第12章 正しい犠牲
蘇った円城マドカは、朝になると終夜アスカの名前を忘れていた。
隣の部屋では、エマが死亡した御影ユイの一体も蘇らせていた。残ったユイは会おうとしなかった。蘇生されたユイは壁へ向かい、自分の名前だけを繰り返していた。
昼には天城ミサキを「委員長」とだけ呼んだ。
「委員長はアキラ」
ミサキが訂正する。
「アキラ?」
「神代アキラ」
マドカは部屋の隅に立つ男子を見る。
「先生?」
アキラは一瞬、顔をそらした。
「生徒だ」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「顔が怖い」
生前にも同じやり取りをした。違うのは、マドカがその記憶を持たず、アキラだけが二度目だと知っていることだった。
「前にも言われた」
「誰に?」
「お前に」
「私、覚えてない。ごめん」
「謝るな」
強い声にマドカが怯える。
アキラは膝をついた。
「怒ってない。思い出せなくても、お前のせいじゃない」
夜には、自分が二年四組だったことを忘れた。
ナナは紙へ名前を書き、壁へ貼り続けた。
円城マドカ。二年四組。好きな物、四角いチョコ。嫌いな物、葱。
マドカは紙を読むたび、知らない人の情報のようにうなずく。
「これ私?」
「昨日のあなた」
「今日は違う?」
「今日も円城マドカ」
「昨日のこと、知らなくても?」
「知らないから別人とも言わない」
「難しい」
「私も」
ナナは新しい紙へ、今日マドカがした質問を書き足した。失われた過程も本人の一部として残した。
それでも空腹だけは消えなかった。
食べた物は、身体のどこへも残らなかった。
メイが体重を量る。食前と食後で変わらない。腹部へ耳を当てても消化の音がしない。
「口へ入れた瞬間、能力へ変わってる」
「能力はアスカへ移った」
セラが言う。
「不足を埋めようとして、食べ続ける」
「返せる?」
エマがアスカを見る。
「方法が分からない」
「試して」
「また増殖が始まるかもしれない」
「マドカが苦しんでる」
「返したい。でも本人へ入るか、蘇生能力へ入るか分からない」
「分からないばかり」
「分かったふりをしたくない」
アスカの内側で《無限増殖》が空腹へ反応するように脈打った。
「もっとない?」
乾燥食を食べ終え、マドカは久遠エマへ手を伸ばす。爪の下が灰色に変わっていた。
「少し待って。次は夕方だから」
「おなか、すいた」
同じ言葉を繰り返す。
エマは笑顔を崩さない。
「大丈夫。私がいるよ、マドカ」
名前を呼ばれても、マドカはもう反応しなかった。
毒島メイが廊下へ出たエマを呼び止める。
「体温が下がってる。脈も普通じゃない。隔離したほうがいい」
「病気じゃない」
「病気より分からないものだよ」
「閉じ込めたら、また一人になる」
「誰かが傷つけられたら増える」
「マドカはそんなことしない」
部屋の中で椅子が倒れた。
二人が振り返る。
マドカが床を這い、棚の非常食へ手を伸ばしていた。止めようとした生徒の腕へ、歯を立てている。
血が流れた。
噛まれた生徒の皮膚が、傷口から灰色へ変わる。
「名前を言って」
ナナが噛まれた生徒の肩を押さえる。
本人は名前、生年月日、教室の席、今朝食べた物を答えた。
一分後、今朝の食事を忘れた。
三分後、席を間違えた。
五分後、自分の名字を言えなくなる。
灰色は肩の手前で止まったが、記憶は戻らない。
「感染を止めても、消えたものは戻らない」
メイは時刻と答えを記録した。
「離して!」
メイがマドカを引く。マドカは人の力とは思えない強さで暴れた。
アキラとゴウが駆け込み、二人を引き離す。
噛まれた生徒は床へ倒れた。意識はないが、呼吸は続いている。
マドカと蘇生されたユイを体育館へ隔離した。次に傷つけられれば、本当に数が増える。
隔離という言葉へ、エマは反対した。
「保護室」
「外へ出さないなら隔離」
セラは呼び方を変えない。
「言葉で扱いが決まる」
「優しい言葉で事実を曖昧にするほうが危険」
ナナが紙へ二語を書いた。
隔離。保護。
「感染を広げないために隔離する。傷つけられないよう保護する。両方」
どちらか一語で正しさを決めず、二つの目的を扉へ貼った。
「二人」
白鳥セラが体育館の見取り図へ印をつけた。
体育館の外には、名前を書いた紙が二枚貼られた。
円城マドカ。
御影ユイ。
蘇生されたユイは、同じ紙を内側から何度も引っかいた。
「名前が嫌なの?」
残ったユイが廊下の角から見ていた。
「自分のだって言ってるんだと思う」
「会わないの?」
「会ったら、どっちかが本物になりたくなる」
残ったユイは自分の名を書いた紙を、扉の横へ貼った。
同じ名が三つ並ぶ。
「番号をつける?」
「つけない。番号で違う人にされたくない」
区別できないまま、三つの同じ名前を残した。
ナナが書いた。記号や不死者という呼び方へ置き換えないためだった。
エマは扉の前に毛布を敷き、そこから離れなくなった。中から床を擦る音がすると、「いるよ」と返す。
「聞こえてないと思う」
セラが水を置く。
「聞こえてるかもしれない」
「反応がない」
「反応できないだけかもしれない」
二人の会話は、同じ場所を回り続けた。
夜、アスカが交代へ来ると、エマは扉へ背を預けたまま話した。
「弟が死んだ日、母は『楽になった』って言ったの。苦しみから、って意味。でも私、弟がいなくなって楽になったって聞こえた」
「お母さんへ聞いた?」
「聞けなかった。弟の話をすると泣くから」
「エマも泣いてる」
「私はいいの」
「よくない」
アスカは言い切った。
「誰かを苦しませないために、自分だけで意味を決めないで。帰ったら聞いて」
「帰れたら」
「帰ったら」
エマは小さく笑う。
「言い切れるようになったね」
「言い切ってるふり」
「それでも少し助かる」
「それで、死を受け入れられない?」
「受け入れたら、いなくていいって言うみたいだから」
アスカはマドカの名が書かれた紙を見る。
「忘れないことと、戻すことは違うかもしれない」
「戻せる力を持ってない人は、そう言える」
エマはすぐに顔を伏せた。
「ごめん」
「私も、死んだ人の力を持ってる。だから分かる。分かるから、怖い」
扉の向こうで何かがぶつかった。二人とも立ち上がる。
答えが出ないまま、朝の感染事故が起きた。
「このままでは全員に広がる」
「殺しても死なない」
ショウが扉を押さえながら言う。内側から何度も身体がぶつかっている。
「起点を止めればいい」
セラがエマを見る。
「石碑には、能力者が死亡すれば拡散が止まるとあった」
「私は死なない」
エマは後ずさる。
「止められる。私が話すから」
「もう名前も分からない」
アスカが言った。
言葉にするたび、胸の中のマドカが痛んだ。
「それでもマドカだよ」
エマの目に涙がたまる。
「忘れても、変わっても、生きてる」
「生きてない」
セラの声は平らだった。
「心臓が止まった状態で動いている。感染を広げる能力現象」
エマが彼女を叩いた。
乾いた音がした。
セラは頬へ触れない。
「あなたは、人を数字でしか見ない」
「数字にしなければ、二人の不死者を残すために三十人を危険へ置く」
「二人を捨てるの?」
「違う。三十人を残す」
言葉の向きが違うだけで、同じ選択だった。
体育館の扉が大きくゆがんだ。
内側の音には間隔があった。
三回。休止。二回。
「合図かもしれない」
エマが扉へ耳を当てる。
「マドカ、聞こえる?」
三回。休止。二回。
「返事してる」
「同じ動きの反復かもしれない」
「どちらか分からない」
アスカが止める。
エマは扉を三回叩き、二回返した。内側の音が一瞬止まる。
次の瞬間、扉全体へ衝撃が走った。合図だったのか偶然だったのか、確かめられない。
ゴウの靴が床を滑る。
「長く持たねえ!」
セラは眼鏡を外した。
「体育館の酸素を消す。不死者が呼吸しなくても、動いている筋肉は止められる可能性がある」
「可能性は」
アキラが聞く。
「六割」
「失敗したら」
「酸素を戻し、入口で止める」
「誰が」
「ショウとゴウ」
「本人たちへ聞いた?」
セラは二人を見る。
「焼けば広がるかもしれない」
ショウが拳の火を消す。
「衝撃で止める」
ゴウは扉を押さえた。
「嫌なら言って」
セラは自分がエマへ言われたことを、二人へ返した。
「嫌だ。でもやる」
二人が順に答える。
セラの指が震えた。
「開ければ二人が出る」
「私が行く」
エマが言った。
「何を」
「私が起点なら、私が終わらせる」
「死ねば止まる保証は」
ミサキが聞く。
「石碑の記録だけ」
「エマが中へ入る必要はない」
「私が呼べば、二人が私へ来る」
「襲うよ」
「うん」
「怖くないの?」
「怖い」
エマは初めて、穏やかな声を作らなかった。
「噛まれるのも、死ぬのも、弟に会えないまま消えるのも怖い」
「なら」
「怖いから、本人たちへ近づかずに終わらせたくない」
正しいからではない。自分が始めたものへ、最後まで名前を呼ぶと決めた。
扉の隙間から中へ滑り込もうとする。
アスカが腕をつかんだ。
「エマ」
「名前を呼んで」
エマはアスカを見た。
「忘れないで。マドカも、ほかの子も。数字にしないで」
「行かないで」
「弟に、さよならを言えなかった」
エマは泣きながら笑った。
「戻すことばかり考えてた。今度は言う」
アスカの指を一本ずつ外す。
扉の中へ入った。
「閉めて!」
ゴウが扉を押し戻す。
内側からぶつかる音。
エマの声がした。
「円城マドカ」
一人ずつ名前を呼ぶ。
最後に、自分の名を言った。
「久遠エマ。さよなら」
セラが能力を使った。
体育館の空気が、目に見えない穴へ落ちた。
壁が内側へ鳴る。
声が途切れた。
扉を叩く音も止まった。
セラはその場で膝をつき、激しく咳き込んだ。境界の外にいたのに、唇が青い。
十分後、扉を開けた。
三人は床へ倒れていた。
もう動かなかった。
エマはマドカの手を両手で包んでいる。
もう片方の手は、蘇生されたユイへ伸びていた。指は数センチ届かない。
残ったユイが体育館へ入る。
倒れた自分と同じ顔を見下ろし、隣へ座った。
「私だった?」
返事はない。
「違った?」
返事はない。
ユイは離れていた指を持ち上げ、エマの掌へ重ねた。
「分からないままでいいって、先に言えればよかった」
アスカの中へ《不死拡散》が流れ込む。
弟の小さな手。
病院の白い天井。
言えなかった、さよなら。
隣でセラが計算ノートを開いた。
救えた人数、三十。
失った人数、三。
彼女は「三」の数字を何度も消そうとした。
「消さないで」
アスカが言う。
「責めるためじゃない。三人がいたって分かるから」
「救えなかった数」
「名前も書いて」
セラは数字の下へ記した。
円城マドカ。御影ユイ。久遠エマ。
「蘇生された二人を、元の死者と同じ人数に数えていい?」
「分からない」
「報告書なら決めないと」
「ここは報告書じゃない。分からなかった記録」
セラは新しい行へ書く。
人数の定義、未確定。
紙が破れても、数字は消えなかった。




