第81話 提案
「お父さん! 飲まないで!」
ホークがグラスを傾けかけた、その瞬間だった。
俺は反射的に声を張り上げ、制止する。
その声に反応したのは酔いが回っているホークではなく、この場の誰よりもハイピッチで酒を煽っていたアイシャだった。
「――ッ!」
母は一切の迷いなく、ホークの手元を正確に叩き落とす。
乾いた破砕音がダイニングに響き渡り――
「……え?」
酔いが回っていたホークは、状況を飲み込めず、ただ間の抜けた声を漏らした。
一方で、アイシャ、ステラ、ルナリアの視線は即座に俺の右手へと吸い寄せられた。
魔法手袋の下から漏れ出す、紫黒色の光。
それは心臓の鼓動に合わせるように、ゆっくりと脈打ち、
まるでここに毒があると告げる信号のように灯っている。
「オフィーリア子爵? これはどういうことでしょうか?」
ルナリアの声音は震えていた。
感情を抑え込んだ王女の視線が、まだ事態を飲み込めていないオフィーリアを鋭く射抜く。
「ど、どういうこととは一体……」
まだ誰も毒を飲んでいない。だからこそ、自分が毒を盛ったと悟られるはずがない――そう高を括っているのだろう。
だが、注がれたグラスを握る俺の右手。
その下に刻まれた【追憶の紋章】は、確かに紫黒色に染まっている。
この色に光るということは、過去に俺自身が服毒したことのある毒を、今まさに握っていること。
候補は三つ。
ヴェノムモリス、黒涙草、エレキフグ。
それまで、同じ水差しから注がれた水を何度飲んでも紋章は反応しなかった。
つまりこれは、水に溶ける毒ではない。
底に沈み、最後に牙を剥く――沈殿型の毒。
となれば答えは一つだ。
以前、王城の侍医に呑ませてもらったもの。
エレキフグ。
そしてルナリアは、俺の紋章の性質を知っている。
だからこそ、この視線でオフィーリアを問い詰めているのだ。
しかし、オフィーリアは固まっているだけ。弁明もしない。
ならばと今度は俺が口を開いた。
「僕や父に注がれたのは、水ではありません。毒ですよね? エレキフグの」
「ち、違う……! 私はそんなものを知らない! 第一、お前たちはまだ飲んでいないじゃないか!?」
「ええ、確かに飲んではいません。ですが、僕はこれを毒だと断定できます。もしこれが毒でなければ――僕をどう扱っていただいても構いません」
一拍置き、グラスを持ち上げる。
「ですから、オフィーリア子爵。あなたがこれを飲んでください」
そう告げ、俺は手にしていたグラスを子爵の目の前に置いた。
だがオフィーリアは、それに指一本触れようとしない。
当然だ。これは毒なのだから。
その沈黙を、ルナリアが容赦なく踏み潰す。
「ハラデル・オフィーリア。これは王女としての命令です。今すぐそれを飲みなさい。飲んで、自身の無実を証明しなさい。もし飲めないのであれば――国王陛下にすべてを報告し、あなたを断罪します!!!」
オフィーリアの顔から血の気が引く。
そして子爵は、先ほど場を仕切り直した従者の一人へ、縋るような視線を向けた。
「せ、先生……助けてください……」
――先生、だと?
すると従者は、オフィーリアに向けてにこりと微笑んだ。
あまりにも穏やかで、あまりにも自然な笑み。
「オフィーリア子爵。でしたら、そのグラスの中身……飲んで差し上げたらよろしいのでは? 子爵は何も悪いことをしていない。そうでしょう? であれば、堂々と飲めばよいのです。そして、メナト君にお好きな命令をなさればよろしい。王女殿下の前で、無実を証明する絶好の機会ではありませんか」
「し、しかし……」
「大丈夫です。さぁ……飲むのです」
あまりにも自信に満ちた口調。
その確信に満ちた口調は、かえって現実感を奪い、一瞬、本当に毒など入っていないのではないかと錯覚させる。
その声を聞いたオフィーリアは震える手でグラスを掴もうとする。
だが恐怖を抑え込むことはできない。
震えは止まらず、グラスの縁から液体がこぼれ落ちる。
零れる液体を気に留める余裕すらなく、必死にそれを口元へと運んだ。
本当に、飲むのか。
誰もがそう思い、視線がオフィーリア一点に集まったその瞬間だった。
先生と呼ばれた男の体の周囲に、半透明の黒い魔法文字が浮かんだのは。
「ヤバい! みんな! 魔法が来るぞ!」
だが、俺の声が届くより早く、男は詠唱を完了させていた。
魔法文字が、薄黒く発光する右手へと吸い寄せられるように集約されていく。
『【圧ノ大葬】!!!』
次の瞬間。
先生と呼ばれた男が、無造作に腕を振り下ろした。
見えない何かが、上空から叩きつけられる。
床が悲鳴を上げ、俺の体は一瞬で押し伏せられた。
俺だけじゃない。
両隣のステラとルナリア、さらに少し離れたホークとアイシャまでもが、同時に床へと縫い止められる。
息が詰まる。
肺が潰され、骨が軋む。
こ、このままじゃ……圧死する。
隣で同じように伏せられ、必死に顔を上げようとするステラが、かすれた声を絞り出す。
「お、お兄ちゃん……だい……じょう、ぶ……?」
それでも、俺を気遣う。
「だ、大丈夫だ……待ってろ。今、助けるから……」
なぜ押し潰されているのか、理屈は分からない。
だが、これは魔法だ。
魔法なら……対抗手段はある。
俺は歯を食いしばり、頭と背中に魔力を集中させ、【魔纏】で相殺。
圧力と拮抗し、全身が悲鳴を上げる中――
それでも、わずかに、体が持ち上がった。
膝をつき、そして立ち上がる。
その瞬間、男の顔に浮かんだのは、紛れもない驚愕だった。
「なにッ――!? 私の圧力魔法に、抵抗するだと!?」
重力かと思ったが、圧力魔法――!?
重力が物質間に働く引き合う力であるのに対し、圧力は面を垂直に押す単位面積あたりの力。すべてに作用するわけではない!
であれば、これで――
俺は【魔纏】を解除し、即座に詠唱へと入る。
体は再び床へと叩きつけられるが、構わない。
『集え、守りの光。我が背に立つ者を抱き護れ。万物も通さぬ壁となれ―― 【護界ノ盾】!!』
白く、半透明。
流線型の魔法盾が、俺の頭上に展開された。
次の瞬間、押し潰していた圧は、まるで水が岩を避けるように、盾の縁をなぞって脇へと流れ去る。
全身を締め付けていた重みが消え、体が一気に軽くなった。
両隣にいたステラとルナリアも、同時に圧力から解放される。
アイシャもまた盾の範囲内に滑り込み、即座にホークを抱き寄せた。
気づけば、全員が俺の展開した盾の庇護下に収まっている。
だが、それで終わりではなかった。
圧力を逃がされた床が、悲鳴のような音を立てて耐えきれなくなる。
亀裂が走り、次の瞬間、床が抜け落ちた。
衝撃はそこで止まらない。
圧は建物全体へと波及し、梁が軋み、壁が震え、空間そのものが歪んでいく。
「みんな、僕の傍から離れるなよ!」
そう告げると、ステラとルナリアは先ほどよりも強く俺に抱き着いた。
アイシャは俺の前に立ち、正面からの脅威に即応できる構えを取る。
「せ、先生ッ!? このままでは私の屋敷が崩落してしまい――」
場違いな心配を口にするオフィーリアに、男は一切の反応を示さない。
すると、
「お、おい! 本当に屋敷が持たないぞ!? プラエス、もう魔法を――」
その名を口にした瞬間だった。
鈍い音が響き、オフィーリアの体が吹き飛ばされる。
先生と呼ばれていた男が、まるで邪魔な物を払いのけるかのように拳を振るったのだ。
同時に魔法は解かれ、圧力が消える。
建物を軋ませていた悲鳴も、嘘のように途絶えた。
床に転がるオフィーリアを見下ろし、男は冷え切った声で言い放つ。
「豚が何を勝手に人の名前を呼んでいるのですか? 家畜は家畜らしく、床に這いつくばっていればいいのです」
オフィーリアを見下ろすその瞳に宿る色は蔑みのみ。
――このプラエスという男。
本当にオフィーリアの手下なのか?
そう思わせるほど子爵は恐怖に震えていたのだ。
そんな彼を警戒し、逡巡する俺たちにプラエスが意外な言葉を投げかけてきた。
「今回はハラデルが、大変申し訳ないことをしました。この豚を、どう扱っていただいても――先ほどの毒をすべて飲ませてもらっても構いません。ですから、一度、休戦としましょう」
それはあまりにも唐突で、あまりにも一方的な提案だった。




