第11章 死者を戻す者
円城マドカの遺体を体育倉庫から運び出せたのは、死から五日後だった。
増殖した袋は校庭の半分を埋めていた。触れれば再び増えるかもしれない。食満グラの《世界捕食》で外側を少しずつ消し、岩永ゴウが道を開いた。
袋の山の中心で、マドカは横向きに倒れていた。
誰もすぐには近づかなかった。
三日前、ここで助けを求めた声が耳に残っている。袋の山を消せば、その声まで消してしまう気がした。
ゴウが最初の一歩を踏み出す。
足元の袋を拾おうとして、手を止めた。
「触ると増える」
グラが横から袋の端を食べる。空間ごと欠け、袋は増えずに消えた。
「味する?」
「甘い匂いだけ」
「マドカが好きそう」
ゴウは言ってから顔を伏せた。
丸い眼鏡は外れ、制服には土と血がついている。
ゴウが眼鏡を拾った。
片方のレンズにひびが入っている。制服の裾で拭こうとして、土を広げた。
「水、使う?」
ナギサが聞く。
「飲む分が減る。帰ったら直す」
帰ったら、という言葉を誰も訂正しなかった。
ゴウは眼鏡を畳み、マドカの胸元へ置いた。いつもなら左右のつるを揃える。今は右だけ少しずれていた。
久遠エマがその手を両手で包んだ。
「冷たい」
誰も答えない。
終夜アスカは近づけなかった。
自分の中には、マドカが死んだときの痛みが残っている。目の前の身体がマドカだと分かるのに、胸の内側にもマドカがいる。
「埋めよう」
神代アキラが言った。
「今日中に」
「どこへ」
ナナが尋ねる。
「校庭の端」
「袋がまた増えたら埋めた場所まで届く」
「森側は怪物が来る」
「石碑の近くなら」
「死者として登録される」
埋葬場所すら決められない。
「本人なら、どこがいいって言うかな」
アスカが聞く。
「教室」
ゴウが答えた。
「菓子、机に隠してるから」
「遺体を教室へ置けない」
「分かってる。でも先に本人の話していいだろ」
埋葬は校庭の南端。眼鏡は石碑へ置く。教室の机は残す。そこまで決めたとき、エマが蘇生の可能性を口にした。
「待って」
エマは手を離さなかった。
「私なら戻せる」
「説明を全部読んだ?」
セラが確認する。
「読める部分は」
「成功率は」
「書いてない」
「人格保持率」
「書いてない」
「感染範囲」
「接触者」
「接触の定義は」
「分からない」
質問が続くたび、エマの顔が固くなる。
「分からないから、やるなって言うの?」
「本人の同意なしで試すなと言ってる」
「本人は死んでる。埋めるのも聞けない」
どちらも正しい。死者へ何をするにも、残った者が決めるしかなかった。
空気が止まる。
「石碑に書いてあった。《不死拡散》。死者を蘇らせる」
「同時に、不死者が増えるとも書いてあった」
白鳥セラが言う。
「傷つけられた人間も不死化する。記憶も失う」
「制御できるかもしれない」
「何を根拠に?」
「何もしないで埋めるより、試したほうがいい」
「戻らなかったら?」
ミサキが聞く。
「もう一度」
「何回?」
エマは答えられない。
「待つ、記録を調べる、ほかの方法を探す。それも選択だよ」
「待ってる間、マドカは死んだまま」
エマにとって、待つことは弟の病室へ間に合わなかった時間と同じだった。
エマの声は穏やかだった。
穏やかすぎた。
アスカは、彼女が別の人へ話しているように感じた。
「弟さん」
思わず口にする。
エマの肩が揺れた。
「どうして知ってるの」
マドカの記憶にあった。
保健室で、エマが幼い弟を病気で亡くしたと話したこと。別れ際には必ず相手の名を呼ぶようになったこと。
弟の名はノアだった。
八歳。青い靴を片方なくし、退院したら探しに行くと言っていた。
最後の日、エマは学校の試験を受けていた。母親からの着信を見たが、終了まで出なかった。病院へ着いたとき、弟の手は冷たかった。
『頑張って勉強して』
弟が前日に言った言葉を、母は最後の言葉として伝えた。
エマには、自分を病室から遠ざける呪いに聞こえた。
「試験なんて途中で出ればよかった」
「エマのせいじゃない」
「誰のせいでもないなら、何も直せない」
だから、直せる力を待ち続けていた。
「マドカが知ってた」
エマは目を伏せる。
「弟さんを戻したかった?」
「戻せるなら」
彼女の指がマドカの手を強く握る。
「ずっと、そう思ってた」
「マドカは」
アスカは言葉を探した。
「マドカは、死んだ」
「だから戻すの」
「戻った人が同じマドカか分からない」
「やってみなきゃ分からない!」
エマが初めて声を荒らげた。
次の瞬間、マドカの指が動いた。
全員が息をのむ。
エマは名前を呼んでいた。
「円城マドカ」
掌の間から灰色の光が漏れる。
「戻ってきて。お願い」
「離れろ!」
アキラがエマの肩をつかむ。
彼女は振り払った。
マドカの胸が持ち上がる。
喉から、空気が入る音がした。
目が開く。
焦点の合わない瞳が空を映す。
「マドカ?」
エマが顔を近づける。
マドカの唇が動いた。
「おなか、すいた」
生前と同じ声だった。
エマが泣きながら笑う。
「戻った」
「まだ分からない」
セラが言う。
「今言う?」
カレンが睨む。
「今だから。体温、脈、記憶、能力を調べる」
マドカは二人の顔を見た。
「私、病気?」
メイが膝をつき、目線を合わせる。
「長く寝てた。身体が動くか見るだけ」
「注射する?」
「今はしない」
「注射嫌い」
「知ってる」
「どうして?」
メイは答えず、手首へ指を当てた。
脈はなかった。
マドカはゆっくり起き上がった。
首を回し、周囲を見た。
「みんな、何で泣いてるの?」
ゴウが顔を覆う。
ナギサが笑いながら泣いた。
アスカだけは動けなかった。
胸の中のマドカが、目の前のマドカへ何の反応も示さない。
能力は戻らなかった。
「私、何かできた?」
マドカが尋ねる。
「物を増やした」
「すごい。お菓子も?」
「増やした」
「じゃあ食料、困らないね」
能力を失ったことを惜しむ言葉さえ、生前のマドカと似ている。だが、自分の死へつながった力を初めて聞くように笑っていた。
「戻したい?」
エマが聞く。
「便利なら。みんなが止めてくれるでしょ」
三日前と同じ期待が、違う記憶から出てきた。
《無限増殖》はアスカの中にあるままだ。
その夜、マドカは皆と食事をした。
席を決めるとき、全員が迷った。
元の席か、エマの隣か、出口に近い監視しやすい場所か。
「ここ」
マドカは長机の中央を選んだ。
「みんなの顔が見えるから」
生前は菓子を隠しやすい端を好んだ。変化へ気づいた者たちが視線を交わす。
「何?」
「何でもない」
その返事が何度も続き、明るい食卓は息苦しかった。
乾燥食を三人分食べ、まだ空腹を訴えた。冗談を言い、文化祭の話をした。自分が死んだことだけは覚えていない。
「眼鏡、どうしたんだっけ」
割れた眼鏡を受け取り、首を傾げる。
「転移したとき?」
誰も訂正できない。
食事のあと、マドカは教室へ戻りたがった。
「私の席、窓側だっけ?」
「廊下側の前から三番目」
ナナが答える。
「そうだっけ」
自分の机へ座ると、天板の裏を探った。
「何かあるの?」
「お菓子」
マドカは笑う。
「非常用に隠してたはず」
裏には何もなかった。
アスカは知っている。転移前の朝、マドカは小さなチョコを机の裏へテープで貼った。文化祭会議が長引いたら食べるつもりだった。
模造校舎は、その細部まで再現していない。
「どんなお菓子?」
アスカが尋ねる。
「丸いやつ」
「四角だった」
「そうだっけ?」
マドカは笑った。
笑い方は同じだった。
だが記憶を訂正されても、悔しそうにしない。生前なら「絶対丸い」と言い張り、最後に一緒に確かめたはずだ。
ゴウが教室の入口から見ていた。
「何で入ってこないの」
マドカが尋ねる。
「俺を覚えてるか」
「岩永くん」
ゴウの肩から力が抜ける。
「よかった」
「柔道部でしょ」
「ああ」
「文化祭の実行委員」
「俺と何を話した?」
ゴウが聞く。
「あんまり話してないよね」
マドカは袋の山で、最後に彼の名を呼んだ。その記憶が戻っていない。
「そうだな」
ゴウは嘘をついた。
廊下へ出ると壁を殴りかけ、拳を止めた。
「覚えてなくても、助かったならいいだろ」
「よくないって思ってもいい」
アスカが言う。
「嬉しいのと、覚えててほしかったの、両方でいい」
ゴウは答えなかった。
実行委員はアキラだ。
マドカは二人の記憶を混ぜている。
「もう休もう」
エマが肩へ触れる。
マドカはその手へ頬を寄せた。
「お母さん」
エマの顔がこわばる。
それでも手を離さなかった。
「うん。ここにいるよ」
その夜から、マドカはエマを母と呼ぶ回数が増えた。
訂正すると泣き、肯定すると笑う。
「本当の家族を思い出す機会まで奪う」
メイが注意した。
「怖がらせるよりいい」
慰めと嘘の境界が、日ごとに曖昧になった。
アスカは廊下へ出た。
蘇生を否定すれば、目の前で笑うマドカを殺すことになる。受け入れれば、失われていく人格を生きていると呼び続けることになる。
どちらも残酷だった。
窓の外では、暗くなったマドカの石碑が光を戻さないまま立っている。
世界の仕組みだけは、彼女を死者として扱い続けていた。
アスカは食堂の外から見ていた。
ミサキが隣へ来る。
「入らないの?」
「分からない」
「またそれ」
「うん」
食堂の中で、マドカが菓子の代わりに乾燥食を配り始めた。
数は五つ。
以前なら自分の分を最後に取る。
今のマドカは最初の一つを自分の口へ入れ、残りを配った。
小さな違いだった。
空腹なら当然の行動にも見える。
それでもアスカの背中が冷えた。
「明日、ユイも戻すって」
ミサキが言った。
「残ったユイは反対してる。でもエマは、死んだほうにも生きる権利があるって」
食堂で笑いが起きる。
マドカがショウの名前を二度間違えた。
ショウ本人も最初は笑った。
「俺、そんな顔じゃねえだろ」
数分後、マドカは同じ間違いをした。
今度は誰も笑えなかった。
「さっきも言った?」
「言ってないよ」
エマが答えた。
優しい嘘が、マドカから変化へ気づく機会を奪う。
マドカの笑い声も混じっていた。
アスカは、自分の中にある本物の基準が信用できなくなった。
翌朝、マドカはアスカを見て尋ねた。
「ねえ。私たち、仲よかったっけ?」
アスカは答えようとした。
マドカの目が、アスカの名前を探すように揺れる。
「ごめん。名前、何だっけ」
胸の中で、死んだマドカが泣いた。




