第1章 世界が終わる放課後
黒板の右上に、文化祭まであと十九日、と書いてあった。
十九という数字の下には赤いチョークで二本線が引かれている。天城ミサキが話し合いを始める前に引いたものだ。最初の一本が細すぎて、気に入らなかったらしい。
終夜アスカは、その二本の線をぼんやり見ていた。
「だから、喫茶店は準備が間に合わないって。食品を扱うなら申請がいるんだよ」
教壇の前で、ミサキが言った。
肩でそろえた髪が、窓からの風に揺れている。左手には文化祭の資料。右手には、話し合いの間だけ着ける学級委員の腕章があった。腕につけず、指で握っている。
「申請なら今日出せばいいだろ」
神代アキラが前の席から答えた。椅子を半分だけ後ろへ傾け、腕を組んでいる。
「今日決まればね」
「じゃあ決めればいい」
「その決め方を話してるの」
教室のあちこちから笑いが起きた。険悪ではない。いつものことだ。
アキラは自分が正しいと考えると声が大きくなる。ミサキは声を荒らげない代わりに、一語ずつ硬くなる。
「はいはい、夫婦喧嘩は文化祭が終わってから」
赤城カレンが言った。
「誰が夫婦よ」
「息ぴったりじゃん」
ミサキは腕章を握り直した。左手の爪が、手のひらへ食い込んでいる。
終夜アスカは、そういうことをよく覚えていた。
御影ユイは噂話の前に、相手が逃げられる方向を一度見る。岩永ゴウはプリントを渡すとき、太い指で紙の角をきちんとそろえる。夢野ネムは眠そうな顔をしているのに、授業中に一度も居眠りをしない。
覚えようとしたわけではない。気づくと残っている。
その代わり、自分の意見はなかなか口にできなかった。
「演劇がいい人」
ミサキが尋ねる。手が六本上がった。
「展示」
今度は九本。
「喫茶店」
十五本ほどが上がった。数え方が曖昧だった。風間ハヤテが両手を上げ、時任クロノに片方を下ろされている。
「あれ、足りなくない?」
円城マドカが丸い眼鏡を押し上げた。
「終夜さん、どれにも上げてない」
教室の視線が、窓際の後ろから二番目へ集まった。
アスカは反射的に机の縁を指でなぞった。三十二人いる教室で、一人に視線が集まると、空気には重さが生まれる。
「私は……どれでも」
「それ、一番困る答え」
ミサキは責める口調ではなかった。それでもアスカは肩を縮めた。
「ごめん」
「謝らなくていいから。何かない?」
何か。
演劇なら音無ウタが歌えるかもしれない。ただし、本人は人前で歌うのを嫌がる。喫茶店ならマドカは喜ぶだろうが、毒島メイは衛生管理で眠れなくなる。展示なら灰原スミレと鉄輪ジンが、古い物と新しい機械のどちらを置くかでもめる。
どれを選んでも、誰かが笑い、誰かが黙る。
アスカは小さく息を吸った。
「一人で決めないで、投票にしたら」
言ってから、もう投票のようなことをしていたと気づいた。
顔が熱くなる。
けれどミサキは笑わなかった。
「無記名で?」
「うん。今みたいに手を上げると、周りを見る人もいるから」
教室の前方で、言吹コトハが袖口をつまんだまま、わずかに顔を上げた。アスカの言葉に反応したように見えた。
「それがいいんじゃない?」
白鳥セラが細い銀縁眼鏡を押し上げる。
「選択肢を三つに限定して、過半数がなければ上位二案で決選投票。合理的だと思う」
「ほら、セラもこう言ってるし」
カレンが机を叩いた。
教室の空気が、少しだけ動いた。
ミサキは黒板に「無記名」と書いた。アスカの案だとは書かなかった。それでよかった。発言が採用されたことより、もう誰もこちらを見ていないことに、アスカはほっとした。
「紙、切ろうか」
岩永ゴウが余ったプリントを手に取る。
「定規使えよ。大きさが違うと誰の票か分かる」
クロノがすぐに口を挟んだ。
「そこまで見る人いる?」
「いるかどうかじゃない。無記名なら条件をそろえる」
「細かいなあ」
ハヤテはそう言いながら、机を運び始めた。考えるより先に動く。隣の火神ショウも立ち上がり、邪魔な椅子をまとめる。
廊下側では、青葉トウマが窓辺の鉢植えへ水をやっていた。話し合いに興味がないわけではない。葉がしおれているのを放っておけないだけだ。
零崎ナナは投票用紙を配るため、出席番号順に名前を確かめている。
「終夜アスカさん」
「はい」
「天城ミサキさん」
「いるわよ」
「知ってる。でも、確認」
ナナは真顔で言った。誰かが笑う。
その笑いの向こうで、窓ガラスが白く光った。
最初、アスカは夕日が反射したのだと思った。
ただ、窓は西ではなく南を向いている。
白さは一瞬で濃くなった。住宅地も、低い山も、空も消えた。窓の向こうを、塗料で塗り潰したようだった。
「カーテン閉めて!」
ミサキの声が飛んだ。
鳴海ライカが窓へ駆け寄る。カーテンへ手を伸ばしたところで、動きを止めた。
「待って。外がない」
「何言って――」
アキラが立ち上がる。
教室の照明が消えた。
直後、すべてのスマートフォンが一斉に鳴った。
着信音ではない。警報音でもない。三十二台から、同じ高さの音が伸びている。
アスカは机の中から自分の端末を取り出した。
画面は真っ白だった。
中央に黒い文字が一行だけ浮かぶ。
読めない文字だった。
なのに、意味が分かった。
――再演を開始します。
「何、これ」
自分の声が聞こえた。
床が揺れた。
机が跳ね、窓ガラスが細かく震える。地震だ、と誰かが叫んだ。ショウが近くの机の下へコトハを押し込む。ゴウは倒れかけた棚を両腕で支えた。
「頭を守って! 窓から離れて!」
ミサキが声を張る。
アスカも机の下へ入ろうとした。
けれど、床に亀裂は入らなかった。
床そのものが、透明になっていた。
教室の下にあるはずの三階が見えない。暗い穴もない。あるのは、底の分からない白い光だった。
机の脚が沈んだ。
木材が溶けたのではない。床を通り抜けて、下へ落ちた。
「動くな!」
アキラが叫んだ。
誰も動いていなかった。
それでも椅子が、鞄が、プリントが、次々に白の中へ消えていく。
教室の前で、マドカが足を滑らせた。
「マドカ!」
食満グラが腕をつかむ。だが彼の足元も抜けた。二人の身体が腰まで沈む。
カレンとナギサがグラを引いた。ハヤテも加わる。引き上げるより早く、透明な床が教室全体へ広がった。
アスカの身体が落ちる。
胃が上へ置き去りになる。
机も、椅子も、三十二人も、ばらばらに白い空間を落ちていた。
アスカは手を伸ばした。
一番近くにいたのはミサキだった。指先が届かない。ミサキもこちらへ手を伸ばしていたが、間に投票用紙が舞い込んだ。
小さな白い紙が、雪のように二人を隔てる。
誰かが泣いていた。
誰かが名前を呼んでいた。
アスカも呼ぼうとした。ミサキ。ナナ。マドカ。名前なら全員分、知っている。
声が出なかった。
白い光が口の中まで入り込んでくる。
意識が途切れる寸前、耳元で女の声がした。
落下の風にも、クラスメートの悲鳴にも消されない、静かな声だった。
「今度こそ」
その声は、ひどく懐かしかった。
アスカは誰の声なのか思い出せないまま、白の底へ落ちた。




