表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハルマゲドン・ラスト  作者: 藤崎聖子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/21

第2章 二つの月

 最初に戻ってきたのは、痛みだった。


 右肩が痺れている。頬には冷たい床の感触があった。口の中が乾き、舌に鉄の味が残っている。


 終夜アスカは目を開けた。


 机の脚が見えた。


 見慣れた灰色の脚だった。床の薄い傷も、黒ずんだガムの跡も知っている。星霜学園二年四組の教室に、まだ自分がいるのだと思った。


 夢だった。


 そう考えた直後、鼻を刺す臭いに気づいた。


 湿った木材と、長い間閉め切った部屋の埃。雨のあとの物置に似ている。


 アスカは身体を起こした。


 教室は暗かった。


 窓ガラスの半分が割れ、天井から蔓が垂れている。壁の塗装は剥がれ、黒板には白い黴が広がっていた。さっきまで文化祭の残り日数が書かれていた場所には、深い引っかき傷がある。


 同じ形なのに、同じ場所ではない。


「起きた人、返事して!」


 天城ミサキの声がした。


 教壇のそばに立ち、スマートフォンのライトを掲げている。額から血が流れていた。それでも声は崩れていない。


「天城……さん」

「終夜さん。動ける?」

「たぶん」

「頭を打った?」

「分からない」

「吐き気は」

「少し」


「じゃあ急に立たないで」


 ミサキはそう言って、すぐ次の生徒へ向かった。


「火神くん、返事して。聞こえる?」

「聞こえてる。耳元で怒鳴るな」

「返事しないからでしょ」


 ショウが倒れた机の下から這い出す。背中に小さな切り傷があるだけで、歩けるようだった。


 教室のあちこちで声が上がった。


「痛っ、眼鏡どこ?」

「マドカ、動くな。踏むぞ」

「誰かライト貸して!」

「ユイが二人いる」

「は? 何言ってんの」

「影だよ。そこのガラスの」


 泣き声。咳。苛立った声。冗談めかした声。


 アスカはそれを聞きながら、名前を頭の中で並べた。


 天城ミサキ。雨宮ナギサ。黒瀬レン。白鳥セラ。


 一人ずつ姿を探す。


 名前は三十二まで途切れなかった。


「全員いる」


 思わず口にしていた。


 ミサキが振り返る。


「数えたの?」

「顔を見ただけ」


 教室の奥で、零崎ナナがスマートフォンのメモへ何か打ち込んでいた。


「私も確認した。三十二人。怪我がひどいのは、いまのところ御影さんと冬月さん」


 ユイは割れたガラスで腕を切っていた。シオンは左足首を痛め、立てない。毒島メイが二人のそばにしゃがんでいる。


「水と、清潔な布がいる。保健室が同じ場所にあるなら探して」


「俺が行く」


 アキラが答えた。


「一人は駄目」


 ミサキが即座に止める。


「まだ何があるか分からない。最低でも三人で」

「時間が惜しい」

「だからって怪我人を増やさないで」


 また始まるかと思ったが、アキラは一度だけ息を吐いた。


「ゴウ、ハヤテ。来い」

「命令すんなって」


 ハヤテは言いながら立ち上がった。ゴウも棚をどけ、廊下側の扉へ向かう。


 扉は錆びついていた。


 三人が力を合わせると、金属を擦る音を立てて開いた。廊下の先は暗い。窓から赤い光が差し込み、床を血のような色に染めている。


「保健室を見て、すぐ戻る。ほかの場所には行かない」


 ミサキが念を押す。


「分かった」


 答えたのはゴウだけだった。


 三人のライトが廊下の奥へ消える。


 教室ではセラが怪我人を分けていた。


「意識がある人、ない人。出血が止まっている人、止まっていない人。順番を決めないと」


「言い方」


 カレンが眉を寄せる。


「間違ったことは言ってない」

「正しくても、怖がってる子の前で言うことじゃないって」


 セラは反論しかけ、ユイの青い顔を見た。ペン先で床を二度鳴らしてから、声を少し落とした。


「御影さん。傷を見せて。大丈夫、先に止血するから」


 アスカは壁へ手をつき、ゆっくり立った。


 自分にできることが見つからない。


 怪我の知識はない。力もない。人を落ち着かせる言葉も浮かばない。


 文化祭の話し合いなら、黙っていても誰かが決めた。今は、誰かが何かを決めるたび、その判断に命がぶら下がる。


「終夜さん」


 ミサキに呼ばれた。


「はい」

「動ける人のスマホを確認して。通信、地図、時刻。違いがないかまとめて」


 仕事を渡されたことに、少し救われた。


 端末はどれも圏外だった。緊急通報もつながらない。地図は現在地を取得できず、方位磁針は針が回り続ける。


 時刻だけは動いていた。


 十六時四十一分。


 転移前から三分しか経っていない。


「三分?」


 ナギサが画面をのぞき込む。青いヘアピンが片方なくなっていた。


「もっと落ちてた気がする」

「気を失っていた時間が分からない」


 クロノが二本の腕時計を見比べる。


「こっちは電波式、こっちは機械式。どちらも十六時四十一分。秒のずれもほとんどない」

「だから何?」

「少なくとも、時計そのものは壊れていない」


「時計が正しくても、空が正しいとは限らないけどね」


 ユイが窓のほうを見た。


 割れた窓の外には、赤黒い空が広がっている。


 雲ではない。高いところで暗い赤がゆっくり渦を巻き、その下を灰のようなものが流れていた。


 アスカは窓へ近づいた。


 校庭がある。


 ひび割れたトラック。錆びたサッカーゴール。枯れた雑草。配置は星霜学園に似ているが、校庭の向こうに住宅地はなかった。


 代わりに、黒い森が地平まで続いている。


 森のさらに奥には、傾いた建物の群れが見えた。街だ。半分崩れた高層建築が、赤い空へ骨を突き出している。


「外、見て」


 星野ルナの声が震えた。


 彼女は割れた窓枠に両手を置き、空の高いところを見上げていた。月形の髪留めが、赤い光を反射する。


 アスカも視線を上げた。


 月があった。


 白く大きな月。その斜め下に、青みを帯びた小さな月。


 二つ。


「あれは月じゃない」


 ルナが言う。


「少なくとも、私たちが見てた月じゃない。模様が違う」


 誰も答えなかった。


 それまで教室に残っていた、集団で見る悪夢のような感覚が消えた。


 ここは学校ではない。


 東京でもない。


 同じ地球かどうかさえ分からない。


 廊下から足音が近づいた。


 アキラたちが戻ってきた。ハヤテが救急箱を抱え、ゴウは未開封の水のボトルを何本も腕に挟んでいる。


「保健室はあった。水も使えそうだ」


「ほかに人は?」


 ミサキが尋ねる。


「いない。職員室も見た。先生どころか、名簿も何もない」

「すぐ戻れって言ったでしょ」

「必要な確認だ」


 アキラは窓の外を見た。二つの月に気づいても、表情を大きく変えなかった。


「とにかく、暗くなる前に校舎を調べる。食料、水、出口。ここで固まってても何も分からない」


「全員で動くの?」


 コトハが小さな声で聞いた。


 アキラは聞き返さなかった。彼女の声が小さいことを知っているのだ。


「怪我人は残す。動けるやつを班に分ける」


「待って」


 ミサキが資料の代わりに、埃まみれのノートを開いた。


「先に校舎内。外へは出ない。日没がいつかも、外に何がいるかも分からない。班ごとに戻る時刻を決める。見つけたものは勝手に触らない」


「また会議か?」

「必要な確認」


 アキラは口を閉じた。


 カレンが小さく笑った。


「やっぱり息ぴったり」


 今度は誰も笑わなかった。


 探索班が作られた。


 アスカはミサキ、ナナ、ジン、ライカと同じ班になった。担当は一階の確認だった。


 階段を下りる途中、違和感があった。


 二階と一階の間に踊り場が二つある。


 星霜学園の階段なら、一つだけだ。


 二つ目の踊り場には、白い扉があった。


 取っ手も鍵穴もない。表面に細い文字が刻まれている。


「これ、何語だ?」


 ジンがライトを近づける。


「文字っていうより、回路に見える」


 ライカが指で空中をなぞった。


 アスカは、扉の文字を見た。


 胸の奥が冷えた。


 意味が分かる。


 ――作成者権限を確認。


「触らないで」


 アスカは声を上げた。


 全員が振り返る。


「どうして?」


 ミサキが尋ねた。


「分からない。でも、触らないほうがいい」


 嘘ではない。


 意味が読めることを、なぜか言ってはいけない気がした。


 五人は扉を後回しにした。


 一階の昇降口は外から蔓に覆われていた。食堂に食料はない。用務員室から工具と懐中電灯を回収した。


 日が沈む前に、全班が教室へ戻った。


 誰もほかの人間を見つけなかった。


 教師も、家族も、救助隊もいない。


 三十二人だけだった。


 窓の外が暗くなり始めたころ、校庭で音がした。


 低く、腹の底へ響く音。


 全員が窓際へ集まる。


 ひび割れた地面が、ゆっくり盛り上がっていた。


 土を押しのけ、黒いものが出てくる。


 石だった。


 一枚ではない。


 細長い黒い石碑が、校庭を囲むように次々と立ち上がる。


 ナナが、窓に手をついた。


「三十二」


 アスカは数える前から、その数を知っていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ