒否》
《文明防衛プロトコルを実行》
声は管理者のものではなかった。先代アスカが、完璧な世界の管理核へ残した命令だった。
《人類形態を終了します》
白い波が空から降りた。
校庭で空を見上げていた生徒の背から、黒い翼が突き出す。駅前では角を生やした会社員が膝をつき、抱いていた子どもを落とすまいと、鱗に覆われた腕へ力を込めた。
悲鳴が街を走る。
それでも、誰も理性を失ってはいなかった。姿だけが、人間の想像する悪魔へ近づいていく。
《終末適応体への移行を完了》
《未登録個体二名を除外》
アスカは自分の手を見る。人の手のままだった。ミサキも変わっていない。
終末権能を削除した二人は、管理核の人類登録から外れていた。
廊下を重い足音が近づく。
扉を開けたのは、かつて二年一組の担任だった。こめかみから角が伸び、制服の背を裂いて灰色の翼が広がっている。指先は黒い爪に変わっていた。
「先生?」
アスカが呼ぶと、怪物の顔がゆがんだ。
「その呼び方を、覚えていてくれ」
声は、変わっていなかった。
教師は廊下へ向き直る。翼の下へ、生徒たちをかばった。
逆さの都市から、白い人影が降り始めた。
顔がない。服も、名札もない。紙を切り抜いたように同じ形をしたものが、空一面を埋めている。
《提供物の回収を開始します》
白い声が街へ響いた。
人の姿を失った者たちが、空を見上げた。角も翼も爪も、それぞれ違う。互いの名を呼び、子どもの手を取り、逃げ遅れた者を助けながら並んでいく。
机の上で、三十冊のノートが風もないのに開いた。
円城マドカ。
星野ルナ。
剛力ゴウ。
消された三十人の名前が、頁の上に残っている。
ミサキは一冊を胸へ抱え、窓の外を見た。
「今度は、どっちが怪物?」
アスカは残りのノートを抱え上げた。
「名前を聞いてから決める」
白い侵入者が降りてくる。
人の名を持つ悪魔たちが、それを迎え撃つ。
その中で、人の姿を残した最後の二人だけが、三十人分の名前を離さなかった。
おわり




