第3章 三十二の石碑
石碑は夜の間、校庭に立ち続けていた。
近づこうと言う者はいなかった。
誰かが言い出すのを待っているうちに、教室の外は完全に暗くなった。二つの月が昇り、黒い石の縁だけを白く照らした。
その夜、三十二人は三つの教室に分かれて眠った。
眠った、と呼べる者は少なかった。
窓の外で枝が鳴るたび、誰かが身体を起こす。廊下を風が通るたび、ライトが点く。夢野ネムは教卓の脇に座り、膝の上で紙を折っていた。
「寝ないの?」
アスカが尋ねると、ネムは眠そうな目を細めた。
「眠れないから、眠そうなの」
答えになっているようで、なっていない。
ネムの指の間で、小さな星ができた。
アスカも眠れなかった。
目を閉じると、白い落下が戻ってくる。あの声も聞こえる。
今度こそ。
何を。
誰が。
考えるほど、懐かしさだけが強くなった。
夜明けは、腕時計で午前六時を過ぎてから来た。時間と空の動きが合っていない。クロノがノートに差を書き込み、昨日から一睡もしていない顔で首を傾げていた。
赤黒い空が少し明るくなる。
朝食は水だけだった。
空腹を訴える声が増える前に、アキラが校庭へ出る案を出した。
「あれを放っておくほうが危険だ」
反対は出た。だが、見ないままでは何も決められないという点ではミサキも同じだった。
外へ出るのは十人。
残りは昇降口と二階の窓から見守る。異常があれば、ハヤテが笛を吹く。笛は体育倉庫から見つけた。
「石に触らない。文字があっても勝手に読まない。何か起きたら全員で戻る」
ミサキが確認した。
「文字があったら読むだろ」
アキラが言う。
「声に出さないって意味」
「最初からそう言え」
ミサキの左手が握られる。アスカはそれを見ていたが、口を挟めなかった。
昇降口の蔓は、トウマが時間をかけてほどいた。
「切らないの?」
ショウが尋ねる。
「生きてるから」
トウマはそれだけ答えた。
外の空気は冷たく、金属のような臭いがした。
校庭へ足を下ろす。土は乾いている。草は枯れて見えたが、近くで見ると葉の裏が暗い紫色をしていた。
石碑は、校舎を中心に円を描いている。
高さは三メートルほど。どれも同じ黒い石に見えた。表面には昨日の白い扉と似た文字が刻まれている。
アスカは目をそらした。
読めるかもしれない。
それが怖かった。
「これ、日本語だ」
ナナが言った。
全員が一番近い石碑へ向く。
さっきまで異質な線に見えていた刻印が、表面を水のように滑った。形を変え、見慣れた文字になる。
上段に名前。
下段に、二重の山括弧で囲まれた語。
「天城、ミサキ」
ナナが読んだ。
ミサキは列の中央にいた。名前を呼ばれ、肩を揺らす。
石碑の文字が白く光った。
その下に、新しい一行が浮かぶ。
《無限核武装》
一瞬、意味が分からなかった。
いや、分かりたくなかったのかもしれない。
「何それ」
カレンが笑おうとした。声だけが乾いた。
説明文が続く。
任意の地点に、指定した規模の核兵器を出現させる。
校舎の窓が騒がしくなった。遠くからでも文字が見えたのだろう。
「冗談でしょ」
ミサキが言った。
いつもの硬い声ではない。
「こんなの、私じゃない」
「次を見よう」
セラが言った。
「一つだけでは判断できない」
隣の石碑に雨宮ナギサの名が浮かぶ。
《大洪水世界》。
海面を上昇させ、最大で陸地の九割を水没させる。
「待って、九割って何」
ナギサは笑った。笑ったあと、青いヘアピンへ手をやった。片方しかないことに気づき、同じ場所を三度触った。
次は黒瀬レン。
《太陽停止》。
世界へ届く光と熱を遮断する。
白鳥セラ。
《酸素消失》。
指定範囲から酸素を消去する。
神代アキラ。
《重力反転》。
アキラは黙って読んだ。顎がわずかに上がっていた。
「全員分、見る」
彼は言った。
「先に危険度を把握する」
「全部危険でしょ」
ナギサの笑みが消えた。
石碑を巡った。
月を落とす力。地核へ火をつける力。触れた物から熱を奪う力。
鏡から分身を作る力が表示されたとき、ユイは近くの端末画面を伏せた。
血を操る力を見たカレンは、「保健室で役立つかもね」と笑った。誰も笑わなかった。
植物を侵略させる力。病を作る力。消えない台風。雷。大陸を割る拳。
読み進めるほど、声が減った。
誰かの名前が表示されるたび、それまで一緒にいた同級生が、別の何かへ置き換わっていく。
音無ウタではなく、惑星を声で壊せる者。
夢野ネムではなく、世界を眠らせる者。
久遠エマではなく、死者を戻し、死を広げる者。
アスカは、それが嫌だった。
石碑を見る前から、エマはエマだった。人の手を取るとき、片手ではなく両手で包む。マドカが階段から落ちたとき、保健室までずっと名前を呼んでいた。
名前の下に恐ろしい言葉が刻まれたからといって、それが消えるわけではない。
そう思うのに、アスカ自身もミサキから少し距離を取っていた。
気づいた瞬間、息が苦しくなった。
「終夜さん」
ナナが呼んだ。
円の最後に近い石碑だった。
表面に、零崎ナナとある。
《存在削除》。
本名を口にし、対象を指すことで、存在を歴史と記憶から消す。
ナナは文章を二度読んだ。
「名前を間違えたら?」
誰にともなく尋ねる。
石碑は答えない。
「偽名なら効かないって書いてある」
リクが文字の続きを示した。
「なら、本名を隠せば対抗できる」
「そういう話?」
ナナが彼を見る。
「対策の話だ」
「人の名前が、弱点みたい」
ナナは石碑へ向き直った。
「名前がなくなったら、その人はどこへ行くんだろう」
アスカは答えられなかった。
次の石碑は真壁リク。
《世界複製》。
世界を丸ごと複製し、同じ空間へ重ねる。
「理論上、避難先を作れるかもしれない」
リクは言った。
「反発して崩壊する、とも書いてある」
セラが指摘する。
「制御方法がないとは書いてない」
彼は方眼ノートを取り出し、すぐに記録を始めた。
残る石碑は一つだった。
円の最も校舎側。
アスカは近づく前から、自分のものだと分かった。
黒い石の表面には、終夜アスカと刻まれている。
その下。
《最後の一人》。
説明はなかった。
白い線が途中まで走り、そこで削り取られたように消えている。
「それだけ?」
ショウが石碑の裏へ回る。
「裏にも何もねえ」
「最後の一人って、どういう意味」
ミサキが尋ねた。
アスカにも分からない。
分からないはずだった。
けれど、その言葉を見た瞬間から、胸の奥に冷たい手がある。
三十一の石碑が、低く鳴った。
空気ではなく、頭蓋の内側へ音が響く。
校舎に残っていた者たちも外へ出てきた。三十二人が石碑の円の中へ集まる。
二つの月の間に、白い光が浮かんだ。
人の形に見えた。
顔はない。輪郭も揺れている。
それでも、こちらを見下ろしていると分かった。
『権能保持者、三十二名の到着を確認しました』
声が世界全体から聞こえた。
男とも女ともつかない。若くも老いてもいない。
アスカは身体を強張らせた。
その奥に、昨夜の声と同じ響きがある。
『帰還条件を通知します』
ミサキが一歩前へ出た。
「ここはどこですか。あなたは誰?」
光は答えなかった。
『元の世界へ帰還できる者は一名です』
風が止まった。
『最後の一人となった者だけを、帰還させます』
誰も動かなかった。
意味が教室へ届くまで、時間がかかった。
「それは」
コトハが袖口を握る。
「ほかの人は、どうなるんですか」
『最後の一人となった者だけを、帰還させます』
同じ言葉が繰り返された。
「殺し合えってことかよ」
ショウが空へ怒鳴る。
返事はない。
「ふざけるな!」
地面を蹴った。
その足元で、土の奥が赤く光った。
すぐに消えた。
誰も気づかなかった。アスカ以外は。
空の人影が薄くなる。
『終末権能の行使は自由です』
「自由って言うな」
ミサキが言った。
震えていた。
「こんなものを押しつけて、自由なんて言わないで」
白い人影は消えた。
赤黒い空と二つの月だけが残る。
円の中で、三十二人は互いの顔を見た。
昨日まで同じ教室にいた。
文化祭で何をするか決められず、笑っていた。
今は誰も、隣にいる人間の手を見ずにはいられなかった。
その手が世界を終わらせるかもしれない。
自分を殺すかもしれない。
アスカはミサキを見た。
ミサキもこちらを見ていた。
目が合った瞬間、彼女の表情に傷ついたような色が浮かぶ。
アスカが距離を取ったことを、気づかれていた。
「戻ろう」
アキラが言った。
「話し合う。能力の条件を全部確認する。勝手に使わせない」
「使わせないって、どうやって」
ナギサが尋ねる。
アキラは答えなかった。
校舎へ向かう列ができる。
ミサキだけが石碑の前に残っていた。
《無限核武装》。
白い文字が彼女の顔を照らしている。
アスカは声をかけようとした。
足が動かなかった。
怖かった。
その事実を認めたくなくて、机の縁を探すように指を曲げた。
ミサキは一人で振り返った。
「大丈夫」
誰も尋ねていないのに、そう言った。
左手の爪が、手のひらへ深く食い込んでいた。




