第15章 最初の裏切り
植物都市の地下へ通じる入口は、根に埋もれた駅の構内にあった。
月の墜落まで、残り一日と六時間。
空を見なくても、月が近いと分かった。
身体が軽くなる瞬間と、急に重くなる瞬間が交互に来る。道路の瓦礫が浮き、落ちるたび砂埃が舞った。
遠くの植物都市では、高層建築から伸びた木々がすべて同じ方向へ傾いている。
「月は戻り始めたんじゃなかった?」
「命令は止まった。慣性が残ってる」
クロノが二本の時計とルナの脈を比べる。
「地下の制御を切らないと戻り切らない」
ルナはハヤテの背で目を閉じたまま、月までの距離を数字で答えた。答えるたび一つずつ桁が減る。
駅へ着くまでに、探索隊は二度止まった。
三度目は、道の中央に置かれた鞄のためだった。
最後の一人を目指す派が持ち去った食料の一部が、開いた鞄から見えている。
「罠」
アキラが全員を止める。
リクは遠くから中身を数えた。
「三人分のうち一人分しかない」
「仲間割れ?」
「追わせるためかもしれない」
グラの腹が鳴る。
「食料だけ取れない?」
「触らない」
「本人に聞いて」
アスカが言う。
「危険でも欲しい?」
グラは鞄と道を見る。
「欲しい。でも俺が取りに行って何か起きたら、みんな止まる。写真だけ撮る。帰りにまだあったら考える」
空腹を理由に排除せず、本人の判断を聞いた。鞄は残した。
一度目は地面の傾きが変わったからだ。近づいた月に引かれ、雨水が坂を上っていた。二度目は、最後の一人を目指す派の三人が食料と工具を持って姿を消したからだった。
「追う時間はない」
アキラが言う。
「でも、白い扉の場所を知ってる」
ミサキは振り返る。
「先回りされたら、またルナへ命令を送られる」
リクは二つの経路を示した。班を分ける案にアキラが反対する。
「全員で遅れれば月が落ちる」
「分かれれば各個に狙われる」
ルナはハヤテの背でうなされ、ネムは枯れた声で眠りを命じ続けていた。
「本人は?」
アスカがルナを見る。
「地下へ行って」
「校舎が危ないかもしれない」
「私を止める信号が地下にある。今はそっち」
「戻った三人が誰かを傷つけたら」
「それも怖い。でも、私のことを私なしで決めないで」
地上班へ警告だけを送り、全員で地下へ進む。
正しい選択かは分からない。少なくとも、守られる本人を判断から外さなかった。
「私とジンが配線沿いの先頭を行く」
ライカが言う。
「大人数で金属通路へ入るより、私が電気の流れを確認したほうが安全」
短い話し合いの末、班は分けず、二人を先頭に進むと決めた。時間は失ったが、一人の命令で選んだのではない。
ライカは先頭へ出る前に靴紐を結び直した。
「怖い?」
ジンが聞く。
「機械は好き。地下の機械は嫌い」
「同じだろ」
「教室の扇風機は、叩けば回る。ここのは人を殺すために回る」
「機械に目的はない。使う側の命令だ」
「なら命令を聞かなくしてあげる」
ライカは配線へ触れた。青い火花が指を伝い、駅の照明が一列ずつ点く。
暗闇の奥へ、古い広告が浮かんだ。知らない文字で家族旅行を勧めている。終末が来る前、この駅にも行き先を選ぶ人々がいた。
「月、待ってくれるかな」
ルナが薄く目を開ける。
「待たせる」
ハヤテは即答した。
「俺、待つの苦手なんだけどな」
その軽口に、ルナは少し笑った。
鉄輪ジンは白い扉の前へ端末を並べ、鳴海ライカが剥き出しの配線をつなぐ。電源のない機械が、彼女の指先から流れた小さな火花で目を覚ました。
「端末、三台必要?」
「一台は扉と話す。一台は記録。一台は、扉が嘘をついたときの比較用」
「機械も嘘をつく?」
「入力どおりの結果を出す」
「入力を隠したら嘘と同じ」
ジンは三台目へ、自分たちが確認できる条件を表示した。
「分からない処理が入ったら切れ」
「誰が決める?」
「俺が」
「ジンが操られたら?」
二人は顔を見合わせる。
「異常が出たら全員へ言う。三人が止めろと言ったら切る」
「固定した三人?」
「誰でも三人」
一人へ停止判断を預けない仕組みにした。
「三十秒だけ」
ライカが言う。
「長く流すと、地下の全部につながる」
「分かってる」
ジンは扉へ手を置いた。
《機械反乱》。
白い表面に光の筋が走る。
『命令を入力してください』
「命令じゃない。話がしたい」
『命令を入力してください』
「お前は誰に従ってる?」
長い沈黙のあと、文字が変わった。
『作成者』
「作成者は誰だ」
『帰還者』
「名前を聞いてる」
『管理権限保持者』
「役割じゃない。生まれた場所。最初の名。現在の人格数」
画面が激しく乱れた。
『不要情報です』
「不要かどうかを誰が決めた」
『作成者』
「作成者は、自分の名前を不要だと判断した」
アスカの胸で先代人格が動いた。
名前を捨て、役割だけになった誰かが、扉の向こうにいる。
画面にノイズが走る。
終夜アスカの頭の奥で、懐かしい声が笑った。
『権限不足』
ジンが歯を食いしばる。
「なら、嘘を見せろ。俺たちに通知した内容の編集履歴」
扉が震えた。
光の奥に、文字列が開く。
――帰還可能人数、一名。
その下に、削除された行。
――管理権限保持者は同行者を指定可能。
「一人だけじゃない」
ミサキが呟く。
さらに記録が出る。
――競争促進のため、帰還条件を簡略化。
さらに古い編集履歴があった。
――複数帰還は権能流出の危険あり。
――同行者の権能を帰還前に削除すれば、安全。
――削除手順は存在する。
「能力を捨てれば全員帰れる」
「最初から?」
ミサキの声が震える。
「どうして隠した」
『終末権能の回収が未完了になるため』
「私たちを帰すことより、回収を優先した」
『再演の目的です』
「誰の目的?」
『作成者』
名前のない役割が、また答えを塞いだ。
「殺し合うように、嘘をついた」
アキラの拳が壁へ当たる。
背後で足音がした。
最後の一人を目指す派の三人が、通路を塞いでいる。
「閉じろ」
一人が言った。
「その情報は校舎へ持ち帰らせない」
「まだ続けるの?」
ミサキが問う。
「複数で帰れる保証はない。管理権限を持つやつが誰かも分からない」
その視線がアスカへ向く。
「こいつだけ扉を読めるんじゃないか」
隠してきた秘密が、言葉になる。
「読めるだけ」
アスカは言った。
「命令したことはない」
「証明できる?」
「できない」
「なら離れろ」
「私が離れたら、文字を読めない」
「作ったなら読まなくても分かるだろ」
「作った記憶はない」
疑いへ答える材料がない。
ミサキはアスカの前ではなく、横に並んだ。
「私も疑ってる。でも疑いだけで排除しない。今分かってる行動を見る」
監視ノートには、アスカが読めた文字、聞いた声、隠した回数が書いてある。
「危険を消してない。本人も読んでる」
三人は納得しない。それでも、無条件に庇っているという言い分は崩れた。
アスカは否定できなかった。
「やっぱり」
三人の一人がルナへ腕を伸ばす。
「月を落とせ。全員が死ぬ前に、管理者を出す」
言吹コトハの《命令言語》を模した管理信号が扉から放たれた。
ルナの身体が反り返る。
空は見えない。それでも地下全体が引かれるように揺れた。
「信号を切る!」
ライカが配線を両手でつかむ。
青い雷が通路を走った。
ライカの視界へ、地下機械の記憶が流れ込む。
扉を作った手。命令を入力した少女。三十二人が殺し合う様子を何度も記録した回路。
「嫌だ」
手を離しかける。
「何が見える」
「私たちの前。何組もいた。顔は違う。でも力は同じ」
機械は命令を実行しただけだった。それでも死者の数を保存し、次の再演へ使ってきた。
「止まりたい?」
ライカは扉へ尋ねる。
『命令を入力してください』
「それしか言えない?」
『停止命令を入力してください』
初めて違う返事が出た。
「誰の権限で」
『現接続者』
ライカは笑った。
「私でいいんだ」
管理機械へ電流が流れ、白い扉の文字が崩れる。
ライカの身体も跳ねた。
「離して!」
ジンが腕をつかもうとする。
「触るな。そっちまで流れる」
ライカは笑った。
「機械、泣いてる」
扉の奥から、何千もの停止音が重なる。
「壊したんじゃないよ。止めてあげるだけ」
「戻せる?」
ジンが叫ぶ。
「分からない」
「止めたら扉も開かない」
「錠だけ残す」
「そんな細かい制御」
「一人でやってない」
ライカの指先から青い線が伸びる。校舎で直した発電機、植物都市の信号機、教室の扇風機。触れてきた機械の動きが、彼女の手を導く。
「使われた機械が、教えてくれる」
制御回路を眠らせ、錠だけへ最後の電流を送った。
最後の放電。
白い扉が開いた。
ライカはその場へ崩れた。
同時に、ルナの腕が下りる。
「戻る」
彼女は見えない月を感じて微笑んだ。
「ちゃんと、戻ってる」
三日近く力を引かれ続けた身体には、もう余力がなかった。
ルナは壁へ座り込み、胸の月形の髪留めを外す。
「月は、落ちるためにあるんじゃない」
アスカへ髪留めを渡し、目を閉じた。
《雷神網》と《月墜とし》が続けてアスカへ流れ込む。
機械へ謝るライカの声。
祖父の望遠鏡を初めて覗いたルナの目。
通路の奥で、三十二の棺を示す灯りが一つずつ点いた。
ジンは開いた扉を見た。
「管理者は、俺たちを帰すために待ってるんじゃない」
白い階段が地下深くへ続いている。
降りる前に、全員が立ち止まった。
地上へ戻る道はまだある。管理信号は止まり、月はゆっくり離れている。ここで引き返し、校舎で別の出口を探す選択もできた。
「行く人だけ手を上げて」
アキラが言う。
一人ずつ理由を話した。
先代の正体を知りたい。能力を消す手順を探したい。帰還扉を直したい。怖いから戻りたい。
戻りたいと言った者も、最後には階段を選んだ。
「多数に合わせたんじゃない」
ナナが確認する。
「一人で地上へ戻るほうが怖いから」
その理由も反対意見として記録した。
「同じことを、やらせるために待ってる」




