第14章 月が近づく夜
星野ルナが空を見なくなったのは、二つの月を見つけた翌日からだった。
好きだったものを、石碑は兵器と呼んだ。
それでも彼女は毎晩、窓に背を向けたまま月の位置をノートへ記録していた。
最初の頁には月の絵がいくつも並んでいた。三日月、半月、満月。途中から絵はなくなり、数字だけになる。
「描かないの?」
「好きだって思うと、引っ張りそうで」
「嫌いになれば止まる?」
「分からない。でも好きなまま落としたら、私が落としたくてやったみたい」
好きなものから目をそらしても、力は消えない。アスカには、死者の記憶を見なければ能力を使わずに済むと思っていた自分と重なった。
「一緒に見る?」
「まだ無理」
「じゃあ背中合わせ」
二人は窓を挟み、互いに反対を向いた。アスカが月の形を言葉で伝え、ルナが位置だけを記録した。
「見ないで分かるの?」
終夜アスカが尋ねる。
「分かる」
ルナは胸へ手を当てた。
「ここに糸があるみたい。引けば動く」
「引きたい?」
「切りたい」
その夜、糸は誰かに引かれた。
最初の兆候は、潮の匂いだった。
海から遠い校舎へ生臭い風が流れ込む。コップの水が窓側へ盛り上がり、床へこぼれず斜めに止まった。
ルナがスプーンを落とす。
金属は床へ着かず、窓へ向かって飛んだ。
「伏せて!」
ミサキがルナを抱き倒す。スプーンはガラスへ刺さった。
ルナが食堂で倒れ、窓ガラスが青白く光る。
二つの月のうち、小さいほうが目に見えて大きくなっていた。
水の入ったボトルが机の上で揺れる。校庭の枯れ草が同じ方向へ倒れ、立てかけた工具がゆっくり浮いた。
ナギサが窓へ近づき、すぐ後ずさる。
「海がこっちへ来ようとしてる。水全部が引っ張られてる」
生徒たちは一階へ移り、棚を壁へ固定した。眠っていた者も起こされる。
食料棚を先にするか、医薬品か、記録板かで意見が割れた。
アキラは食料、セラは医薬品、ジンは記録板を主張する。
「全部、床へ下ろす」
ゴウが棚を一つずつ横倒しにした。
「固定するより早い」
整った配置を守るより、人の頭上へ落ちないことを優先した。
クロノが月の接近速度を測る。
「一分ごとに速くなってる」
「ルナを押さえても?」
「外部から増幅されてる」
ルナは自分の腕を背中へ回した。
「縛って」
「身体を縛っても止まらない」
「でも、手を伸ばしてるの見たくない」
カレンが布を持ってくる。
「痛くない程度にする。嫌なら途中で言って」
「嫌。でもやって」
本人の希望を確認してから、両手首を結んだ。
ルナだけが食堂の床で腕を空へ伸ばしていた。
「ごめんなさい。私、月が好きだっただけなのに」
ミサキがその手を押さえる。
「謝る相手が違う。今は戻すことだけ考えて」
能力を持つことへの謝罪を始めれば、存在していることまで罪になる。ミサキは自分にも言い聞かせていた。
「私も、空に兵器が出たら謝ると思う」
ミサキはルナの手を押さえながら言った。
「だから先に言う。能力を持ってることは謝らなくていい」
「使ったら?」
「止める。責任は話す。でも生まれたこととは分ける」
「分けられる?」
「分けたい」
断言ではなかった。
「月が好きなことも?」
「謝らなくていい」
「ミサキは、自分の力で好きなところある?」
答えられなかった。
「帰れたら探す」
「じゃあ私も、月を嫌いになるの待つのやめる」
アスカは月形の髪留めを外し、ルナの掌へ握らせた。
「本物の月を見たときのこと、話して」
「祖父の望遠鏡。クレーターが、写真より傷だらけだった」
「祖父は、月に兎はいないって最初に言った」
「夢がない」
「私が本気で信じてたから。あとで嘘だって怒るより、今がっかりしたほうがいいって」
「がっかりした?」
「した。でも覗いたら、兎よりきれいだった」
月は白一色ではなく、灰色で、黒い場所もあり、縁だけ光っていた。
「望遠鏡、重かった?」
「祖父と二人で運んだ」
「今も二人で戻す」
アスカは髪留めを握るルナの手へ、自分の手を重ねた。
「それでも好きだった?」
「うん。傷があっても、空にいてよかった」
ミサキとアスカは目を合わせた。
傷があっても、ここにいてよい。二人とも、まだ自分には言えない言葉だった。
「私じゃない」
床に横たわったルナが叫ぶ。
「止めようとしてる。でも、手が勝手に」
両腕が空へ伸びる。アキラとゴウが押さえても下がらない。
鉄輪ジンが石碑から持ち帰った記録板を起動した。
「外から命令が入ってる」
画面に異世界文字が流れる。
アスカには読めた。
――終末再演手順、六番を開始。
「三日」
ルナが歯を食いしばる。
「完全に落ちるまで三日。私が気絶すれば戻るはず」
メイが薬品を確認する。
「安全に三日眠らせる量はない」
「ネムの声は?」
夢野ネムがルナへ「眠って」と言った。
ルナの瞼が落ち、月の動きがわずかに鈍る。
だが完全には止まらない。
「命令が起こしてる」
ジンは画面へ指を走らせた。
「発信元は地下。植物都市のさらに下だ」
「三日以内に行く」
アキラが言う。
「地上班はルナを眠らせ続ける。地下班は信号を止める」
「誰がやったかも調べる」
ミサキは教室を見回した。
「管理者だけとは限らない。端末に触れた人、石碑へ近づいた人、全員の行動を確認する」
「犯人探しか」
逆巻レイが片耳のイヤホンを外した。
「疑うのは今さらだろ」
調査で、三人の記録に空白が見つかった。
ミサキは全員を一人ずつ呼んだ。
「疑うためじゃなく、時間を埋めるため」
「同じだろ」
「疑ってる。でも、空白があるだけで犯人にしない」
誰といたか。何を持っていたか。眠った時間。管理者の声を聞いたか。
アスカの記録にも空白がある。
「二十三時から零時まで、覚えてない」
「私が隣にいた」
「ずっと?」
「水を取りに五分出た」
「その間に私が触ったかも」
「可能性は書く。でも、自分を犯人に決めない」
全員の記憶は穴だらけだった。確実な無実も、確実な犯行もない。
いずれも「最後の一人になるしかない」と話していた者たちだった。
問い詰めると、一人が逃げた。
廊下の奥、白い扉へ向かう。
「開け方を知ってる!」
ジンが叫ぶ。
逃げた生徒が扉へ手を触れる。表面の文字が赤く変わった。
――作成者代理命令。
アスカには読めた。
「ルナを殺す気?」
ミサキが進路を塞ぐ。
「違う。月を近づけて、管理者を脅す。帰還条件を変えさせる」
「世界を人質に?」
「ここには俺たちしかいない!」
「私たちがいる」
ミサキの声が低くなる。
「ルナがいる」
「ルナ一人と、全員だ」
「本人の前で言って」
ミサキは道を空けた。
「君が月を落とせば、管理者が出てくるかもしれない」
「私、死ぬ?」
「全員が帰れるかもしれない」
「質問に答えて」
「死ぬ可能性はある」
「嫌」
ルナの答えは短かった。
「でも全員が」
「嫌って言った」
ミサキは再び間へ立つ。
「一人と全員を比べる前に、その一人の声を消さないで」
相手はミサキへ突進した。
逆巻レイが間へ入る。
拳がレイの頬へ当たる。
同時に、殴った生徒の顔が弾けたように横へ向く。自分の拳の結果が返った。
床へ倒れる。
だが赤い命令は消えない。
「俺を直接攻撃した扱いにできれば、返せる」
レイが扉を見る。
「信号を?」
ジンが首を振る。
「機械命令はお前への攻撃じゃない」
「なら、俺を対象へ入れろ」
「返した先に誰がいる」
アスカが聞く。
「信号の発信元」
「人かもしれない」
「ルナを殺そうとしてる」
「だから殺していい?」
レイは片耳のイヤホンを外した。
「よくない。でも、ほかに止め方がない」
「一人で決める?」
レイは一度、ルナから手を離した。
「ほかにあるやつ」
ジンは配線を切るには二日、ネムの眠りは信号に負けると答えた。
「じゃあやる。俺が選んだ。失敗したら、正しかったことにするな」
もう一度、ルナの手首をつかむ。
レイはルナの手首をつかんだ。
「月が落ちれば俺も死ぬ。十分、攻撃だ」
《因果逆転》が発動する。
赤い文字がレイの腕を走り、扉へ戻る。
廊下全体が揺れた。
レイの身体が床へ叩きつけられる。
「離せ!」
ショウが腕を引こうとする。
「触るな。返るぞ」
レイは血を吐きながら笑った。
「誰も本気で近づけない。便利な力だろ」
「寂しかった?」
ルナが苦しい息で聞いた。
「今それ聞く?」
「触ってるから」
直接触れれば、相手の結果が返る。握手も肩を叩くことも避けてきた。
「便利だった」
「答えになってない」
「寂しかった」
レイは初めて認めた。
「でも、今は触ってる」
「攻撃扱いだけどな」
ルナは結ばれた手で、レイの指を握り返した。
赤い文字が一つずつ消える。
空の月が止まった。
完全には戻らない。
レイの呼吸が浅くなる。
アスカが名前を呼ぶ。
「逆巻レイ」
「信じたわけじゃない」
片耳だけをアスカへ向ける。
「信じてみたかっただけだ」
目を閉じた。
《因果逆転》がアスカへ流れ込む。
殴られた痛み。誰にも近づいてほしくない夜。イヤホンのない耳だけを、話したい相手へ向ける癖。
月は止まっている。
それでも地球へ近づいた距離は戻らない。
残り二日と十九時間。
地下へ行き、命令の根を切らなければならない。




