第28話 ステラの世界
「お兄ちゃん? 今日、みんなちょっと変じゃなかった?」
二人で寝ようと布団に入ると、ステラがぎゅっと抱きついてきた。
まるで、俺を手放すものかと言わんばかりに。
「そう? 僕はいつも通りだと思うけど……」
言葉では軽く返したが、内心では気づいていた。
ホークとアイシャは朝からずっと暗かったことに。
口数も少なく、時折ふっと遠くを見るような顔をして。
「お兄ちゃんは……ずっと一緒だよね? 遠くに行ったりしないよね?」
「縁起でもないこと言わないでよ。僕はどこにも行かない。ずっと一緒だよ……ほら、寝よう」
「……うん。おやすみ、お兄ちゃん」
眠れずにもぞもぞしていたステラの肩を、優しくぽんぽんと叩き続ける。
やがて呼吸が落ち着いていき、ようやく眠りについた。
「ステラは寝たか?」
「うん……時間はかかったけど」
リビングに戻ると、ホークとアイシャが沈んだ表情で待っていた。
「……本当に、やるつもりなんだな?」
「もちろんだよ」
迷いなく即答する。
その瞬間、アイシャの瞳から涙が溢れた。
「どうして……どうしてメナトが……」
「お母さん。ステラと一緒に買い物に行くときの視線……ステラが気づいてないと思う? ステラは、僕たちを心配させないように明るく振る舞ってるけど……本当は、誰にも見えないところで傷ついてるんだよ。誰かが助けてあげられるなら、助けるべきなんだ。それがたまたま僕しかできないってだけ。この紋章には……その力がある」
「…………」
重い沈黙を破ったのは、アイシャだった。
母はそっと椅子から立ち上がり、ゆっくりとダイニングへ向かう。戻ってきたとき、その腕には二つのものが抱えられていた。
一つは、黒涙草の黒い葉を細かく刻んだものを漬けたもの。
もう一つは、エーテルの茎を煎じて作った液体の上に花を浮かべたもの。それは、ほんのわずかでも毒を和らげられないかと、母としての必死の思いで準備しておいたものだった。
「ありがとう、お母さん。食べる前に一つ試したいことがあるんだ」
そう言うと俺は玄関に置いてあった黒涙草を手に取り、戻ってくる。
右手の【追憶の紋章】が、かすかに新緑色の光を帯びて脈動した。
内包された【草の紋章】が反応しているのだろう。黒涙草は、さっきよりも幾分か生命力を取り戻したように見える。
俺は黒涙草の茎にある棘へ、ためらいなく指先を押し当てた。
鋭い痛み。じんわりと広がる軽い痺れ。
その瞬間、紋章が深く濁った紫黒色に変じ、激しく光を揺らめかせた。
数秒もせず光は収まるが、同時に指先の痺れもみるみる消えていく。
それからはいくら右手で触れても、【追憶の紋章】は必ず紫黒の光を灯す。
紋章が黒涙草を毒草と判断し、【草の紋章】の恩恵を自ら打ち消したのだろう。
エルが俺を庇うように……。
それに、今の反応で、黒涙草に対しては多少なりとも抵抗がついたはずだ。
試しに何度か棘へ指先を押し当ててみたが、鋭い痛みこそあれ、もはや痺れは一切訪れなかった。
正直ホッとした。
本音を言えば、ずっと不安だったのだ。
もし【追憶の紋章】の内部にあるのが【毒の紋章】ではなく、たった一つ、ヴェノムモリスにしか効力を持たない【ヴェノムモリスの紋章】だったらどうしよう、と。
やれることはやった。
これ以上時間をかければ、ホークとアイシャの説得に折れてしまうかもしれない。
「……じゃあ、飲むね?」
声が震えたその瞬間、両脇から温もりが寄り添ってくる。
ホークとアイシャが、俺を挟むように強く抱きしめていた。
「信じているぞ、メナト」
「メナト……辛い思いをさせてごめんね。何かあったら、すぐ吐き出すのよ? 絶対に一人で抱えないで」
両親の愛に支えられながら、俺は黒涙草を一気に飲み干す。
喉を焼くような苦味が走った瞬間、すぐさまアイシャがエーテル料理を手渡してくる。それもすぐに飲み込む。
「メナト、大丈夫か!?」
「メナト? メナト?」
「だ、大丈……夫」
そう言った舌の先から、感覚が溶け落ちていく。
手足が痺れ、筋肉が硬直し、俺の体は自分のものではなくなった。
視界は波のように歪み、明滅する光の中で天井も壁もぐらぐら揺れる。
一生懸命息を吸おうとするが……息ができない。
胸が押し潰されるように苦しい……苦しい……!
そのとき、紋章が灼けるように熱を帯び、紫黒色の光が破裂するように迸った。
「メナト!? おいっ! 吐き出せ!」
背中を叩かれる衝撃だけが遠くで響く。
声はもう、何を言っているのか判別できない。
やばい……本当に……意識が……。
視界の端が真っ黒に染まり、音が消え、鼓動だけがやけに近くで鳴っている。
このままじゃ……死ぬ。
その淵で【追憶の紋章】がさらに激しく輝く。
紫黒の光が新緑色に徐々に浸食されていき――
頭に懐かしい声が流れてきた。
(坊、お嬢を頼む!)
そうだ!
俺がここで折れたら、ステラはもっと傷つく。
そんな未来だけは、絶対に見たくない。
こんなところで――!
(うぉぉぉおおおおお!!!)
叫んだはずなのに、声は空気を響かせない。
が、徐々に意識ははっきり覚醒してく。
気づけば呼吸を取り戻し、空気が肺に流れ込む。
手に力が入るようになっていた。
ホークとアイシャの声が輪郭を持ち、背中を叩く衝撃も、きちんと痛いと感じられるほどに。
「メナト! メナト!」
「お願い……帰ってきて! メナト!」
必死にすがるホークとアイシャ。
「お父さん、背中……痛いよ。お母さん、もう大丈夫。毒は中和できたみたい」
そう告げて、安心させようと微笑もうとした、その瞬間。
視界が闇に染まった。
「あれ……? お父さん? お母さん?」
目を開けているのに、何も映らない。
色も、形も、光さえも。
ただ両隣にいる二人の温もりだけが、はっきり分かる。
「メナト? 父さんはここにいるぞ? ここだ」
「お母さんもいるわ、手……握ってるからね?」
二人の手の感触はある。
指の温かさも、震えているのも、分かる。
でも、見えない。
どれだけ瞬きをしても、闇が晴れない。
まさか……ステラと同じように……?
妹が味わっている暗闇の世界が、俺にも!?
怖い。
視界がないのがこれほどまでに怖いなんて知らなかった。
ステラは、毎日、こんな恐怖の中で笑っていたのか……。
「お父さん? 僕の右手、何色に光ってる?」
「ま、また紫黒だ! もしかして、メナト……お前、視力を失ったのか!?」
「うん……そうみたい。今、【毒の紋章】が解毒するのに反応してるんだと思うけど……怖いよ……こんなに、怖いなんて思わなかった。今まで当然みたいに見えていたものが……全部真っ暗で……お父さんやお母さんが、どんな顔してるのかも分からなくて……怖いんだ……」
一刻も早く、ステラをこんな闇から救い出さなければならない。
数分、たったそれだけなのに、永遠みたいに長く感じた。
そして、ふいに視界に色が戻り、輪郭が生まれ、光が差し込む。
目に映ったのは――
涙で顔をくしゃくしゃにして俺を見つめるホークとアイシャだった。
「お父さん、お母さん。僕を信じてくれてありがとう。もう大丈夫。二人のことがちゃんと見えているから……」
安心させようと微笑むと、二人は同時に俺を抱きしめた。




