第27章 核の空
神殿は、二年四組の教室へ姿を変えた。
崩れた机が三十二脚。
黒板には、文化祭まであと十九日。
天城ミサキは窓際に立ち、空を見上げた。
三十人がいなくなった教室は広すぎた。
ミサキは前から順に机を直した。
一列目の二番は、脚の長さが少し違う。座るたびにユイが紙を折って挟んでいた。窓際の最後尾には、ヨルが彫刻刀でつけた細い傷がある。教卓に近い席はアキラのものだった。誰かが規則を破るたび、彼は黒板ではなく、その人の顔を見て注意した。
机を一つ直すごとに、持ち主が戻らないことがはっきりした。
「何してるの」
アスカが聞いた。声は本人のものだった。
「通路を作ってる」
「戦うため?」
「歩くため」
ミサキはそれ以上説明しなかった。
最初から自分はこうだった。言葉より先に武器を置き、危険がないと確かめてから近づく。終末界へ来る前、それで困ったことは少なかった。人を遠ざけても、一人なら巻き込まずに済む。
ここでは違った。
一人で安全を選んだ瞬間に、別の誰かが死んだ。
机には持ち主の痕跡が残る。マドカの菓子の包み。クロノの時刻表。トウマの鉢から落ちた土。
『天城ミサキ。点呼を開始してください』
管理者が告げる。
「しない。二人しかいないことは分かってる」
『一名になれば帰還条件を満たします。合理的です』
「アスカなら、合理的って言ったあと黙る。相手が傷ついたか見る。あなたは見ない」
『不要です』
「だからアスカじゃない」
『判定基準が不明瞭です』
「人を傷つけたあと、平気な顔ができない」
『非合理的な反応です』
「そういうところ」
管理者は教壇の前へ現れた。アスカと同じ顔、同じ身長、同じ制服。ただし袖口に汚れがない。アスカの右袖には、ナナを抱き上げたときについた血が黒く残っている。
『私は終夜アスカの原型です。遺伝情報、魂核、継承記憶のいずれを基準にしても、あなたがアスカと呼ぶ個体より純度が高い』
「純度って、何」
『先代人格との一致率です』
「なら低いほうがアスカ」
『理解できません』
「理解しなくていい。決めるのは私」
管理者の視線が、三十脚の机をなぞった。
『個体への執着が判断を遅らせています。席を撤去します』
最前列の机が透けた。
「やめて」
ミサキは反射的に兵器を一基だけ出し、管理者の足元へ照準を合わせた。
『記録上、持ち主は存在しません』
「私の記憶にはいる」
『主観記録は不正確です』
「不正確だから、二人で照らし合わせる」
机は消えかけたまま止まった。管理者は命令を実行できるが、ミサキが本当に起爆する確率を捨て切れない。
脅しは通じる。
その事実がミサキを安心させ、同じだけ嫌な気分にさせた。
一瞬、現在のアスカが戻る。
「ミサキ。考えてること、言って」
「あなたを視界外へ落として、そこで起爆する」
「うん」
「怖くないの?」
「怖い。でも言ってくれないほうが怖い」
ミサキは空へ兵器を並べた。脅すためではない。自分が実行できることを隠さず、二人の間へ置くためだった。
無数の黒い兵器が現れる。
教室の天井が消えた。
兵器は夕焼けを塞ぎ、校庭から地平線まで整列した。終末界へ来た直後なら、十基出すだけで意識を失っていた。今は三十人の死が供給した因果を吸い、数える意味もないほど増殖する。
一つひとつに起爆条件が浮かんだ。
アスカの心拍停止。
管理核への接触。
ミサキ自身の死亡。
設定しようと思えば、考えるだけで決められる。いったん定めれば、迷いが生じても止められない。
「自分が死んだら爆発するようにした?」
アスカが尋ねた。
「まだ」
「まだ、ってことは考えた」
「考えた」
「言ってくれてありがとう」
「ありがとうで済ませないで」
「じゃあ、怖い」
アスカは震えていた。
三十の力を持つ者が、隠さずに震えている。その姿を見て、ミサキは兵器へ最後の条件を書き込む手を止めた。
起爆は設定していない。
それでも、一つ意思を変えれば世界を灰にできる。
「アスカ」
名前を呼ぶ。
終夜アスカは教室の反対側に立っていた。
顔は同じなのに、目が先代のものへ変わりかけている。
『無限核武装を回収すれば、復元が完了します』
「私は天城ミサキ」
『名称に意味はありません』
「ある」
ミサキは空へ手を上げる。
「必要なら殺すって決めた。あなたが全部を管理する前に」
アスカの手には三十の能力がある。
ミサキを殺せる方法はいくらでもあった。
だが動かない。
「私を殺すか」
現在のアスカの声が戻る。
「一緒に考えるか」
「ずるい選択肢」
「うん」
「答えは決まってる」
「いつ決めた?」
「今」
「さっきは殺すつもりだった」
「今も、必要なら殺す」
アスカの顔から現在の人格が薄れた。
『矛盾しています』
「人間だから」
『将来の敵対を許容した協力は成立しません』
「成立させる。信用は、裏切らないと信じ込むことじゃない。裏切ったら止めるって、お互いに言えること」
『恐怖による均衡です』
「恐怖もある」
ミサキは否定しない。
「でも、怖いだけなら今すぐ起爆する。話すほうを選んでる」
管理者は返答を探すように黙った。
その沈黙の間、現在のアスカがまた表面へ浮かぶ。
「私も言う」
アスカは右手を上げた。指先へ《存在削除》の冷たさが集まる。
「ミサキが兵器を止められなくなったら、名前を消せる」
「うん」
「でも先に名前を呼ぶ。返事ができるか確かめる」
「うん」
「怖い?」
「すごく」
二人とも武器を下ろさないまま、三歩の距離を一歩縮めた。
ミサキは兵器を一つも起爆させなかった。
アスカへ近づく。
三歩の距離で止まる。
「一緒に考える。あなたがアスカでいる間は」
「いなくなったら?」
「名前を呼ぶ。それでも戻らなければ、止める」
互いを殺せる距離で、二人は向き合った。
空は核で埋まっている。
先代人格が、アスカの口を借りて笑った。
『これが自由ですか。互いの喉へ刃を置き、信頼と呼ぶ』
「あなたの平和よりまし」
ミサキが答える。
『根拠は』
「嫌だと言える」
『拒絶は争いを生みます』
「生めばいい。言えないまま止まるより」
空の兵器が一基ずつ向きを変えた。アスカではなく、誰もいない上空へ砲口を向ける。消してはいない。自分の危険を隠さず、それでも今は撃たないという形にした。
アスカも人差し指を下ろした。
武器を持たない約束ではない。
武器を持つ自分を、相手へ預ける約束だった。
教室の床には、文化祭の無記名投票用紙が一枚残っていた。
アスカはそれを拾う。
用紙には三つの選択肢が印刷されている。
喫茶店。お化け屋敷。展示。
どこにも丸がない。
「これを書いたの、誰だろう」
「分からない」
「私たち二人で丸をつける?」
「つけない。三十人の票を勝手に決めたくない」
ミサキは用紙を二つに折り、また開いた。折り目だけが中央へ残る。
「無記名でも、選ばなかったことは残る」
アスカは用紙を胸ポケットへ入れた。
「一人で決めない」
先代人格が目を閉じた。
意識の奥に、別の教室が開く。




