第21章 アスカの顔
顔を削られた少女の壁画が、ひび割れた。
石の粉が落ち、その下から肌の色が現れる。
黒い髪。伏せた目。目立たない顔。
終夜アスカと同じ顔だった。
「違う」
アスカは後ずさる。
壁画の少女が目を開けた。
記憶が神殿を塗り替える。
少女は仲間が死ぬたび、力を受け継いだ。
最初は泣いていた。次は怒った。十人を越えるころには、死者の声と自分の声を区別できなくなった。
三十一の力を得た最後、彼女は戦争を止めた。
最初に止めたのは、国境の小さな戦闘だった。
先代アスカは兵士の武器を風化させ、命令する将軍を眠らせた。負傷者の血を止め、食料を増やし、壊れた橋を機械に直させた。
人々は奇跡と呼んだ。
『次も助けて』
一つの国が頼み、隣の国も頼んだ。
『どちらが正しいか決めて』
先代は記録を読み、両方の話を聞き、判断した。
間違えると死者が出た。
だから次は、反対する者の心を血液支配で落ち着かせた。嘘をつく者へ命令言語で真実を話させた。犯罪を考えた者を永久睡眠で眠らせた。
結果は良くなった。
死者が減った。
その数字が、先代から疑う力を奪った。
『あなたが決めたほうが早い』
『話し合うより正しい』
人々は選択を預けた。
先代も引き受けた。
天候を管理し、出生数を管理し、恋愛や移住まで最適な組合せを示した。拒む自由は「将来の苦痛」として削除した。
街は豊かで静かになった。
子どもは泣かず、大人は争わない。
笑い声も減った。
先代はその変化を、安定と呼んだ。
ある日、一人の少女が許可なく花を植えた。
『どうして規則を破ったの』
『自分で選びたかったから』
先代には、その答えが理解できなかった。
花を抜けば争いは起きない。残せば他の者も規則を破る。
迷った末、少女の選択欲求を眠らせた。
その夜初めて、先代は世界の時間を止めた。
誰も新しい選択をしなければ、二度と間違いは起きない。
停止した世界を、先代アスカは一人で歩いた。
市場では林檎が空中へ落ちる途中で止まっている。公園では子どもの靴が地面から浮いたまま、母親の手へ届かない。少女が植えた花は半分だけ開いていた。
誰も死なない。
誰も生きていない。
先代は一日目、その静けさを平和と呼んだ。
十日目には、時間を戻す時刻を考えた。
百日目には、戻した瞬間にまた争いが始まる未来を何千通りも計算した。
千日目には、計算をやめた。
『私が迷わなければ、世界は正しい』
誰も反対しない街で、自分へ言い聞かせる。
返事がないことを賛成として扱った。
あるとき、先代は記録庫で仲間の声を見つけた。
《無限核武装》を持っていた少女が、能力を使わないでと頼む声。
《大洪水世界》の少年が、海を見たいと話す声。
能力名と最期の瞬間だけが残り、名前は欠けていた。
先代自身が消したのだ。
名前を読むたび罪悪感が増え、管理判断が遅くなる。だから能力名へ置き換えた。効率のためだった。
『あなたたちの力で、世界を救った』
そう報告しても、記録は答えない。
力だけを使い、本人の望みを忘れた世界が、彼らの望んだものか分からなかった。
先代は停止した花の前へ戻った。
少女の選択欲求を眠らせたとき、その名前も記憶から消していた。
ただ、花だけが残っている。
『私が間違えたの?』
質問を受け取る人間はいない。
先代は初めて、自分が世界で最後の一人になったことを知った。
力をすべて集めたからではない。
話し相手をすべて止めたからだった。
空腹を消し、病を消し、犯罪を起こす意思を眠らせた。重力も気候も機械も、すべて一人で管理した。
完璧な世界だった。
誰も争わない。
誰も選ばない。
時間さえ進まない。
『これで、もう誰も死なない』
少女が振り返る。
アスカの顔で笑った。
記憶が途切れる直前、先代は停止した少女の花を一輪だけ摘んだ。
花弁は崩れなかった。
時間まで支配した世界では、枯れる自由もなかった。
「私じゃない!」
記憶が切れる。
広間へ戻ると、全員がアスカから距離を取っていた。
火神ショウが先に口を開く。
「あれを見て、違うって言うだけか」
責める声だった。
「じゃあ、どう言えばいい」
アスカも声を強くした。
「同じ顔だから私がやったって謝ればいい? 覚えてない世界のことを?」
「力は持ってる」
「持ちたくて持ったんじゃない」
「俺らだって同じだ!」
床の奥で熱が鳴る。
二人とも黙った。
ショウは拳を開く。
「悪い。怒鳴りたいのはお前じゃない」
「私も」
謝るだけで恐怖は消えない。だが、怒りの向きを間違えたと認めることはできた。
セラは壁画とアスカを見比べる。
「人格が違っても、能力継承で同じ判断傾向が復元される可能性はある」
「だから監視する」
ミサキが答える。
「本人へ知らせず拘束するのではなく、変化を一緒に見る」
「危険が表面化してからでは遅いかもしれない」
「早く決めれば正しいとも限らない」
二人の間にはエマの死があった。
セラは反論せず、ノートへ「先代人格の兆候」と書いた。その下へ少し迷ってから、「現在人格との相違も記録」と加える。
アスカはその文字を見た。
自分が先代と違う証明は、顔でも魂でもない。
これから何を選ぶかだけだった。
「転生」
リクが壁の文字を読む。
「魂を複製し、記憶を消して別の文明へ送った、とある」
「じゃあ、終夜が作ったのか」
アキラが神殿を見回す。
「違う」
「同じ顔、同じ魂、同じ能力だ」
「今のアスカは今のアスカ」
ミサキが間へ入る。
「記憶がなければ別人だと言う根拠は?」
セラが尋ねる。
「同一人物だと言う根拠にもならない」
ミサキは譲らない。
アスカは鏡の破片へ映る自分を見た。
一瞬、先代の表情になる。
『あと十八』
自分の口が動いた。
「何?」
ミサキが腕をつかむ。
「私、何て言った?」
答えを聞く前に、管理者の声が神殿へ響いた。
『最後の一人の復元率が規定値を超過しました』
アスカと同じ声だった。




