第97話お言葉を、賜りましたの
目を覚ますと、カーテンの隙間が、もう白かった。
玄関の向こうの廊下を、誰かの足音が、エレベーターの方へ遠ざかっていった。
両腕で体を起こして、ベッドの縁へずれる。脇に寄せた車椅子のブレーキを確かめてから、乗り移る。いつもの朝の手順だ。
机の上のタブレットが、伏せたまま、小さく震えていた。
開くと、通知が、画面の端から端まで並んでいた。
ゆうべの配信のアーカイブに、夜中のうちに、コメントが何十件もついていた。
――お嬢、見て
――マリカ様が、お嬢の切り抜き見てた
――昨日の夜の配信、本人の
――問屋さんの件、本人に届いてるぞ
――お嬢、これ絶対見て
その下に、配信のアーカイブの窓が、貼りつけてあった。
アンティーク調のソファ。紅茶のカップ。見慣れた部屋。
指が、窓の上で止まった。
*
お湯を沸かして、コーヒーを淹れた。
いつものインスタントだけれど、マグカップは、いちばん好きなものを出した。それから、机に戻って、窓を叩いた。
画面が、半分に割れていた。片側に、万里花様。もう片側に、見覚えのある運河沿いの道。日傘を差して歩く、金髪の女の子の背中。
私だった。
『欲しいものほど、自ら追いかけてはいけない』
画面の中の私が、指を折っていた。それを万里花様が見ていた。
倉庫が白く光って、音が割れて、万里花様が固まった。
私は、マグカップを持ったまま、息をするのを忘れていた。
『……半歩、ずれてるね』
万里花様は、そう言った。
困ったように、笑っていた。
『これ、どういう理解なの?』
分かっている。
あの人が話していたのは、追いLINEの夜のことだ。運河沿いの倉庫のことではない。それは、最初から分かっていた。恋愛相談の話じゃないの、と小夜さんにも首を傾げられた。
画面の中で、万里花様は、しばらく黙っていた。
それから、紅茶を持ち上げて、こう言った。
『わたくしの言葉を、ご自分の場面に置いて、ご自分で考えて、使ってくださった。それは、お茶会の主としては、嬉しいことですわ』
マグカップを、机に置いた。
置いたつもりが、少しだけ、コーヒーがこぼれた。
*
四日前の配信を、見逃していた。
締め切りを抱えたまま、ゲームの中のお茶会に出ていた夜だった。アーカイブの一覧を遡って、その夜の窓を開いた。
三通目のお便りを、万里花様は、読み上げる前に、一度黙った。
――万里花様の教えを、しっかり実践している人がいたら嬉しいですか?(合ってるとは言ってない)
『教えというのは、半歩ずれて受け取れば、反対側へ歩いていくものですわ』
それから、素の声に戻って、続けた。
自分の場面に置き換えて、勝手に使っていいの、と。たとえばさ、と言って、別れた彼の言葉をお守りにしている子の話をした。
『殿方から贈られた言葉は、贈った殿方のものではございませんの。受け取ったあなたのものですわ』
画面が、滲んだ。
私は、恋愛の話をされているのではなかった。それは分かっていた。
分かっていて、それでも、あの夜と同じだった。初めて、夜中に、あの人の配信を開いたときと。
――言った私より、受け取った人のもの。
手の甲で、目を拭った。
四日前の万里花様と、ゆうべの万里花様が、同じことを言っていた。ゆうべのあの人は、私の受け取り方を知った上で、それでいいと言ってくれた。
ゆうべの配信の最後で、万里花様は、カメラの方を向いていた。
背筋を伸ばして、いつもの声で。
『問屋さんは、お店のことですわ』
笑ってしまった。
泣きながら、笑った。問屋さんはお店のことだよ、と、小夜さんにも言われたのだった。
*
机の引き出しを開けて、ノートを出した。
最初のページから、あの人の言葉が並んでいる。欲しいものほど、自ら追いかけてはいけない。人を動かしてこそ、お嬢様。人との縁こそ、最大の財産。
いちばん新しいページに、書き足した。
殿方から贈られた言葉は、贈った殿方のものではない。受け取った者のもの。
その下に、もう一行。
教えというのは、半歩ずれて受け取れば、反対側へ歩いていくもの。
ペンを止めて、少し考えた。
それから、その一行の横に、小さく書き添えた。
――ここぞという場面で。
タブレットに戻って、万里花様の質問箱を開いた。
入力欄に、指を置く。
いつも見ています。ゆうべの配信の、あの切り抜きの
そこまで打って、指が止まった。
しばらく、点滅する線を見ていた。
一文字ずつ、消した。
質問箱を閉じて、ノートを引き出しに戻した。
*
目を開けると、拠点の部屋の天井があった。
わたくしは、窓を開けた。坂の下から、炭の匂いが上ってくる。
それから、窓際の小さな椅子に、腰を下ろした。
「ごきげんよう、皆様。九条院瑠璃華ですわ」
配信を始めると、視界の端の文字は、わたくしの挨拶よりも先に、ひとつの話題で埋まっていた。
【コメント】おはよう
【コメント】お嬢、見た?
【コメント】見たよな?
【コメント】マリカ様の配信
【コメント】本人に届いてたぞ
【コメント】問屋さんの件
【コメント】今日は画面の端に消えてない
【コメント】これは、見たな
「……皆様、もうご存じなのですね。アーカイブに、たくさん教えていただきましたもの」
わたくしは、膝の上で、両手を重ねた。
「わたくし、尊敬するお方から、お言葉を賜りましたの」
【コメント】知ってる
【コメント】リアタイしてた
【コメント】やっぱり
【コメント】マリカ様な
【コメント】名前言っていいんだぞ、お嬢
「お名前は、申し上げませんわ」
わたくしは、首を、小さく横に振った。
「わたくしの配信で、あの方のお名前をお出しするのは、あの方のご迷惑になりますもの」
【コメント】律儀
【コメント】もうみんな知ってるけどな
【コメント】お嬢がちゃんと気をつかってる
【コメント】自分が火種だって分かってるのか?
【コメント】師匠に迷惑かけたくないなら、まず倉庫を
【コメント】それはそう
「あの方は、わたくしの言葉を、ご覧になって」
声が、少しだけ揺れた。
一度、息を整えた。
「ご自分の場面に置いて、ご自分で考えて、使ってくださった、と。それは嬉しいことだ、と、おっしゃってくださいましたの。……言葉というものは、贈った方ではなく、受け取った者のものなのですって」
【コメント】よかったな
【コメント】ほんとによかった
【コメント】半歩ずれてるね、も言われてたけどな
【コメント】そこは聞こえなかったことに
【コメント】いや、たぶん全部聞いてる
【コメント】全部聞いた上で、この顔なんだよ
【コメント】目、ちょっと赤くない?
【コメント】アバターの目は赤くならんだろ
【コメント】じゃあ中の人が泣いてきたんだよ
「それから、もうひとつ」
わたくしは、背筋を伸ばした。
あの方が、カメラの方を向いて、そうなさったように。
「問屋さんは、お店のことですわ」
【コメント】www
【コメント】師匠直伝
【コメント】本人が言うと重みが違う
【コメント】小夜ちゃんにも言われてたやつ
「わたくし、二人がかりで教わってしまいましたの」
口もとが、勝手にほどけた。
窓の外で、坂を上ってくる荷車の音がした。わたくしは、日傘を手に取って、立ち上がった。
*
坂の角の屋台では、鈴村さんが、炭をおこしていた。
「おはようございます、九条院様。今朝は、ずいぶんとご機嫌がよろしいようで」
「ええ。とても良いことが、ございましたの」
「それは、何よりです」
鈴村さんは、湯呑を置いてくださった。
「私の方も、ひとつ。上の会合の日取りが、決まりました。五日後です。向こうには、五日ほどの予定で」
隣の丸椅子で、小夜さんが、串を持ったまま、顔を上げた。
「……五日後」
「ええ。それまでに、お店の方を、少し片付けておいていただけますか」
小夜さんは、頷いた。
それから、わたくしの顔を、じっと見た。
「瑠璃華、なんか、顔がうるさい」
「まあ。お嬢様の顔は、うるさくなどございませんわ」
【コメント】顔がうるさい
【コメント】小夜ちゃん、的確
【コメント】ずっとにこにこしてる
【コメント】師匠に認知された日のお嬢




