第30話 ★マルム帝国宰相ドロス・オブタース★
マルム帝国・オブタース侯爵家の『黒曜の間』。
重厚な静寂の中、当主ドロスは香り高いワインを優雅に揺らしていた。
その時、物陰から音もなく一人の男が姿を現し、片膝をついた。
「宰相閣下、一つご報告がございます」
「申してみよ」
ドロスはグラスを傾け、芳香を愉しみながら静かに返す。
「スカージャーが取り逃がしたステラの行方にございますが……ビサンド村より逃亡したとなれば、自由都市リバルティへ向かった可能性が高いかと。しかし、確たる証拠は未だ掴めず……」
ドロスの眉間にわずかな皺が寄る。
「ふん……あの半端者め。仕損じたばかりに手間が増える。リバルティを軍団一つで攻略など叶わぬ。あそこには、オーロラ王国から亡命した紋章師どもが数名潜んでいるゆえな……情報の収集は続けよ。ステラの居所だけは、いかなる手を使っても必ず掴み取れ。アルバの如き紋章を授かるようなことがあれば、厄介極まりない。あやつを葬るのに、どれほど骨を折ったと思う……よいか、三年以内に必ず始末せよ」
苛立ちを隠さぬまま命じ、ドロスはワインを一息に呑み干した。
しかし、男の報告はなお続く。
「さらにもう一点。ヘロス王国の辺境都市ラージャンに間者を忍ばせておりますが……誰一人戻らず、連絡も途絶えております。いかが取り計らいましょう」
「ラージャンだと? ……小癪な。まだあの老将が健在なのか?」
「情報が乏しく断言はできませぬが……おそらくヘルマーかと」
その名を聞き、ドロスの口元に冷ややかな笑みが浮かぶ。
「……ほう。それならば、マヌスを遣わすとしよう」
「マヌスを……でございますか?」
「うむ。リバルティを落とせぬ以上、その間にラージャンを捻り潰しておくのも悪くはあるまい。あそこを押さえてしまえば、ヘロス王国などいつでも蹂躙できる。帝国の進軍路としては申し分ないわ。くっくっく……ヘルマーの慌てふためく様が思い浮かぶぞ」
ドロスが薄く愉悦を含んだ笑みを浮かべると、男も主に合わせるように恭しく口元を緩めた。
「して、宰相。陛下を……お排けする時期はいかほどに?」
男は声を落とし、慎重に言葉を選んだ。
「急くな。アルバを葬るのに、どれほど歳月を要したと思っている。私はまだ帝国の宰相の座に就いて日も浅い。いまだ帝国内には元オーロラ王国宰相というだけで、私を疑い陰口を叩く者が少なくない。まずはそうした輩を一掃し、信を得てからだ。当面はラージャンの制圧と、ステラの居所の確認が至上命題である」
「……御意にございます」
男が下がろうとしたとき、ドロスの瞳にひらめきが宿る。
「待て。ステラは今年で七つであったな?」
「はい、相違ございません」
「ならば、ステラを見つけたら必ず生け捕りにせよ。かすり傷一つ許さん」
そう言い放つと、ドロスは黒曜の間の窓から覗く星空に視線を投げた。
「我らオブタース家が、オーロラ王国王女の末裔を娶るとなれば……元オーロラ王国の貴族や紋章師がどれほど動揺し、どれほど跪くか。実に愉快ではないか」
「では……ノックス様を?」
「ああ。確かあやつも七つであったはず。あれならば、愚息とは異なり、帝王として相応しき紋章を授かろう」
「ルピウス様は決して凡庸ではございませぬ。オーロラ魔法学校を第二席で卒業された才覚……同じ時代に、あのトニトルス家の嫡男ホークさえおられなければ――」
「黙れ! その名を私の前で口にすることは許さん!」
ドロスは手にしていたワイングラスを床へ叩きつけた。砕けた破片が男の頬を裂き、血が一筋流れ落ちる。
「――マヌスをラージャンへ差し向け、蹂躙せよ。必ずだ!」
男は知っていた。
マヌスはあまりにも危険。
故に、自らがコンタクトを取ると、自分まで被害に遭うかもしれいことを。
しかし、これ以上逆らえば己の命が危ういと悟り、深く頭を垂れたまま、影のように静かにその場を辞したのであった。




