第23章 器
天城ミサキの監視ノートに、変化が増えた。
終夜アスカは死者を能力名で呼ぶ。
人に命令するとき、疑問形を使わない。
眠っている間、知らない言葉で世界の状態を読み上げる。
目を覚ますたび、本人は覚えていない。
最初に気づいたのは、食事のときだった。
アスカは配られた乾パンを一つずつ砕き、重さの順に並べた。
「何してるの」
ミサキが尋ねると、手が止まる。
「分からない」
「いつもは端から食べる」
「そうだった?」
「ジャムがあれば真ん中から」
「今はない」
「あるとしたら」
アスカは乾パンを見つめた。
「栄養効率を均等化する」
本人が言いそうにない答えだった。
ミサキはノートへ書いた。乾パンを質量順に配置。嗜好に関する質問へ、効率で回答。
書かれる間、アスカは自分の手を膝の下へ隠した。
「やめる?」
「何を」
「記録」
「やめたら、変わってないことにできる?」
「できない」
「なら書いて」
言ったあと、アスカは乾パンを一つ取り、端からかじった。
「ジャム、欲しい」
ミサキはその一言も記録した。
ミサキは毎朝、三つの質問をした。
質問は日ごとに少し変えた。
固定した答えだけを先代が覚えれば、確認にならない。
「マドカが隠してた物は?」
「チョコ」
「どこ」
「机の裏」
「ユイは何人?」
アスカは迷う。
「二人」
「今は?」
「一人」
「本物は?」
「決めなかった」
正解を試す質問ではない。二人の間で何を決め、何を決めなかったかを確かめる。
ある日は、ミサキが自分の質問へ答えられなかった。
「昨日、最後に話した人は?」
「アスカ」
「その前」
「ナナ」
「違う。グラだよ」
アスカが訂正した。
ミサキはノートを見直す。自分の記憶が抜けている。
「私も?」
「疲れてるだけかもしれない」
「そうやって小さく見ない」
ミサキは自分の欄へ、会話相手を誤認、と書いた。
監視する側も正しくない。その記録があることで、ノートは判定表ではなく二人の記憶になった。
「あなたの名前は?」
「終夜アスカ」
「文化祭で何を提案した?」
「無記名投票」
「昨日、最後に話した人は?」
この答えだけが、日ごとに遅くなった。
ある朝、アスカは「地核点火」と答えた。
「名前で」
ミサキが促す。
「火神ショウ」
言い直すまでに十秒かかった。
ミサキは監視ノートへ記録する。
「嫌にならない?」
アスカが尋ねる。
「何が」
「毎日、私が私か確認するの」
「嫌だよ」
ミサキは答えた。
「嫌じゃないって言ったら、続けられなくなる」
「私のことが?」
「自分のことも。朝起きて、今日こそ違う顔で見られるかもしれないって思う」
「ごめん」
「謝らないで。やめたい日があるって言ってるだけ」
「今日は?」
「やめたい」
アスカはノートを閉じた。
「じゃあ今日は、私が聞く」
「何を」
「ミサキの好きな飲み物」
「水」
「嘘。缶のココア」
「甘すぎる」
「自販機で毎回買ってた」
「冬だけ」
「今は?」
「飲みたい」
二人は水しかないボトルを分けた。ココアではないと文句を言い、味の記憶を確かめた。
「私も確認してもらった」
眠るたび世界を焼くかもしれないと恐れていた夜、アスカは布の端を握っていた。
「今度は私の番」
アスカはノートを見る。
日付。口調。知識。表情。名前への反応。
「全部先代になったら、このノートに何が残る?」
「変わった場所」
「それだけ?」
「戻る道」
ミサキは断言した。
だがノートを閉じた手は震えていた。
少し離れた場所で、アキラが二人を見ている。
アキラは規則を書いた紙を壁へ貼った。
一、アスカを単独にしない。
二、能力使用は二名以上の承認を得る。
三、人格交代の兆候があれば拘束する。
四、拘束解除は全員の合意を必要とする。
「四は無理」
リクが言う。
「一人でも先代に操られたら、永遠に解除できない」
「なら三分の二」
「人数が減ったときの基準は」
「減る前提で作るな」
「減らない前提の規則は使えない」
二人の声が強くなる。
アスカは壁の紙を読んだ。
「私も決める側に入る?」
アキラが黙る。
「拘束される本人は、解除へ投票できない」
「拘束する前は?」
「人格が残っていると確認できれば」
「誰が確認する」
「ミサキ」
「私一人にしないで」
ミサキの言葉で、話し合いが止まった。
「私が間違えたら、全員が従う規則になる。確認は三人。私、アキラ、本人が選んだ一人」
アスカはコトハを見た。
「お願いしていい?」
コトハは驚き、袖口を握った。
「私、声を使ったら」
「使わないで聞いて。私が言ってることがおかしいか」
「分かった」
小さな声だったが、命令の力は乗っていなかった。
「個人の監視で済む段階じゃない」
セラへ小声で言った。
「拘束すれば先代を刺激する」
「待てば完成する」
「本人へ話すべき」
「本人がどちらか分からなくなってからでは遅い」
「先代になったと判断する基準は?」
セラが聞く。
「能力名で呼ぶ。管理者の言葉を使う。命令へ反応しない」
「すべて疲労でも起きる」
「では、何人死ねば確定する」
「人数ではない」
「器の回収率は上がってる」
「神殿の基準を、私たちの判断へ使うの?」
アキラは言葉を失った。
秩序を作るため、敵の物差しを借りようとしていた。
「拘束案に反対ではない」
セラは続ける。
「ただし、何を恐れているか本人へ言うべき。危険だから、だけでは足りない」
アキラはアスカを見た。
「お前が全員を能力名で呼び、死を回収と表現するようになるのが怖い。俺たちを人間ではなく、完成までの部品として見るのが」
「私も怖い」
アスカが答えた。
「だから、そうなったら止めてほしい。でも今から部品みたいに縛られるのは嫌」
両方の恐怖が並んだ。解決はしない。それでも、隠したまま力で押さえるより一歩だけ進んだ。
アキラは秩序を守ろうとしていた。
ミサキもアスカを守ろうとしていた。
どちらも恐怖から生まれた判断だった。
話し合う前に片方が行動すれば、また一人の正しさになる。
コトハは二人の会話を聞き、袖口を強くつまんだ。
自分の言葉で止めなければならない時が近づいていた。
「拘束する」
神代アキラが言った。
「もう本人の意思で抑えられる段階じゃない」
決断の直前、アスカが眠ったままショウの首へ手を伸ばした。
指先に地核の熱が集まり、皮膚を赤くする。
ショウは避けなかった。
「おい。俺の名前、言え」
「《地核点火》を回収します」
「違う」
カレンがアスカの腕の血流を止める。熱を宿した手が数センチ手前で落ちた。
「火神ショウ」
ショウが自分で名乗る。
「怒りっぽい。辛い物が好き。文化祭はお化け屋敷」
アスカの目に一瞬、光が戻る。
「喫茶店」
「戻った」
ショウは笑ったが、アキラは笑えなかった。
「次は首へ届く」
誰も否定できない。
本人が眠っている間に拘束案が可決された。
目覚めたアスカへ、アキラは決定と理由をすべて話した。
「投票へ参加できなかった」
「お前が先代だった可能性がある」
「なら保留にして、起きてから聞いて」
「その間に誰かが死ぬ」
「分かってる。でも、私の身体のことを私なしで決めた」
「それでも拘束する」
アキラは目をそらさなかった。
「俺が責任を持つ」
「一人で?」
その問いに答える前に、別人格が表へ出た。
「本人の前で話して」
ミサキはアスカを背に隠さなかった。
「終夜。どうしたい」
アキラが問う。
アスカは答えようとした。
口から別の声が出る。
「残存権能を回収します。抵抗は不要です」
アキラが動いた。
廊下の重力を反転し、アスカの身体を天井へ押しつける。
骨が軋む。
アキラは圧力を弱めた。弱めれば先代が能力を使う。強めればアスカ本人を傷つける。
「拘束具を!」
ジンが機械の輪を投げる。輪は空中で止まり、逆向きの重力に砕かれた。
アスカの口から管理者の声が続く。
「抵抗個体を排除します」
天井の石が剥がれ、アキラへ落ちる。
ミサキは核兵器を出しかけた。黒い点が掌へ浮かび、すぐ消す。
「アスカ、聞こえる?」
「回収を」
「終夜アスカ」
返事がない。
「文化祭、私は何へ票を入れるって言った?」
「不要な記録です」
ミサキの顔から血の気が引く。
コトハが一歩前へ出た。
「今だ、縛れ!」
言吹コトハが前へ出た。
全員が命令を期待している。
言えば終わる。
止まれ、と命じれば、先代もアスカも身体を動かせない。
死ね、と言えば、器ごと消せるかもしれない。
全員の視線が、言葉を選ぶ責任をコトハ一人へ集めた。
「何て言えばいい」
コトハは初めて大きな声で尋ねた。
「止まれ!」
アキラが叫ぶ。
「本人が戻れない」
ミサキは反対する。
「眠れ」
ネムが言う。
「先代も夢へ入るかもしれない」
意見が割れる。
コトハは袖口から手を離した。
「私に決めさせないで」
命令ではない声が広間へ響いた。
全員が黙る。
「アスカさんの中に本人がいるなら、本人へ決めてもらう」
止まれ。
眠れ。
従え。
コトハは袖口をつまんだ。
「アスカさんに、選ばせて」
《命令言語》が神殿へ響く。
能力は「選べ」という命令に変換しようとした。
コトハは喉を押さえ、自分の力へ抵抗する。
「選べ、じゃない。選ばせて。周りに言ってる」
命令の向きが反転した。
先代人格へ道を譲れと命じるのではなく、アキラ、ミサキ、神殿、そしてコトハ自身へ、アスカの選択を奪うなと命じた。
先代人格が止まり、現在のアスカが息を吸った。
「私は」
重力の圧力に耐えながら言う。
「怖い。でも、縛られたまま最後まで待ちたくない」
天井が崩れる。
アキラは重力の向きを変え、落石を全員から遠ざけた。
その境界へ自分の身体が引かれる。
アキラは落石を右へ流す。右にはリクがいる。左へ変えると、ナナがいる。上へ返せば天井がさらに崩れる。
最後に、自分の立つ縦穴へすべてを集めた。
「俺が決めるしかない」
口にしてから、リクと同じ言葉だと気づく。
「違う」
アキラは叫んだ。
「俺が選ぶ。でも、お前らは従わなくていい! 別の道が見えたらそっちへ行け!」
規則に従わせるためではなく、規則を破る余地を残す。
それが最後にできた修正だった。
「従えじゃない」
アキラが叫ぶ。
「走れ。決めるのはお前らだ」
落石とともに暗い縦穴へ消える。
コトハも床へ膝をついた。
「命令じゃない」
声が出なくなりかけている。
「私の、意見」
アスカが手を取る。
コトハは、聞き返されたときのように少し大きな声で言った。
「自分で決めて」
コトハの喉から血が落ちた。
曖昧な言葉を、能力が無数の命令へ解釈した。自分で呼吸し、自分で立ち、自分で生きる。対象となった全員へ、奪われていた選択が一瞬戻る。
代わりに、コトハ自身の声帯が裂けた。
口を動かしても音が出ない。
彼女はアスカの掌へ指で文字を書いた。
わ、た、し、も。
「コトハも、自分で決めた?」
うなずく。
次に、手の甲へゆっくり書く。
き、い、て。
「聞いてる」
コトハは安心したように目を閉じた。
《重力反転》と《命令言語》が継承される。
管理者が、アスカの石碑情報を開いた。
『《最後の一人》は終末権能ではありません』
欠けていた説明文が埋まる。
『全権能と先代人格を回収する器です』
アスカはミサキを見た。
「無限核武装」
名前ではなく能力名が口から落ちた。
自分の声に、自分で怯える。
「もう一回」
ミサキが言う。
「天城ミサキ」
「無限核武装」
「違う」
「分かってるのに、言えない」
「急がなくていい」
ミサキは両手でアスカの顔を挟んだ。
「髪は黒。右の眉に小さい傷。甘いココアを冬だけ飲む。能力は危険。本人も怖がってる」
「天城」
「うん」
「ミサキ」
「私はここにいる」
名前を言えた瞬間、アスカは泣いた。忘れた悲しみではなく、思い出すまで待ってもらえたことに。
ミサキは逃げなかった。
「私は天城ミサキ」
一語ずつ、アスカへ返した。




