第91話お約束どおりでしたわ
坂の下に着いたときには、もう始まっていた。
十人あまりの方々が、坂の下手の通りに散らばっていた。手に手に、金槌や、鉄のてこや、薪割りの斧を提げている。長屋の板塀が、一枚、また一枚と、叩き割られていた。乾物屋の雨戸が、蝶番ごと引き剥がされて、通りに投げ出されていた。
「――白くなれ! ほら! 白くなれって!」
「ならねえじゃねえか!」
「もっとだ、もっとでかく壊せ! ダブクロの板、坂の下は五倍だぞ!」
【コメント】うわ
【コメント】ほんとにやってる
【コメント】朝からかよ
【コメント】板塀、前に落書きされてたとこだ
【コメント】全然白くならない
【コメント】そりゃ樽と同じで、ただ壊れてるだけだろ
【コメント】ダブクロの「当てる気ある?」が効いてる
通りの真ん中で、焼き芋の屋台のお爺さんが、自分の屋台にしがみついていた。
屋台の車輪に、鉄のてこが差し込まれている。てこを握った男が、お爺さんごと屋台を揺さぶっていた。
「どけよ、爺さん。どうせ明日には戻るんだろ」
「戻るまでのあいだ、わしは何を売るんだ!」
乾物屋のおかみさんが、戸口で金切り声を上げていた。長屋の窓から、子どもを抱えた女の方が、顔を引っ込めた。
壊れた板塀の向こうから、誰かのすすり泣く声が聞こえた。
【コメント】焼き芋のじいさん、また……
【コメント】前は流れ弾、今回は狙い撃ち
【コメント】「どうせ明日には戻る」、一番言っちゃいけないやつ
【コメント】お嬢、顔
【コメント】来るぞ
わたくしは、日傘の柄に指をかけた。
それから、昨日の港の裏の路地を、思い出した。
――頼むから、そうなったら、まず俺を呼べ。
「……皆様」
わたくしは、宙に向かって、軽く首を傾げた。
「どなたか、スタロ様をお呼びくださいます?」
【コメント】!?
【コメント】呼んだ
【コメント】お嬢がスタロ呼んだ
【コメント】約束守る気だ
【コメント】今、スタロの配信に書き込んだ
【コメント】俺も
【コメント】スタロ、こっち向かってるって!
ほどなくして、坂の上の方から、光の足場を蹴る音が降ってきた。
たん、たん、たん。屋根から屋根へ。白い影が、通りの真ん中に着地した。
スタロ様は、着地と同時に、焼き芋の屋台のてこを握った男の手首を掴んでいた。
捻る。男が、悲鳴を上げて、てこを取り落とした。
「――やめろ! お前ら、全員やめろ!」
【コメント】スタロ来た!
【コメント】早い
【コメント】呼ばれてから二十秒くらい
【コメント】スタロ、ちゃんと間に合った
壊し屋の方々は、スタロ様を見て、一瞬だけ手を止めた。
それから、誰かが笑った。
「スタロだ。……大丈夫だ、こいつは殺さねえ。捕まえるだけだ」
「十人いりゃ、捕まえきれねえよ。散れ散れ!」
壊し屋の方々が、ぱっと四方に散った。
スタロ様は、ひとりを地面に押さえ込み、もうひとりの襟首を掴んで引き戻す。その隙に、三人目と四人目が、長屋の屋根へよじ登っていった。五人目と六人目が、その後に続く。
屋根の上で、斧が振り上げられた。四つの頭の上に、赤い札が、ぽつり、ぽつりとともった。
板葺きの屋根が、ばりばりと剥がされていく。長屋の戸口から、さっきの女の方が、子どもを抱えて転がり出てきた。そのまま、坂の上の方へ、裸足で駆け上がっていく。
【コメント】屋根に上った
【コメント】屋根剥がしてる
【コメント】中に人いたぞ
【コメント】出てきた、逃げた、よかった
【コメント】スタロ、二人押さえてて動けない
【コメント】数が多すぎる
スタロ様が、襟首の男を地面に叩き伏せた。二人まとめて膝で押さえ込んだまま、顔を上げた。
屋根の上の四人と、坂を駆け上がっていく母子の背中と、それから、わたくしを見た。
「スタロ様。どなたですの」
スタロ様は、答えなかった。
兜の奥で、歯を食いしばるような気配がした。
屋根の上の斧が、もう一度振り上げられた。
長屋の隣の家の、まだ無事な屋根の方へ、四人が移っていく。
スタロ様の、空いている方の腕が、ゆっくりと上がった。
指が、屋根の上を、まっすぐにさした。
「……あいつらだ。屋根の上の、四人」
声が、ひどく低かった。
「そいつらだけだ」
【コメント】さした
【コメント】スタロが自分でさした
【コメント】今回は、ちゃんと分かってて、さしてる
【コメント】声が重い
【コメント】スタロ……
「承りましたわ」
焼き芋の屋台のお爺さんが、屋台の陰から、屋根の上を見上げていた。
しがみついた屋台の柄を、震える手で握ったまま。
――剥がされた板葺き。振り上げられた斧。屋根の上の、四つの影。
白。
長屋の屋根が、空へ抜けた。
屋根だけではなかった。屋根の上の四人も、剥がされた板も、その下の長屋の一棟も。叩き割られていた板塀も、蝶番ごと剥がされた乾物屋の雨戸も。坂の下手から、雑貨屋の少し手前まで、通りの片側が、まとめて同じ白の中に散っていった。
光の粒が、四つ。
それから、少し遅れて、ふたつ、みっつ。
瞬きひとつのあいだに、そこに建っていた。
白い長屋だった。
継ぎ目のない白い壁が、坂の下手から上へ向かって、軒を連ねていた。板塀のあったところには、つるりとした白い塀。乾物屋の戸口は、硝子の引き戸になっていた。窓という窓の奥で、青白い光が灯りはじめる。
白は、雑貨屋の三軒手前で、ぴたりと終わっていた。えぐれたのが、そこまでだった。
【コメント】
【コメント】坂の下が
【コメント】白い
【コメント】一気に
【コメント】長屋が、白い長屋になった
【コメント】乾物屋、硝子戸
【コメント】雑貨屋の三軒手前で止まってる
【コメント】小夜ちゃんの店、ぎりぎり
【コメント】待って、粒、四つじゃなかった
【コメント】乾物屋のおかみさん、戸口にいたよな
スタロ様に押さえ込まれていた壊し屋のひとりが、地面に頬をつけたまま、白い長屋を見上げていた。
その顔が、ゆっくりと、笑いの形に歪んでいった。
「……白くなった」
「おい」
「白くなったぞ! 坂の下だ! ダブクロ、坂の下だ! 五倍だ!」
【コメント】は?
【コメント】喜んでる
【コメント】壊し屋、当ててる
【コメント】自分たちじゃ白くできなかったのに
【コメント】お嬢が当てさせた
【コメント】撃たれた四人も、坂の下に張ってたら配当入るのか
【コメント】最悪の結末
スタロ様は、押さえ込んでいた二人の手を、彼らの外套の紐で、後ろ手に縛った。
それから、ゆっくりと立ち上がって、白い長屋を、見上げた。
長屋の板塀は、もうなかった。
つるりとした白い塀が、そこに立っていた。
「……俺が、さした」
スタロ様が、ほとんど聞こえないほどの声で言った。
「ええ。お約束どおりでしたわ」
わたくしは、日傘を開いた。
「スタロ様が見分けて、指をさしてくださって。わたくしは、その方々だけを。……今日は、とても上手にいきましたわね」
スタロ様は、こちらを見なかった。
白い塀の前に立ったまま、さしたほうの手を、じっと見下ろしていた。
【コメント】……
【コメント】お嬢、褒めてる
【コメント】共同作業、成功、みたいな顔してる
【コメント】スタロの方は、そうじゃない
【コメント】さしたのは四人。白くなったのは坂の半分
【コメント】約束、守ったのに
*
坂を上って、雑貨屋の前まで来た。
小夜さんが、戸口に立っていた。
前掛けの紐を握ったまま、三軒向こうの白い壁を、じっと見下ろしていた。
「……ここまで、来たね」
「ええ」
わたくしは、白い壁には目をやらずに、戸口の鉢植えを覗き込んだ。
「小夜さん。こちらの葉、ずいぶん艶がよろしいですわね」
小夜さんは、わたくしの顔を見た。
何か言いかけて、口をつぐんだ。それから、鉢植えの、葉の向きを、ひとつずつ直しはじめた。




