第26章 三十の声
残ったのは八人だった。
アスカ、ミサキ、火神ショウ、赤城カレン、時任クロノ、夢野ネム、灰原スミレ、食満グラ。
八人は崩れた踊り場で、最後の水を回した。
ショウは口をつけるふりだけしてカレンへ渡す。カレンも一口だけ飲み、クロノへ回した。
「時間を測るなよ」
ハヤテがいないのに、ショウが言う。
「癖だ」
「今くらい遅れても誰も怒らねえ」
「私が怒る」
クロノは初めて冗談を言った。ネムが声を立てずに笑う。
スミレは古い懐中時計を床へ置いた。
「持っていかないの?」
「物を残すために人が死ぬのは違う。覚えていれば、なくならない」
グラはボトルを受け取らず、腹を押さえた。
「最近、水を飲むのと食べるのの違いが分からない」
「食満グラ」
アスカはすぐ名前を呼んだ。
「まだ変になってない」
「練習」
八人は出発前に、一人ずつ名前を呼んだ。
点呼ではない。
まだ人間としてここにいることを、互いに確かめるためだった。
点呼を終えても、誰もすぐには立たなかった。
次に扉が閉じれば、全員で座る時間はもう来ない。そのことを口にすると本当になりそうで、八人は空になったボトルを中央へ置いたまま、どうでもいい話をした。
「文化祭、結局何やる予定だった?」
ネムが尋ねる。
「お化け屋敷」
ショウが答えた。
「喫茶店だろ」
「投票前に決まった気でいたのはショウだけ」
カレンに言われ、ショウは焦げた髪をかいた。
「火、使えるし」
「お化け屋敷で何を焼くの」
「綿あめ」
「それは屋台」
笑いが起きた。
アスカも笑ったが、途中で声が詰まった。文化祭まであと十九日と黒板に書いたのは誰だったか。飾りを買う係は。反対票を入れたのは。
答えは三十人分、胸にある。
なのに一つ思い出すたび、その人がもう口を開かない事実まで戻ってくる。
「忘れたい?」
ミサキが小声で聞いた。
「少し」
アスカは嘘をつかなかった。
「忘れたら楽になる。でも、楽になるためにみんなを消したくない」
スミレが懐中時計の蓋を開いた。針は十二時十七分で止まっている。
「記憶は保存物じゃないよ」
「古道具屋の娘が言う?」
「物は壊れるし、記憶も変わる。残るって、同じ形で止まることじゃない」
スミレは時計をアスカへ見せた。裏蓋には、幼い字で「すみれ」と彫ってある。
「これ、お祖父ちゃんの時計。私が勝手に名前を彫って、すごく怒られた」
「返さなくていいの」
「返したかった。でも、私が持ってたことまで覚えてくれるなら、それでもいい」
「本人に言わせなよ」
カレンが遮った。
「死ぬ前の話みたいにするの禁止。帰って自分で返す」
「うん」
スミレは蓋を閉じた。
誰も約束が守られるとは言わなかった。それでも八人は立ち上がった。
複製世界の裂け目が神殿を食い続ける。
最初の通路は、地核の熱で赤く光っていた。
床の割れ目から噴き上がる熱風が、制服の裾を焦がす。奥の隔壁は熱膨張で歪み、人が一人通れる隙間もない。
ショウは地核の熱を逃がすため、怒りを押し殺して地面へ手を置いた。
「俺がやる。扉が開いたら、振り向くな」
「命令しないで」
カレンがショウの手首をつかんだ。触れた皮膚はすでに熱い。
「じゃあ頼む。振り向かないでくれ」
「嫌」
「カレン」
「止まりそうなら心臓を動かす。だから勝手に死なないで」
ショウは何か言い返そうとしたが、やめた。
「文化祭、喫茶店でもいい」
「帰ってから投票」
「一票、入れとけよ」
「怒ってるよ。だから、燃やさない」
赤い熱を自分へ引き受け、焼けた。
地面の赤みが消えるにつれ、ショウの腕へ亀裂のような火傷が走った。彼が怒鳴るたびに火力は増したはずだった。だが最後まで声を荒らげない。
「早く行け!」
それだけは怒鳴った。
隔壁が開く。
アスカたちが通り抜けた直後、背後で炎が柱まで達した。振り向くなと言われた。全員が振り向いた。
ショウは片手を上げた。
じゃあな、ではない。早く行け、ともう一度振っていた。
炎が彼を隠した。
カレンは戻ろうとした。ミサキとクロノが両側から腕をつかむ。
「放して! まだ心臓は」
「もう止まってる」
血流を読める本人にしか分からない。カレンの声が細くなった。
「分かってる。分かってるから、放して」
二人が手を緩めると、カレンは炎の前で一度だけ膝をついた。それから立ち、残った六人の脈へ意識を広げた。
カレンは七人の血流を同時に保ち、崩壊の衝撃で止まりかける心臓を動かした。
通路が脈打つたび、瓦礫が降る。ミサキの肩が裂け、ネムの肋骨が折れた。グラの輪郭は裂け目へ引かれ、半透明になっている。
「一人ずつにして」
アスカが言う。
「無理。全員、今にも止まる」
カレンの指先から赤い糸が伸び、六人の胸へつながった。
「自分の分は?」
「後回し」
「カレン」
「世話焼きって、順番を決める仕事なの」
鼻から血が流れた。自分の心臓から血を押し出し、他人の身体へ循環を分けている。
「ショウの分まで数えたら、七人だから」
止まった心臓を、まだ人数へ入れていた。
アスカはカレンの手を握った。継承能力で補助しようとすると、先代人格が血流の主導権を奪おうとする。
『効率の低い個体から停止してください』
「黙って」
『六名を維持するより、二名を確実に残すべきです』
「決めるのはあなたじゃない」
「アスカ」
カレンが血に濡れた口で笑った。
「今の、あんたにも言ってるからね。一人で全員分を決めない」
「面倒見た分、ちゃんと生きな」
最後に自分の心臓が止まる。
赤い糸は切れず、六人の鼓動へ溶けた。カレンが最後に押し出した一拍が、アスカの胸で鳴る。
次の扉には、錆のない巨大な歯車が噛み合っていた。力で壊せば神殿全体が落ちる。開くまでに必要な時間は、刻印によれば八百二十年。
クロノは閉じた脱出扉の時間を進め、錆びさせて開いた。身体も同じ速度で老いる。
「対象を扉だけにできないの?」
ミサキが聞く。
「時間は境界を嫌う。触れている私も引かれる」
「なら服をつないで、離れて操作する」
「距離が増えれば八百二十年では足りない」
クロノは腕時計を外し、アスカへ渡した。
「これは動いてる」
「持っていって」
「自分で持って」
「重くなる」
冗談のように言い、歯車へ両手を当てた。
秒針が激しく回る。黒かった髪に白いものが混じり、頬が痩せる。制服だけが十七歳のまま、身体を包み続けた。
「時間を測るなって言われたばかりなのに」
「測るのと、急かすのは違う」
クロノは息を整えた。
「私、遅刻する人が嫌いだった。待つ側の時間を盗むと思ってたから」
歯車に赤錆が浮く。
「でもここで分かった。来られないこともある。来ようとして、間に合わないことも」
扉が軋んだ。
「遅れていい。来ることのほうが大事だ」
老人の顔で笑う。
開いた隙間へ五人が身体を滑り込ませる。最後のアスカが振り返ると、クロノは床へ座り、動かなくなった腕時計を見る仕草をしていた。
「今、何時?」
「分からない」
「それでいい」
錆びた歯車が崩れ、姿を隠した。
暗い部屋には、数百人の先代人格が眠らず立っていた。同じ少女の顔が一斉にこちらを向く。
『器を返してください』
ネムが前へ出た。
「私の声を聞いたら、アスカまで眠る」
「耳を塞ぐ」
「骨から響くから無理」
ネムは喉へ手を当てた。ずっと小さな声で話していたのは、能力が漏れるのを恐れたからだ。歌いたくても、人前では口を動かすだけだった。
「一度くらい、ちゃんと歌いたかった」
「帰ってから歌って」
アスカが言う。
「うん。帰ったら」
ネムは約束を否定しなかった。
ネムは裂け目から現れる先代人格の残像へ歌うように命じた。
「眠って」
声を聞いた無数の残像が倒れる。ネムの声も、呼吸も消えた。
歌詞はなかった。一つの母音が長く伸び、暗い部屋の壁を震わせる。先代たちは立ったまま目を閉じ、次々に床へ崩れた。
アスカの意識も沈む。
眠りの底で、ネムが紙の星を折っている。角を合わせるたび、まだ見たことのない朝の話をした。
「起きる時間、自分で決めていいよ」
命令ではない声でそう言った。
「起きたら、自分で決めて」
アスカは舌を噛み、痛みで目を開けた。
ネムは壁にもたれていた。眠っているような顔だった。スミレがその手から紙の星を受け取り、懐中時計の鎖へ結ぶ。
スミレは管理設備を風化させ、追跡命令を止めた。
部屋の先には、無数の記録筒が天井まで並ぶ。真鍮の管を命令が走り、逃げる四人の位置を次の区画へ伝えている。
「設備だけ古くする。床は残す」
スミレは慎重に指を滑らせた。
真鍮が緑青に覆われ、紙テープが黄ばむ。歯車の歯が欠け、追跡を示す赤い光が一列ずつ消えた。
「古いもの、好きだったよね」
ミサキが言う。
「時間が見えるから」
「今は壊してる」
「壊すのも時間だよ」
設備の奥で警報が鳴った。管理核は風化の流れを逆に辿り、スミレの身体を古い記録として設備へ固定し始める。足元から色が抜け、写真のように平らになった。
アスカが手を伸ばす。
「触ると一緒に保存される」
「保存じゃない」
「うん。だから、ここに残らないで」
スミレは懐中時計を投げた。アスカが受け取る。鎖についた紙の星が揺れた。
「古いから残るんじゃない。残したいから残すの」
崩れる設備の中へ残る。
最後の区画は廊下ではなかった。
裂け目そのものが口を開けている。向こう側に、複製された世界が何層も見えた。どの世界にも三人がいて、少しずつ違う方向へ逃げている。
「あれ全部を統合されたら、リクの残像がまた戻る」
ミサキが言う。
「閉じられる?」
グラは裂け目を見て、唇を舐めた。
「食える」
「どれくらい」
「腹いっぱいにはなる」
いつもなら笑うところだった。誰も笑えない。
グラの能力は、食べた対象の性質を自分へ取り込む。石を食べれば皮膚が硬くなり、火を食べれば身体が熱を持つ。空間を食べれば、身体も空間の欠損になる。
「別の方法を探す」
アスカは言った。
「探してる間に増える」
「食べたらどうなるか分かってる?」
「分からない」
「なら」
「ずっと分からなかった」
グラは腹を押さえた。
「食べても食べても、足りない理由。能力のせいか、俺が欲張りなだけか」
裂け目から風が吹き、肩の輪郭が透ける。
「でも今は、足りなくていいって分かる。空腹なら、誰かと次の飯を食える」
「帰ったら何食べる」
ミサキが尋ねた。
「カレー。甘いやつ」
「ショウは辛口にする」
「鍋を分けよう」
「カレンに怒られるよ」
三人で、いない二人の返事を待った。
グラが裂け目へ歩く。
最後の裂け目を、グラが飲み込んだ。
空間を食べるほど、彼の身体の輪郭が欠けていく。
一口ごとに複製世界が閉じた。無数にいたアスカとミサキとグラが、一組へ戻っていく。
グラは最後まで噛んだ。飲み込む音だけが、何もない場所から聞こえる。
「もう、足りないままでいい」
空腹ごと消えた。
六人の死が続けてアスカへ入る。
熱。血。時間。眠り。古い紙の匂い。空腹。
三十人分の声が胸の中で重なる。
アスカはその場に吐いた。
六つの死があまりに近く、身体が受け止められない。ショウの火傷が腕を走り、カレンが数えた脈が指先で鳴る。クロノの老いた関節、ネムの潰れた喉、スミレの古い紙の匂い、グラの空腹が同時に押し寄せた。
「アスカ、私を見て」
ミサキが頬を両手で挟む。
「ここにいるのは誰」
「火神ショウ。赤城カレン、時任クロノ、夢野ネム」
「あなたの名前」
「灰原スミレ、食満グラ」
「アスカ」
強く呼ばれ、焦点が戻る。
「終夜、アスカ」
「私は?」
「天城ミサキ」
「今、生きてるのは?」
答えたくなかった。数を口にすれば、六人を過去へ送ってしまう気がした。
「二人」
「そう。二人で行く」
ミサキはアスカを立たせた。
背後には六人の遺品が残っている。焦げた制服のボタン。血のついた髪留め。動き続ける腕時計。紙の星。古い懐中時計。カレー味と書かれた飴の包み。
全部は持てない。
二人は一つずつ拾い、残りの形と場所をノートへ書いた。急げと管理者の声が響いても、書き終えるまで動かなかった。
世界が静まったとき、生きて立っていたのはアスカとミサキだけだった。




