第29章 最後の一人を消す
終夜アスカは崩壊した教室で目を開けた。
天城ミサキが三歩先にいる。
「方法がある」
アスカは黒い石碑、神殿の管理核、自分の胸を順に指した。
「三つとも、同じ名前で仕組みを定義してる。《最後の一人》」
石碑は能力登録の名、管理核は回収手順の名、アスカの魂は先代人格を収める器の名として使う。
三つの場所が同じ文字列で互いを認証していた。
アスカは黒板へ三つの円を描いた。
石碑。管理核。継承者。
円と円の間を線で結ぶ。一本を消しても、残る二本が欠けた情報を補う。先代は世界が何度壊れても管理を再開できるよう、自分の魂を三つへ分けた。
「ユイの複製と同じ?」
ミサキが尋ねる。
「似てる。でも、あの二人は自分を一人に戻そうとしなかった」
「管理者たちは戻りたがる」
「違うものになったと認めないから」
教壇に立つ管理者が、黒板の図を見上げた。
『訂正します。分裂は一時的な処理です』
「何年、一時的だったの」
『時間に意味はありません』
「あなたにはね」
先代人格がアスカの内側から答えた。
『統合すれば、欠落は消えます』
「増えたものも消える」
アスカは管理者を見た。
「あなたは扉を開けた。先代の命令と違うことを選びかけてる」
『選択ではありません。状況に応じた処理です』
「そう言わないと怖い?」
管理者の像に雑音が走った。
分かれた魂は、同一のままではいられない。別の時間を過ごし、別の相手と話せば、元の人格にない迷いを持つ。
先代が最も許せなかった誤差だった。
「一つだけ消したら?」
「残りから復元される。石碑を壊しても管理核が書き直す。私が死んでも次の器を作る」
「三つを同時に指せない」
「同じ名前なら、一つの対象として指せる」
存在削除は肉体ではなく、本名によって歴史の中の同一性を指定する。
「でも、人の本名じゃない」
「仕組みが自分でそう名乗ってる。名前をつけたせいで消せる」
完全な仕組みのために与えた定義が、唯一の弱点になっていた。
「存在削除で消せる?」
「ナナは、名前が一致すれば消せるって知ってた」
「失敗したら」
「私が消えるかもしれない。継承記憶も」
「成功しても、能力は全部消える?」
「たぶん」
「三十人の声は」
「分からない」
アスカはそこだけ目をそらした。
能力を人の名前から分ければ、記憶は残る。そう信じている。だが確かめる方法はない。失敗すれば、三十人は二度目の消滅を迎える。
ミサキが腕を組む。
「今の説明、都合の悪いところを小さな声で言った」
「ごめん」
「謝る前に、全部言って」
「《存在削除》を使った私を、世界が仕組みの一部と判断する可能性がある。その場合は私も消える。名前を忘れられるだけか、最初からいなかったことになるかは分からない」
「ほかには」
「管理者が先に私を統合するかもしれない」
「ほか」
「力を消したあと、世界が崩れる。帰る扉まで走れないかも」
「まだある」
「怖くて、途中でやめるかもしれない」
最後の一つを言うと、息が楽になった。
「それを最初に言って」
「言ったら、任せてもらえないと思った」
「一人で決めないって言ったのは誰」
「私」
「なら、弱いところも判断材料に入れる」
ミサキは黒板へ四つ目の円を描いた。二人、と書く。
「仕組みの外に私がいる。途中でアスカが戻れなくなったら名前を呼ぶ。立てなくなったら運ぶ。世界が崩れたら一緒に走る」
「消えたら?」
「覚える」
「世界中が忘れても」
「私が忘れたら、残した物から探す」
「全部消えたら」
ミサキはチョークを置いた。
「そこまで先回りして怖がらない。今、目の前にいるあなたを覚える」
ミサキはすぐ答えなかった。
「一人で決めない」
アスカが言う。
「だから聞く。やっていい?」
ミサキは空の兵器を見る。
三十人の死。
アスカの中の先代。
自分一人を殺せば、すべてを完成させてしまう仕組み。
「やろう」
二人で決めた。
決めたあとも、すぐには動けなかった。
アスカは三十人の名を最初から呼んだ。ミサキが一人ずつ返事をする。
「円城マドカ」
「甘い物を隠すのが下手」
「御影ユイ」
「二人とも右の靴紐から結ぶ」
「久遠エマ」
「弟の話をするときだけ、母語が混じる」
「真壁リク」
ミサキの返事だけが遅れた。
「私は、思い出せない」
「うん」
「でも、あなたが何度も書いた。反対意見を余白へ残した人」
「うん」
自分の記憶ではないと隠さず、それでも名前を空白にはしなかった。
名簿の読み上げではない。力を切り離したあとにも残る、その人だけの記憶を確かめた。
最後の食満グラまで言い終えると、管理者が口を開く。
『非効率です』
「三十人分、ちゃんと待てたね」
ミサキが言った。
『実行を妨げる必要がないためです』
「それでも待った」
管理者は否定しなかった。
アスカは石碑へ向く。
本名を呼び、指を差す。
人ではない。だが神殿も管理核も、この名を自分自身として認識している。
「《最後の一人》」
黒い文字が震えた。
「あなたを、歴史と記憶から消す」
痛みが胸を裂く。
三十の能力がアスカの中で暴れる。
核。洪水。太陽。酸素。重力。月。地核。冷気。鏡。血。植物。疫病。嵐。雷。大陸。深海。時間。因果。睡眠。命令。文明。機械。増殖。大気。不死。影。白光。共鳴。捕食。存在。
一つずつ、名前が消える。
消失は光ではなく、喪失として来た。
核をどう生むのか分からなくなる。海を持ち上げる感覚が抜ける。太陽へ手を伸ばしても届かない。三十人から託された力が、使い方ごと白くなる。
そのたびに顔を思い出した。
ミサキは隣で名前を呼び続ける。
「火神ショウ」
「怒ってる。だから燃やさない」
「赤城カレン」
「面倒見た分、生きろって」
「時任クロノ」
「遅れても来ればいい」
力の名前が消え、人の言葉が残った。
力ではなくなった記憶だけが、三十人の声として残る。
空の兵器が透けた。
ミサキが見上げる。
一つも爆発せず、すべて消えた。
先代が普通の制服姿で立っている。
神の力も管理者の声もない。
「どうすればよかった」
長い孤独に疲れた少女の声だった。
「一人で決めなければよかった」
アスカは答える。
「間違える人たちと、何度でも話せばよかった」
「それで世界が滅びたら?」
「あなた一人の正解で止まった世界より、生きてる」
「答えになっていない」
「答えはない」
アスカは初めて、先代へ近づいた。
「滅びるかもしれない。話し合っても失敗する。正しい人が負けることもある」
「なら、私の方法を否定できない」
「否定する。あなたが間違えないからじゃない。間違えたとき、誰も止められないから」
先代は自分の両手を見た。
「私は、最初から一人だった」
「途中で管理者を作った」
「私の一部よ」
「今は違う」
教壇の横で管理者が顔を上げる。
『私は命令の継続装置です』
「扉を開けるか、まだ迷ってる」
『迷いではありません』
「だったら今、閉じて」
管理者は動かない。
先代はその沈黙を見つめた。自分から切り分けたものが、自分と違う答えを持ち始めている。恐れて何度も消した差分が、目の前で一人の意思になろうとしていた。
「名前をつけて」
アスカが言う。
「管理者じゃなくて、あなた自身の」
「忘れた」
「思い出さなくても、新しく決められる」
「今さら」
「今だから」
先代は唇を動かしたが、音は出なかった。
名乗る前に、身体が透け始める。
「待って」
アスカは手を伸ばした。
「消したのは仕組みだけのはず」
「私は仕組みとしてしか、自分を残さなかった」
先代は悲しそうに笑った。
「あなたは、同じ間違いをしないで」
先代は泣いた。
三十人の教室へ歩き、彼らの中へ溶ける。
石碑から《最後の一人》の文字が剥がれ落ちた。
アスカは自分の能力を思い出せなくなった。
最後の一人は、生まれなかった。




