第95話上へ、参りましょう
二日後の港は、静かだった。
白くなった詰所の前に、衛兵の方々が立っていた。青白く光る硝子の板の下で、落ち着かなげに槍を持ち替えている。戸口は、触れると横に開いた。開くたびに、衛兵の方が半歩、飛びのいていた。
【コメント】こんにちは
【コメント】詰所、白いまま
【コメント】衛兵さん、戸にびびってる
【コメント】昨日の三つ目の鐘、見に行った奴いる?
【コメント】行った。ならず者、戻ってきた途端に全員縄
【コメント】衛兵、朝から詰所の前で待ち構えてたからな
【コメント】ヤスって子は?
スタロ様は、詰所の裏の、日雇いの方々の長屋の前にいた。
関谷様と一緒に、ひとつの戸口の前に立っていた。戸は開いていた。中は、がらんとしていた。壁の釘に、すり切れた前掛けが一枚、掛かったままになっていた。
「ごきげんよう、スタロ様」
スタロ様は、振り返らなかった。
「……いない」
「どなたが、ですの?」
「ヤスだ」
スタロ様の声は、ひどく平らだった。
「昨日の三つ目の鐘に、詰所の前に戻ってきた。俺も、そこにいた。……吹っ飛んだときの格好のまま、こっちに手を伸ばして。夕方には、ここに帰ってきたのを、隣の奴が見てる。ちゃんと、戻ってきたんだ。……でも、今朝はもういなかった。前掛けも置いたまま。誰も、出ていくのを見てない」
【コメント】戻ってきたのに
【コメント】また消えた?
【コメント】ログアウト……じゃないよな、NPCだし
【コメント】一回戻って、それから消えた
【コメント】それって
【コメント】……
【コメント】いや、やめとこう
「まあ」
わたくしは、がらんとした部屋の中を、戸口から覗き込んだ。
狭い部屋だった。寝床がひとつ。欠けた湯呑がひとつ。それだけ。
「どちらへ、いらしたのかしら」
それきり、わたくしは戸口を離れた。
港の方から、荷揚げの掛け声が聞こえていた。
【コメント】お嬢、もう興味ない
【コメント】戸口から一歩も入らなかった
【コメント】証人を大切にするって、おととい言ってたのに
【コメント】おとといのことは、もうおとといのこと
【コメント】お嬢の中で、たぶん片付いてる
長屋の路地の奥から、年配の人足の方が、ゆっくり歩いてきた。
日に焼けた、背の曲がったお爺さんだった。肩に、荷揚げの鉤を担いでいる。お爺さんは、空っぽの部屋の前で足を止めて、壁の前掛けを見た。
「……また、か」
関谷様が、顔を上げた。
「また、とは」
「港の日雇いがな。ときどき、こうやって戻ってこなくなるんだ。いつだったか、選挙の頃にも、一人。あいつも、戻ってこなかった」
お爺さんは、鉤を担ぎ直した。
「わしらは、日銭で生きとる。誰かがいなくなっても、次の日には、別の誰かが鉤を借りに来る。……それだけのことだ」
お爺さんは、それだけ言って、港の方へ歩いていった。
【コメント】港の古株のじいさんだ
【コメント】選挙の頃にも一人
【コメント】戻ってこない日雇い、二人目
【コメント】港、なんか怖いな
【コメント】隊長の顔
関谷様は、懐の上から、折りたたんだ紙を押さえていた。
三つ目の鐘。炭問屋。
「……これだけ、か」
スタロ様が、ようやく、こちらを向いた。
握った拳の装甲が、ぎし、と鳴った。
「俺は、あいつに手を伸ばした」
スタロ様は、低く言った。
「間に合わなかった。……一回目も、二回目も」
わたくしは、スタロ様の、伸ばしたという方の手を見た。
「お手を伸ばしてくださったのは、存じておりますわ」
そう申し上げて、日傘を差した。
【コメント】スタロ……
【コメント】二回目って……
【コメント】言うな
【コメント】お嬢、それ慰めてるつもりか
【コメント】たぶん本気で褒めてる
【コメント】それが一番きつい
*
坂の角の屋台からは、いつもどおり、焦げた脂の匂いがしていた。
「九条院様。おとといは、港で大変だったそうですね」
鈴村さんは、串を返しながら、穏やかに言った。
「ええ。悪い方々が、大勢いらっしゃいましたの」
「関谷さんから伺いました。港の詰所まで、白くなったと」
鈴村さんは、焼き上がった串を一本、わたくしの皿に載せた。
それから、屋台の脇の丸椅子に座っていた小夜さんの方を見た。
「小夜さん。少し、お願いがあるのですが」
「……なに?」
小夜さんは、炭袋を足もとに置いたまま、串にも手をつけていなかった。
「近いうちに、上へ参ります。代表として、上の役所に。わざと物を壊す方々のこと、港の騒ぎのこと。……決まりを、作っていただきに」
鈴村さんは、手を拭きながら続けた。
「書類が多くなりそうなのです。また、書類持ちをお願いできませんか。……それに」
鈴村さんは、少しだけ声を落とした。
「しばらく、下町を離れた方が、気も紛れましょう。おとといは、怖い思いをなさったでしょうから」
【コメント】鈴村さん、優しい
【コメント】小夜ちゃんのこと気にかけてる
【コメント】上の役所
【コメント】わざと壊す連中の取り締まりか
【コメント】小夜ちゃん、あの日一番近くにいたもんな
【コメント】……その「一番近くにいた」っての、掲示板でちょっと言われ始めてる
【コメント】やめろって
小夜さんは、しばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……うん。行く」
わたくしは、串を皿に置いた。
「でしたら、わたくしもお供いたしますわ」
鈴村さんと小夜さんが、同時にこちらを見た。
「上の街を、一度ちゃんと拝見してみたいと思っておりましたの。小夜さんのお供でしたら、ちょうどよろしいですわ」
「……瑠璃華が上に行くの、上の人たち、大丈夫かな」
「まあ。わたくし、上の方々にご迷惑をおかけしたことなど、一度もございませんわ」
【コメント】島ひとつ落としたよね
【コメント】上層の記録では「原因不明の崩落」だから……
【コメント】記録上は、ほんとに一度もない
【コメント】一番こわい乗客
「それに、スタロ様にも、お声をおかけしてみようかしら」
坂の下の方を見ると、白い影が、ちょうど港の方から上ってくるところだった。
その後ろから、もうひとつ、大きな影がついてきていた。熊の毛皮の胴着に、布を巻いた太い腕。串の匂いに引かれたのか、鼻をひくつかせている。
「……ゲイリー様も、ちょうどよろしいですわね。皆様で、上へ、参りましょう」
鈴村さんが、手を止めて、二人の方を見た。
それから、穏やかに笑った。
「賑やかな旅に、なりそうですね」




