第28章 過去の私
精神世界の教室には、二人の終夜アスカがいた。
窓の外では、時間の止まった街が夕暮れのまま動かない。
教室の時計は十六時三十八分を指していた。
転移が起きた時刻。
秒針は数字の六と七の間で止まり、蛍光灯は点きかけの明るさで固まっている。窓の外では、野球部のボールが空中に浮いていた。
「ここは記憶?」
「私が保存した最初の場所」
先代は窓際の席へ座った。
「世界が壊れるたび、似た教室を作った。年齢も学校も違うのに、不思議と皆ここへ集まる」
「私の記憶を使った?」
「あなたが私の記憶を使っている」
二人の間に、どちらのものとも言えない景色がある。
アスカは自分の机を探した。名札はない。三十二脚すべてに、能力名だけが刻まれている。
《継承記憶》。
中央の席だった。
「見て」
先代が言う。
教室の壁が消えた。
風が入ってこない。
外の街では誰もが穏やかに歩いている。信号はなく、車は互いへぶつからない。店の商品を盗む者はいない。路地で泣く子どももいない。
パン屋の前で男が立ち止まった。
買うか迷う前に、身体が店へ入り、決められた量のパンを受け取る。
公園では二人の子どもが同じ遊具へ近づいた。一人が譲るのではなく、管理の声が片方を砂場へ向かわせた。
「争ってない」
「でしょう」
「仲直りもしてない」
「争わなければ必要ない」
アスカは病院のない街を歩く。
病人がいないのではない。病気になる可能性を持つ者は生まれる前に調整され、怪我につながる行動は身体が拒む。
食卓には全員分の栄養が並ぶ。好き嫌いを口にする者はいない。
「この人たち、幸せ?」
「苦痛はありません」
「質問に答えて」
「幸福は測定できません」
「なら、誰も苦しまないってことしか分からない」
戦争のない国。病院の要らない街。飢える子どものいない食卓。
「私が作った世界では、誰も苦しまない」
「誰も選べない」
「選択が争いを生む」
「間違える自由まで消した」
「自由は、失った者が懐かしむ概念です」
先代が指を鳴らす。
街の一人へ、選択が戻った。
パン屋の男は店の前で立ち尽くす。白いパンと黒いパンを見比べ、選べずに息を荒らげた。後ろに列ができ、怒鳴る者が現れる。
「見て。すぐ争いが始まる」
「慣れてないから」
「慣れれば、傷つけ合う」
「傷ついたら話す」
「話しても戻らないものがある」
先代は三十人の死を机の上へ並べた。
焦げたボタン。七本のヘアピン。紙の星。止まった時計。
「彼らへ自由が必要だった?」
「必要だったか、私が決めない」
「死んだ者は答えない」
「生きてるときに聞くべきだった」
「聞いた。全員、違うことを言った」
「それでいい」
「違う答えを抱えたまま、世界は運営できない」
「運営しなくていい。生きるんだよ」
先代はアスカと同じ顔で微笑む。
その笑い方を、アスカは知っていた。
自分が困ったとき、相手へ心配させないために作る顔だ。
「今、何が怖い?」
「何も」
「嘘」
「私は感情の管理もできます」
「管理しないで言って」
先代の笑顔が固まった。
「あなたに力を渡したら、私は消える」
「渡さなくても仕組みを消す」
「それも同じ」
「消えたくない?」
「私は何度も生まれ直した。消滅は恐怖ではありません」
「じゃあ、どうして私を急がせるの」
先代は答えない。
止まった街の夕日が一度だけ揺れた。
「あなたも分かるはず。三十人が死んだ。話し合いは救わなかった」
「一人で決めた人も、救わなかった」
リクの方眼紙が床へ現れる。
紙の上には、あのとき見えなかった裏面があった。
――全員を救えなかった場合、計画者の記憶を削除。
失敗した自分を残さないための一文。
「リクも忘れたかった」
アスカは紙を拾う。
「忘れれば、次は同じ計画を正しいと思える」
「苦痛に耐えることを美徳にしないで」
「忘れないことが正しいからじゃない。忘れたら、誰かに同じ痛みを渡すから」
セラのノートには、自分の判断が正しかった理由だけでなく、エマへ言えなかった謝罪がある。
アキラの規則には、最後に規則を破ってもいいという言葉が残った。
失敗を消さなかった者たちの記録だった。
セラの破れた計算ノート。アキラの規則。先代自身の完全管理。
どれも正しさを一人で抱えた。
「力を渡して」
先代が手を伸ばす。
「今度こそ正しく使う」
「正しいって、誰に聞く?」
「結果が証明します」
「何年後?」
「永続的に」
「その途中で嫌だって言う人は?」
「全体の安定を優先します」
「やっぱり聞かない」
「全員の意見を聞けば、一人の反対で何も進まない」
「進めることだけが目的じゃない」
「なら、あなたは何をしたい」
アスカは答えようとして、言葉に詰まった。
世界を救う。死者を覚える。ミサキと帰る。
どれも結果だった。
「明日、決めたい」
「何を」
「文化祭で何をするか。帰りに何を買うか。ミサキと意見が割れたら、どっちが折れるか」
「些細です」
「些細なことを、自分で決めたい」
先代の世界には大きな苦痛がない。代わりに、小さな選択もなかった。
「今度こそ、って言ったのはあなた?」
「私であり、管理者であり、あなた」
声が重なる。
アスカの輪郭が三つにぶれた。
一つは現在の制服姿。
一つは神殿を作った先代。
一つは名前のない管理者。
『統合すれば矛盾は消えます』
管理者の声が教室へ流れる。
「矛盾があるから別の人なんだよ」
『同一魂核の差分です』
「あなたは扉を開けるか迷った。先代は閉じたい。私は二人で帰りたい」
三つの答えがある。
「同じ始まりでも、今は別」
管理者の像だけが教室の後方へ一歩下がった。
『別であることは、欠損ですか』
「違い」
『違いを維持する意味は』
「あなたが決めたことを、先代のせいにしないため」
管理者は自分の手を見る。初めて役割ではなく、自分の選択を探す仕草だった。
アスカは目を閉じた。
三十の能力名が浮かぶ。
その上へ、一人ずつ名前を置いた。
「円城マドカ。御影ユイ。久遠エマ。逆巻レイ」
教室に四人の姿が現れる。
マドカは菓子を配る前に、アスカの額を指で弾いた。
「痛い」
「私が何でも賛成すると思わないで」
「思ってない」
「最初の投票、止めてほしかった」
「うん」
「でも、自分で手も上げた」
「うん」
「どっちかだけ覚えないで」
「分かった」
「返事が早い」
「分からない。両方覚えるようにする」
「それでよし」
ユイは二人でアスカの左右へ立つ。
「どっちが死んだ私?」
「分からない」
「正解」
「正解なの?」
「今は」
二人は同時に笑った。
「鳴海ライカ。星野ルナ。岩永ゴウ。冬月シオン。影森ヨル」
机が増え、席が埋まる。
ゴウは折れた腕ではなく、両手で紙の束をそろえている。
「俺、残るって勝手に決めた」
「ほかに方法がなかった」
「リクもそう言った」
アスカは息を止める。
「俺のは良くて、リクのは悪いって単純にするな。時間も力も違った。けど、聞けなかった点は同じだ」
「どう覚えればいい?」
「知らねえ。考え続けろ」
シオンは赤い手袋をしていた。
「似合う」
「想像と同じ?」
「少し派手」
「なら、これでいい」
ヨルはカメラを机へ置く。
「今度は一緒に写る?」
「全員入るなら」
「誰かが端になる」
「詰める」
三十人が机を寄せた。誰かの肩が誰かの顔を隠し、整った写真にはなりそうもない。
「青葉トウマ。光丘ヒカル。黒瀬レン。毒島メイ。鉄輪ジン」
枯れた鉢、白い靴、閉じられた窓、救急ポーチ、油のついた指。
トウマは鉢の土へ触れる。
「水、やりすぎ」
「毎日じゃないって覚えてる」
「土を見て」
ヒカルは白い靴の汚れを気にしない。レンと窓際へ並び、夕暮れを見る。
「朝、来ると思う?」
「俺が止めなければ」
「じゃあ止めないで」
「簡単に言うな」
二人の言い合いを、メイが救急ポーチを整理しながら聞く。
「喧嘩できるなら元気」
「症状だけ見るなって言っただろ」
セラが指摘する。
「今のは冗談」
「判断しにくい」
「それも症状」
メイは笑い、セラは少し遅れて笑った。
「神代アキラ。言吹コトハ。真壁リク。雨宮ナギサ。白鳥セラ」
命令ではなく選択を残した声。
アキラは教卓へ立つ。
「全員の意見を聞けば、落石は待たない」
「分かってる」
「規則を捨てれば、声の大きい者が決める」
「それも分かってる」
「俺の方法を全部間違いにするな」
「しない」
コトハが隣で口を動かす。声はない。
アスカには意味が分かった。
聞いて。
「二人とも覚える。決める仕組みと、破る余地」
アキラは納得していない顔のまま、席へ戻った。
その不満も残す。
「風間ハヤテ。海堂マリン。空木ソラ。音無ウタ。零崎ナナ」
風、海、空気、歌、名前。
ナギサとマリンは、青い杯を二人で持っている。
「一人にしないって言ったのに、残った」
ナギサが責める。
「呼び続けた」
「一緒には帰らなかった」
「帰れなかった」
「分かってる。でも嫌だった」
二人は和解しない。
ハヤテはクロノの時計を勝手に一分進め、怒られる。ソラは人の輪から少し離れ、ショウに肩を引かれる。ウタはもう一度歌おうとして、誰も止めない。
ナナは七本のヘアピンを机へ並べる。
「名前を消すの、怖い?」
「怖い」
「怖いまま使って。正しい力だと思わないで」
「うん」
「今の返事は早くていい」
「火神ショウ。赤城カレン。時任クロノ。夢野ネム。灰原スミレ。食満グラ」
三十人分の記憶が教室へ戻る。ユイだけは、一人分の名から二つの姿を取っていた。
全員が同時に話し始めた。
誰の声も完全には聞き取れない。
先代は耳を塞いだ。
「これを全部、聞くの?」
「聞けないこともある」
「なら管理と同じ。選んだ声だけ残す」
「選んだことを書く」
「聞き落とした声は」
「聞き落としたって書く」
「そんな記録に意味がある?」
「完璧じゃないって分かる」
先代はゆっくり手を下ろした。
教室の騒音を、不快そうに、それでも初めて最後まで聞いた。
彼らはアスカへ都合のいい言葉だけを残さなかった。
アキラは「もっと早く止めるべきだった」と言う。セラは「全員を救えると思わないで」と告げる。ユイは二人並び、どちらも自分を本物と呼んだ。
「本当にみんなの人格?」
先代が尋ねる。
「私の記憶が作った像かもしれない。なら、望む答えを言わせられる」
「言わせない。反対されたことも残す」
マドカは役に立ちたかったのだと告白した。エマは蘇生をすべて間違いだったと言われたくないと話す。
「それで感染が広がった」
セラが返す。
二人は和解しない。それでも同じ教室にいる。
意見が違うまま、一方を消さずに残る。それこそ停止世界になかったものだった。
「全員の声を聞けば、決めるのが遅れる」
「遅れても聞く。責任を一人で背負わない」
先代は三十人を見た。
「私も、名前を呼べばよかった?」
「あなた自身の名前も」
「覚えていない」
「生まれたときはあった?」
「あったはず」
「誰が呼んだ?」
先代の周囲に、停止世界より前の景色が浮かぶ。
小さな家。朝の食卓。少女を起こす女の声。
肝心の音だけが欠けている。
「母だったと思う」
「顔は?」
「思い出せない」
「能力を集めるたび、消した?」
「必要のない記憶から」
先代は自分の胸へ触れた。
「世界を守るには、個人でいてはいけなかった」
「個人を捨てた人が、個人の世界を決めた」
「そう」
初めて、先代は自分の矛盾を否定しなかった。
能力ではなく、制服を着た高校生として。
マドカが菓子を配る。ゴウが紙の角をそろえる。ネムが星を折る。
先代は目をそらした。
「名前を呼んでも、死者は戻らない」
「戻すためじゃない。力だけにしないため」
能力名が一人ずつの身体から離れ、黒板へ移る。
継承記憶は魂の保管場所だった。
死者を道具として集める器でありながら、名前を覚えていれば人格を分けて残せる。
「あなたも名前を忘れたんだね」
先代の顔がゆがむ。
「多すぎた。全部覚えれば、壊れる」
「壊れても、忘れない」
「あなたは強いから言える」
「違う。もう忘れ始めてる」
アスカはミサキの名前を思い出すのに十秒かかった朝を話した。
「全部は残せない。顔と名前が混ざるかもしれない。言われた言葉を自分に都合よく変えるかもしれない」
「なら、私へ渡せばいい」
「また一人になる」
「あなた一人より、私は長く存在した」
「長さじゃない」
アスカは三十人を見る。
「ミサキと二人で書く。意見が違えば両方。ほかの人にも読んでもらう」
「知らない者が、死者を誤解する」
「すると思う」
「怖くない?」
「怖い。でも、二人だけで閉じたら、私たちが管理者になる」
先代は返事をしなかった。
窓の外で止まっていたボールが、ほんの数センチ落ちた。
「どうやって仕組みを消すの」
教室の奥で、ナナが七本のヘアピンを外した。
「名前は鍵」
その声に三十人が重なる。
「能力にも名前がある」
黒板の中央に、《最後の一人》と書かれていた。




