第2章 二つの月
最初に戻ってきたのは、痛みだった。
右肩が痺れている。頬には冷たい床の感触があった。口の中が乾き、舌に鉄の味が残っている。
終夜アスカは目を開けた。
机の脚が見えた。
見慣れた灰色の脚だった。床の薄い傷も、黒ずんだガムの跡も知っている。星霜学園二年四組の教室に、まだ自分がいるのだと思った。
夢だった。
そう考えた直後、鼻を刺す臭いに気づいた。
湿った木材と、長い間閉め切った部屋の埃。雨のあとの物置に似ている。
アスカは身体を起こした。
教室は暗かった。
窓ガラスの半分が割れ、天井から蔓が垂れている。壁の塗装は剥がれ、黒板には白い黴が広がっていた。さっきまで文化祭の残り日数が書かれていた場所には、深い引っかき傷がある。
同じ形なのに、同じ場所ではない。
「起きた人、返事して!」
天城ミサキの声がした。
教壇のそばに立ち、スマートフォンのライトを掲げている。額から血が流れていた。それでも声は崩れていない。
「天城……さん」
「終夜さん。動ける?」
「たぶん」
「頭を打った?」
「分からない」
「吐き気は」
「少し」
「じゃあ急に立たないで」
ミサキはそう言って、すぐ次の生徒へ向かった。
「火神くん、返事して。聞こえる?」
「聞こえてる。耳元で怒鳴るな」
「返事しないからでしょ」
ショウが倒れた机の下から這い出す。背中に小さな切り傷があるだけで、歩けるようだった。
教室のあちこちで声が上がった。
「痛っ、眼鏡どこ?」
「マドカ、動くな。踏むぞ」
「誰かライト貸して!」
「ユイが二人いる」
「は? 何言ってんの」
「影だよ。そこのガラスの」
泣き声。咳。苛立った声。冗談めかした声。
アスカはそれを聞きながら、名前を頭の中で並べた。
天城ミサキ。雨宮ナギサ。黒瀬レン。白鳥セラ。
一人ずつ姿を探す。
名前は三十二まで途切れなかった。
「全員いる」
思わず口にしていた。
ミサキが振り返る。
「数えたの?」
「顔を見ただけ」
教室の奥で、零崎ナナがスマートフォンのメモへ何か打ち込んでいた。
「私も確認した。三十二人。怪我がひどいのは、いまのところ御影さんと冬月さん」
ユイは割れたガラスで腕を切っていた。シオンは左足首を痛め、立てない。毒島メイが二人のそばにしゃがんでいる。
「水と、清潔な布がいる。保健室が同じ場所にあるなら探して」
「俺が行く」
アキラが答えた。
「一人は駄目」
ミサキが即座に止める。
「まだ何があるか分からない。最低でも三人で」
「時間が惜しい」
「だからって怪我人を増やさないで」
また始まるかと思ったが、アキラは一度だけ息を吐いた。
「ゴウ、ハヤテ。来い」
「命令すんなって」
ハヤテは言いながら立ち上がった。ゴウも棚をどけ、廊下側の扉へ向かう。
扉は錆びついていた。
三人が力を合わせると、金属を擦る音を立てて開いた。廊下の先は暗い。窓から赤い光が差し込み、床を血のような色に染めている。
「保健室を見て、すぐ戻る。ほかの場所には行かない」
ミサキが念を押す。
「分かった」
答えたのはゴウだけだった。
三人のライトが廊下の奥へ消える。
教室ではセラが怪我人を分けていた。
「意識がある人、ない人。出血が止まっている人、止まっていない人。順番を決めないと」
「言い方」
カレンが眉を寄せる。
「間違ったことは言ってない」
「正しくても、怖がってる子の前で言うことじゃないって」
セラは反論しかけ、ユイの青い顔を見た。ペン先で床を二度鳴らしてから、声を少し落とした。
「御影さん。傷を見せて。大丈夫、先に止血するから」
アスカは壁へ手をつき、ゆっくり立った。
自分にできることが見つからない。
怪我の知識はない。力もない。人を落ち着かせる言葉も浮かばない。
文化祭の話し合いなら、黙っていても誰かが決めた。今は、誰かが何かを決めるたび、その判断に命がぶら下がる。
「終夜さん」
ミサキに呼ばれた。
「はい」
「動ける人のスマホを確認して。通信、地図、時刻。違いがないかまとめて」
仕事を渡されたことに、少し救われた。
端末はどれも圏外だった。緊急通報もつながらない。地図は現在地を取得できず、方位磁針は針が回り続ける。
時刻だけは動いていた。
十六時四十一分。
転移前から三分しか経っていない。
「三分?」
ナギサが画面をのぞき込む。青いヘアピンが片方なくなっていた。
「もっと落ちてた気がする」
「気を失っていた時間が分からない」
クロノが二本の腕時計を見比べる。
「こっちは電波式、こっちは機械式。どちらも十六時四十一分。秒のずれもほとんどない」
「だから何?」
「少なくとも、時計そのものは壊れていない」
「時計が正しくても、空が正しいとは限らないけどね」
ユイが窓のほうを見た。
割れた窓の外には、赤黒い空が広がっている。
雲ではない。高いところで暗い赤がゆっくり渦を巻き、その下を灰のようなものが流れていた。
アスカは窓へ近づいた。
校庭がある。
ひび割れたトラック。錆びたサッカーゴール。枯れた雑草。配置は星霜学園に似ているが、校庭の向こうに住宅地はなかった。
代わりに、黒い森が地平まで続いている。
森のさらに奥には、傾いた建物の群れが見えた。街だ。半分崩れた高層建築が、赤い空へ骨を突き出している。
「外、見て」
星野ルナの声が震えた。
彼女は割れた窓枠に両手を置き、空の高いところを見上げていた。月形の髪留めが、赤い光を反射する。
アスカも視線を上げた。
月があった。
白く大きな月。その斜め下に、青みを帯びた小さな月。
二つ。
「あれは月じゃない」
ルナが言う。
「少なくとも、私たちが見てた月じゃない。模様が違う」
誰も答えなかった。
それまで教室に残っていた、集団で見る悪夢のような感覚が消えた。
ここは学校ではない。
東京でもない。
同じ地球かどうかさえ分からない。
廊下から足音が近づいた。
アキラたちが戻ってきた。ハヤテが救急箱を抱え、ゴウは未開封の水のボトルを何本も腕に挟んでいる。
「保健室はあった。水も使えそうだ」
「ほかに人は?」
ミサキが尋ねる。
「いない。職員室も見た。先生どころか、名簿も何もない」
「すぐ戻れって言ったでしょ」
「必要な確認だ」
アキラは窓の外を見た。二つの月に気づいても、表情を大きく変えなかった。
「とにかく、暗くなる前に校舎を調べる。食料、水、出口。ここで固まってても何も分からない」
「全員で動くの?」
コトハが小さな声で聞いた。
アキラは聞き返さなかった。彼女の声が小さいことを知っているのだ。
「怪我人は残す。動けるやつを班に分ける」
「待って」
ミサキが資料の代わりに、埃まみれのノートを開いた。
「先に校舎内。外へは出ない。日没がいつかも、外に何がいるかも分からない。班ごとに戻る時刻を決める。見つけたものは勝手に触らない」
「また会議か?」
「必要な確認」
アキラは口を閉じた。
カレンが小さく笑った。
「やっぱり息ぴったり」
今度は誰も笑わなかった。
探索班が作られた。
アスカはミサキ、ナナ、ジン、ライカと同じ班になった。担当は一階の確認だった。
階段を下りる途中、違和感があった。
二階と一階の間に踊り場が二つある。
星霜学園の階段なら、一つだけだ。
二つ目の踊り場には、白い扉があった。
取っ手も鍵穴もない。表面に細い文字が刻まれている。
「これ、何語だ?」
ジンがライトを近づける。
「文字っていうより、回路に見える」
ライカが指で空中をなぞった。
アスカは、扉の文字を見た。
胸の奥が冷えた。
意味が分かる。
――作成者権限を確認。
「触らないで」
アスカは声を上げた。
全員が振り返る。
「どうして?」
ミサキが尋ねた。
「分からない。でも、触らないほうがいい」
嘘ではない。
意味が読めることを、なぜか言ってはいけない気がした。
五人は扉を後回しにした。
一階の昇降口は外から蔓に覆われていた。食堂に食料はない。用務員室から工具と懐中電灯を回収した。
日が沈む前に、全班が教室へ戻った。
誰もほかの人間を見つけなかった。
教師も、家族も、救助隊もいない。
三十二人だけだった。
窓の外が暗くなり始めたころ、校庭で音がした。
低く、腹の底へ響く音。
全員が窓際へ集まる。
ひび割れた地面が、ゆっくり盛り上がっていた。
土を押しのけ、黒いものが出てくる。
石だった。
一枚ではない。
細長い黒い石碑が、校庭を囲むように次々と立ち上がる。
ナナが、窓に手をついた。
「三十二」
アスカは数える前から、その数を知っていた。




