第25章 名前を失う者
「あれはリクじゃない」
零崎ナナが言った。
彼女はリクの名前を紙へ何度も書いていた。
真壁リク。同じ四文字なのに、行が下がるほど筆圧が強い。
「忘れる前に書いてるの?」
「紙も消えるかもしれない。それでも、何もしないよりいい」
ナナはペンを止めた。
「名前を知ると、その人を呼べる。でも私の力は、知ってるほど消せる」
「使いたくない?」
「ずっと」
七本のヘアピンへ触れる。
「使わなかったら、リクが全員を消す。だから決める前に聞く。リクを消していいと思う?」
「消してほしくない。でも止めてほしい」
「矛盾してる」
「うん」
「私も同じ」
二人の答えは、きれいな賛成ではなかった。その迷いごと残すため、アスカは名前を書いた紙をノートへ挟んだ。
紙を挟んだ途端、罫線の上から「真壁」の二文字が薄れた。
ナナが奪い返すようにノートを開く。そこには筆圧の跡しかない。鉛筆を寝かせて擦ると、白い紙の上へ四文字がぼんやり浮いた。
「まだ消してないのに」
「残像が本体を上書きしてる。自分だけを真壁リクにしようとしてるんだ」
裂け目の向こうには、もう一つの神殿が重なっていた。そちらにも同じ石碑があり、同じ階段があり、同じ制服の少年が立つ。片方のリクが右手を上げると、もう片方はわずかに遅れて左手を上げた。
『差分を検出。統合します』
二人の声が重なる。
床の方眼模様が広がった。柱の位置、瓦礫の角度、人の立ち位置まで、すべてが格子へ吸い寄せられる。ナナの靴が白線の交点へ固定された。
「あいつは、ずれを許さない」
アスカはナナの腕を引いた。動かない。ならば格子そのものをずらす。継承した重力で床を傾けると、固定点が一瞬だけ外れた。
二人は崩れた柱の裏へ転がり込む。
「どうしてリクは、そこまで同じにしたがるの」
「違う自分が怖いから」
ナナは即答した。
「遠征の前、あいつに聞かれた。別の選択をした自分がいたら、どちらに責任があると思うって」
「何て答えた?」
「両方」
ナナは擦り出した名前を指でなぞった。
「選ばなかったほうへ責任を押しつけたくないから。でも、あいつは一つに決めたかったんだと思う。正解の自分と、間違った残りに」
柱の向こうで紙を折る音がした。
リクの残像が、方眼紙を一枚ずつ空中へ並べている。紙には生存者の名と能力、負傷箇所、死ぬ確率が記されていた。アスカの欄だけが何重にも書き直されている。
殺せる確率。支配される確率。全員を帰せる確率。
最後の行には、感情を捨てれば成功率が上がる、とあった。
「あれ、本物のリクも書いたと思う?」
「書く。でも余白も残す」
ナナは一枚を拾った。欄外に小さな字がある。
――計算に入らない反対意見を消さないこと。
「ここが本物」
残像は欄外の文字へ黒い線を引いた。
『不確定要素を削除します』
「違う」
アスカは柱の陰から出た。
「真壁リクは、不確定なものを嫌ってた。でも、嫌いだからって、なかったことにはしなかった」
『記憶は主観です』
「そうだよ。だから私だけで決めない」
ナナも隣へ立つ。
「私は、あんたが怖かった。何でも人の生存率に置き換えるから。でも助かったこともある。両方とも消さない」
残像の眼鏡に亀裂が入った。複製された神殿が半歩ずれる。統合し切れない記憶が、世界の継ぎ目を広げた。
その隙間から、方眼紙を抱えた本物のリクが見えた。
ほんの一瞬だった。
彼は口だけを動かした。
余白を。
ナナはうなずいた。
裂け目に立つ真壁リクは、世界複製が残した因果の残像だった。
それでも同じ顔、同じ声、同じ記憶を持つ。
「計画を続行する」
残像が手を上げる。
世界がまた二重になる。
「止める方法は一つ」
ナナは七本のヘアピンを外した。
「本名を言って、指を差す」
「消したら、みんな忘れる」
アスカが言う。
「だから覚えて」
ナナは残像へ向く。
「真壁リク」
指を差した。
「あなたを消す」
リクの輪郭が文字になってほどける。
方眼紙。眼鏡。反対意見を余白へ残す筆跡。
物は床に残っている。それが誰のものだったかという意味だけが、ほどけて消えた。
「何をしたの?」
ミサキが尋ねる。
誰もリクを覚えていない。
アスカだけが名前を言えた。
「真壁リクを消した」
「誰?」
その問いが胸をえぐる。
ミサキは落ちた眼鏡を拾い、首をかしげた。
「これ、誰の?」
「リクの」
「だから、リクって誰」
苛立ちではない。知らない人の名を何度も聞かされる困惑だった。ナナ自身も眼鏡を見つめ、つるの曲がりを直そうとして、手を止めた。
「私、どうしてこれの直し方を知ってるんだろ」
「右が緩みやすかった。リクは考えるとき、そこを触った」
「そう」
ナナは返事をしたものの、目には何も戻らない。
存在削除は死より静かだった。悲鳴も血も残さず、悲しむ理由まで持ち去る。床に空いた一人分の場所を、人の意識だけが自然に避けていく。
アスカは初めて、この力を継承することを恐れた。
忘れずに殺せる者が持てば、世界中から都合の悪い相手を消せる。消された事実を告発する者もいない。証拠が残っても、誰のものか分からなくなる。
先代人格がアスカの内側で《存在削除》へ手を伸ばす。
『有用です』
「触るな」
『対立の原因を、原因ごと除去できます』
「それを平和って呼ばない」
『残った者は苦しみません』
「苦しむ権利まで奪ってる」
先代の指が、記憶の中で能力核へ近づく。アスカは両手で自分の胸を押さえた。実体のない手は止められない。
ナナはそれを感じた。
「奪われる前に渡す」
崩落した石を自分の胸へ落とす。
アスカが受け止めるより早かった。
「名前は鍵」
血を吐きながら言う。
「消すためだけじゃない。帰すためにも使える」
「どういう意味」
「名簿」
ナナの呼吸が浅くなる。
「神殿は、私たちを能力名で登録した。人の名前じゃない。だから死んでも力だけ残る」
「人の名前で呼び直せば?」
「力と人を、分けられるかも」
「かも、で死なないで」
「確定するまで待てない」
ナナは笑おうとして失敗した。
「リクなら確率を出したかな」
もう覚えていないはずの名が、彼女の口から自然に出た。言った本人が驚いている。
「今、名前を」
「誰の?」
また消える。
けれど完全ではない。書いた跡、眼鏡を直す指、口が覚えた音。存在を消されても、人と人の間に生まれた癖まではきれいに片づかない。
「零崎ナナ」
アスカは姓と名を呼ぶ。
「名簿の誤字を見つけたら、本人に読み方を聞く。人を番号で呼ばない」
「覚えてて」
ナナは目を閉じた。
七本のヘアピンが床へ落ちた。
アスカは一本ずつ拾った。どれも形が違う。ナナは気分で選んでいると言っていたが、実際は曜日ごとに決めていた。月曜は黒。火曜は銀。遠征が何曜日か分からなくなってから、七本全部をつけていた。
「今日は、何曜日だったんだろう」
ミサキが言う。
「帰ったら調べる」
「帰れる?」
「帰る。ナナの曜日も書く」
ナナの指が一度だけ動いた。返事か、ただの痙攣かは分からなかった。
《存在削除》が継承される。
冷たい感覚が、アスカの舌と人差し指へ宿った。
誰かの本名を呼び、対象を定めればいい。
簡単すぎる使い方が頭へ流れ込む。その奥に、ナナが一度も実行しなかった名前の一覧があった。嫌った相手。恐れた相手。止めたかった仲間。それでも彼女は書くだけにした。
使わなかった選択も、能力の記憶に残っていた。
アスカはノートへ二人の名を書いた。
真壁リク。
零崎ナナ。
ほかの誰にも意味のない文字になっても、書く手を止めなかった。




