第19章 鏡の王国
鏡の王国では、死者が笑っていた。
先代《鏡像感染》は、亡くした家族を鏡から戻した。
最初に戻ったのは、妹だった。
熱病で死んだ朝と同じ寝間着を着て、鏡の内側から姉を呼んだ。手を重ねると、ガラスが水面のように揺れた。
『出して』
先代の少女は三日迷った。
医師は幻だと言い、司祭は悪霊だと言い、母親だけが娘の名を呼び続けた。四日目、少女は妹の手を引いた。
鏡から出た妹は、母の煮込み料理をまずいと言った。生前と同じ言い方だった。家族は泣いて抱き合った。
その夜、本物の妹の墓が空になった。
「死体まで移ったの?」
ユイが尋ねる。
「違う」
セラは記録の数値を読む。
「死者が戻ったんじゃない。墓にいた身体を材料に、鏡像を作った」
「本人じゃない?」
「定義できない」
「またそれ」
ユイは唇を噛んだ。
母も父も、死ぬ直前までの記憶を持っている。だが鏡の外へ出た彼らは、自分が偽物だと認めなかった。
妹が学校へ戻ると、同級生は避けた。教師は以前と同じ席へ座らせたが、出席簿では死亡の線が消えない。
『私はいるのに』
妹は自分の名の上へ何度も丸をつけた。
やがて国王が能力を知り、戦死者を戻すよう命じた。
兵士は鏡から帰った。家へ戻ると、同じ顔の男が家族と暮らしていた。戦地へ送られたのは双子の兄だったか、弟だったか。記録が混ざり、本人たちにも分からない。
どちらも妻の好物を知っていた。
どちらも子どもの誕生日を覚えていた。
どちらも、自分こそ帰ってきた父親だと言った。
「選ばせたの?」
ユイが聞く。
「国は戸籍上の一人を決めた」
「もう一人は」
「処分された」
ユイは記録結晶から手を離そうとした。掌が鏡面へ貼りつき、離れない。
国中で、本物と鏡像が互いを殺し始めた。
最後には、どちらが最初の人間だったか誰にも分からなくなった。
「私と同じ」
「違う」
アスカがすぐ言った。
「何が?」
「あの国は一人を偽物って決めた。私たちは決めなかった」
「でも、もう一人は死んだ」
「うん」
「私が残った。だから周りから見たら、選んだのと同じ」
「ユイは殺してない」
「死んでほしくないって思った」
それは誰も責められない願いだった。
「あの子も同じこと思ったよ」
ユイは紙へ二度書いた自分の名を見る。
「私が本物でいたいって。私も思った。二人とも」
アスカは否定する言葉を探したが、見つけられなかった。
「なら、二人とも書く」
「区別できないよ」
「区別できなかったって書く」
答えを出さないことを、逃げにしない。分からないまま残す。
残った御影ユイが記録結晶へ触れる。
鏡面が広間の壁を覆った。
無数のユイが映る。
記録を開く前、ユイはアスカへ小さな紙を渡していた。
家族の名前、住所、好きだった物。最後に御影ユイと二度書かれている。
「どうして二回?」
「死んだほうと、残ったほう。どっちがどっちか分からないから、同じ字」
影森ヨルが壁際から見ていた。
「ヨルも何か書く?」
「書くほどない」
「集合写真を撮ってた」
「写ってないなら、いなかったのと同じだろ」
「どうして自分を撮らなかったの」
ユイが聞く。
「カメラ、一台しかなかった」
「タイマーあるよ」
「待たせるの嫌だった」
「誰も急いでなかった」
「俺が写ると、誰かが端になる」
「端でも写りたいか、聞いた?」
ヨルは黙った。
自分が退けば全員が収まる。そう決めて、誰にも確認しなかった。小さなことだが、神殿で繰り返されてきた選び方と似ている。
「次は聞く」
「帰ったら一緒に撮ろう」
「誰がシャッター押す」
「タイマー」
ユイが笑った。ヨルもわずかに口元を緩めた。
ユイが振り返る。
「違うよ。撮った人がいなければ、写真そのものがない」
ヨルは返事をしなかった。ただユイが鏡へ近づくとき、目立たない距離で後ろについた。
『本物になればいい』
鏡の中から声がした。
『ほかを消せば、残った一人が本物』
「違う」
ユイは耳を塞ぐ。
それでも鏡像が一人ずつ外へ出る。
十人、二十人。全員が同じ傷と記憶を持つ。
一人がアスカへ紙を差し出した。
家族の名前、住所、好きだった物。最後に御影ユイと二度。
次の一人も同じ紙を持つ。
「私が渡した」
「私だよ」
「違う、私」
声が増える。
全員の右手に、記録結晶へ触れた赤い跡がある。直前までの経験も複製されている。
アスカは誰か一人の手を取ろうとして、止めた。選べば、ほかを偽物にする。
「全員、名前を言って」
二十人が同時に答える。
「御影ユイ」
同じ音が広間を満たした。
「どれが本物だ」
アキラが叫ぶ。
「近づけるな!」
赤城カレンが《血液支配》で動きを止めようとする。だが同じ顔と同じ名を持つ対象が多すぎる。自分の鼻から血が流れた。
別の結晶が開く。
先代《血液支配》は暴君を倒し続け、最後には争う可能性を持つ全人類の心臓を止めた。
先代のカレンは王宮の侍医だった。
暴君が処刑を命じるたび、その血流を数秒止めて失神させた。最初は誰も殺さないための力だった。
王が目を覚ますたび、さらに多くの人間を疑った。侍医は反乱軍へ加わり、王の心臓を止めた。
次の指導者は裏切り者を処刑した。
その次は、旧王派を。
少女は悪い支配者を一人ずつ止めた。国は安定せず、彼女の判断だけが法律になった。
『善人の心臓だけ動かせばいい』
最後には、自分以外の善悪を確かめる者がいなくなった。
カレンは鼻血を拭う。
「世話を焼くのと、相手の人生を握るのは違う」
「今、私たちの血を止めてる」
ユイの一人が言う。
「止めなきゃ殺し合う」
「同じこと言ってたよ」
カレンの集中が揺らぎ、鏡像が一斉に動いた。
「じゃあ、どうしろっていうの」
「知らない!」
ユイたちは同時に叫んだ。
「私たちも分からないから争ってる!」
カレンは唇を噛み、血流の拘束を心臓から手足へ移した。命を握らず、動きだけを遅らせる。
「分からないまま、殺さない」
負荷が増し、鼻だけでなく耳からも血が流れた。
植物の結晶では、森を守るために進化した根が都市を覆う。
先代のトウマは、焼けた森で最後の苗を育てた。
一日に一枚、葉が増えるたび日記へ絵を描いた。苗が自分の背を越えた日、村人を呼んで木陰へ座った。
戦争が再開し、兵士が木を切った。
少女は切られない根を作った。火に耐える幹、刃を折る樹皮、毒を出す花。森は守られるたび、人間を必要としない形へ進化した。
最後の一人が根に飲まれたあとも、日記だけは木の洞に残った。
最後の頁には、今日は葉が一枚増えた、とあった。
疫病の結晶では、痛みを消す病同士が混ざり、人々は苦しまずに死んでいく。
先代のメイは、病院で痛みに耐える子どもへ、眠れる病を与えた。
熱は下がり、咳も止まり、子どもは笑った。病気そのものは治っていなかった。痛みが消えたため、誰も悪化に気づかなかった。
少女は別の病で食欲を戻し、別の病で呼吸を楽にした。
症状を消す病が身体の中で交わり、触れただけで広がる静かな死へ変わった。
メイは救急ポーチを胸へ抱いた。
「楽にするのと、治すのを混ぜた」
「エマと逆」
セラが言う。
「生かすことだけを見たエマと、苦痛だけを見た先代。どちらも一つしか見なかった」
「私は?」
「今は両方見てる」
「見てるだけで、治せない」
「見ないよりいい」
四つの過去が同時に広間へ流れ込む。
青葉トウマの腕の緑が首まで昇る。
毒島メイが見えない病を吸い込んだように咳き込む。
ユイの鏡像たちは互いへ爪を立てた。
「全部消す」
影森ヨルが言った。
床に落ちた無数の影が、黒い怪物へ変わる。鏡像へ絡みつき、動きを止める。
「ユイも消える」
アスカが叫ぶ。
「増え続けたら全員死ぬ」
「だからって」
「本人に聞け」
ヨルはユイたちへ向いた。
「光を消したら、鏡像とつながった俺の影も消える。お前たちも戻らない」
二十人のユイが互いを見る。
「嫌」
一人が言った。
「死にたくない」
「私も」
「どれか一人だけ残せない?」
「選べない」
「なら、また殺し合う」
声が重なり、やがて一人がアスカへ紙を投げた。
「二回、名前を書いて」
「二人じゃない。今は二十人」
「最初の二人でいい。そこから増えた私たちは、同じ恐怖の繰り返しだから」
全員が賛成したわけではない。
逃げようとする者、鏡へ戻ろうとする者、ほかを押しのける者もいる。カレンが命を止めない拘束を続け、ヨルの影が一人も傷つけずに捕らえた。
全員の同意を待てば、感染は広間の外へ出る。
選べないまま時間だけが尽きる。
残ったユイがヨルの手を取った。
「一緒に写れなかったね」
「今、見てる」
「カメラないよ」
「覚える」
「光を消して」
「暗くしたら影が強くなる」
「完全に消すんだ。影ができないくらい」
黒瀬レンが太陽の光を遮る。
光丘ヒカルも自分の白光を閉じる。
広間が完全な闇になった。
暗闇の中で、ユイの声がいくつも続いた。
「私が本物」
「私も」
「消えたくない」
最後まで一つにはならなかった。
ヨルの手だけが、アスカの指先へ一瞬触れた。
「シャッター、押して」
アスカは何もない空間で指を曲げた。
小さく、撮影音を口で真似た。
影は光がなければ生まれない。
怪物が消える。
鏡像たちも、影に結びついたまま輪郭を失った。
「ヨル!」
アスカは暗闇へ手を伸ばす。
「ここにいたって、言ってくれ」
声だけが返る。
「影森ヨル。写真部。集合写真では、いつも自分がシャッターを押してた」
「うん」
「覚えてる」
「それでいい」
暗闇が晴れる。
鏡はすべて割れていた。
床にはヨルとユイが倒れている。
ユイの手はヨルの袖をつかんだままだった。
アスカは二人を並べようとして、やめた。その位置が本人たちの最後に選んだ距離だった。
どのユイが残っていた本人なのか、最後まで分からなかった。
アスカは二人の名を呼ぶ。
《暗黒生命体》と、もう一つの《鏡像感染》の記憶が入る。同じ能力が重なり、頭の奥で扉が一つ開いた。
アスカの口が、自分の意思より先に動く。
「再演は順調です」
管理者と同じ声だった。
全員がアスカを見る。
本人だけが、その言葉を知らなかった。




