第9話次からは、両隣までにいたしますわ
鈴村さんは、しばらく屋台の柱に手を添えていた。
傾いでいた柱が、まっすぐに立っていることを確かめるように。何度も、掌で木目を撫でていた。
「……ありがとうございます、九条院さん」
やがて顔を上げた鈴村さんは、いつもの穏やかな顔に戻っていた。
深く、きっちりと、角度まで揃えた一礼。
「これで、もう守り代を払わずに済みます。本当に、助かりました」
「お役に立てたのなら、何よりですわ」
「それで、お礼なんですが。大したことはできませんけど、せめて――」
「お代は、もういただきましたわ」
わたくしは、屋台の皿に残った串を目で示した。
「とても美味しい串を、一本。それで十分ですの」
【コメント】串一本で角ひとつ
【コメント】レートがおかしい
【コメント】お嬢の報酬体系どうなってんの
【コメント】無欲なのか何なのか
鈴村さんは、一瞬だけ言葉に詰まった。それから、困ったように笑った。
角の向こうでは、まだ誰かが名前を呼んでいた。長屋の方々が、瓦礫の中から布団や鍋を引っ張り出している。煙草屋の老人は、同じ場所に座ったままだった。
鈴村さんは、その景色をしばらく黙って眺めていた。
そして、わたくしの方へ向き直った。
「九条院さん。ひとつだけ、お願いしてもいいでしょうか」
「なんなりと」
「次に、もし……こういうことがあったら。その、もう少しだけ、小さくしていただけると」
言いにくそうに、けれどはっきりと。
責める響きは、どこにもなかった。ただ、ひとつ屋根の下に住む人に、夜中の足音を少しだけ控えてほしいと頼むような、静かな声だった。
「屋台を守っていただいたのは、本当にありがたいんです。でも、この角は、屋台だけでできているわけじゃないので」
【コメント】おっちゃん……
【コメント】言い方が優しすぎる
【コメント】これは効くだろ
【コメント】効かない方に一票
わたくしは、角の景色を眺めた。
屋台だけでできているわけではない。
なるほど、と思った。
確かに、わたくしは屋台のことしか考えていなかった。ご依頼は屋台を守ることだったから、屋台を守った。それは間違っていない。けれど、鈴村さんにとっては、この角全体が、商売をする場所なのだ。お客様は、向かいの乾物屋や長屋からも来るのだろう。
ご依頼主のお気持ちを汲むのも、お嬢様の務めだ。
「承知いたしましたわ」
鈴村さんが、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「次からは、屋台と、その両隣までにいたしますわ」
鈴村さんの肩が、元の高さに戻った。
【コメント】両隣
【コメント】範囲指定の話じゃないんよ
【コメント】守る範囲が広がっただけで爆破範囲は変わってない説
【コメント】でも一応聞き入れてるの珍しくない?
【コメント】お嬢が人の話聞いてるの初めて見た
鈴村さんは、何か言いかけて、口を閉じた。
それから、今度こそ本当に諦めたように、小さく笑った。
「……ええ。それだけでも、ずいぶん違います。ありがとうございます」
わたくしは頷いた。
伝わったようで、よかった。
鈴村さんは屋台の中へ戻り、炭の具合を見はじめた。
火は、まだ生きている。焼き台の縁を布で拭い、串を並べ直す。鐘の前と同じ、少しも乱れのない手つきだった。
「当分は、商売になりませんね。お客さんが通れる道じゃないですから」
独り言のように、鈴村さんは言った。
「仕入れも、しばらくは坂の上から回してもらわないと。雑貨屋の娘さんが、毎朝うちに炭と塩を届けてくれるんですよ。この辺りの配達は、ほとんどあの子が回ってまして」
「雑貨屋、ですの」
「ええ。坂の中ほどの。小さな店ですけど、気立てのいい子で。……今朝も、角の向こうの乾物屋まで行ってもらったんです。明日からは、道を変えてもらわないといけないな」
坂の中ほど。
拠点から毎日下りている、あの坂だ。そういえば、半分ほど下ったあたりに、戸口に鉢植えを並べた小さな店があった気がする。一度も入ったことはない。
【コメント】新キャラの気配
【コメント】配達の子
【コメント】おっちゃん、さりげなく人脈広い
「今夜は、本当にありがとうございました。またいつでも、串を食べに来てください」
「ええ。ぜひ、また」
わたくしは日傘を開き、暖簾の前で一礼した。
それから、カメラの方へ向き直る。
「今宵の依頼も、無事に果たせましたわ。皆様、ごきげんよう」
【コメント】無事とは
【コメント】おつかれさまでした
【コメント】古着屋の二階です おつかれさまでした
【コメント】三階です おつかれさまでした
【コメント】被害者の会が礼儀正しい
*
ヘッドギアを外して、しばらく天井を見ていた。
二回目の配信は、一回目より少し長かった。最大の同時視聴は、百を超えていた。登録者は、十二人になっていた。
昨日は一人だった。
タブレットを胸の上に載せたまま、ゲームのアカウント画面を開く。
ログアウトしたときに、画面の隅で所持金の数字が点滅していた気がしたのだ。
目を疑った。
所持金の欄の数字が、昨日の朝に見たときより、桁がひとつ増えていた。
一度閉じて、開き直す。変わらない。エバーポートの通貨は、現実のお金に換えられる。換算表を確かめると、私が記事を三本書いてようやく届くくらいの額だった。
どうして、と思った。
それから、すぐに思い当たった。
投げ銭だ。
配信中、コメントを目で追うのに精一杯で、ほかの表示まで見ている余裕はなかった。エバーポートでは、投げ銭はリアルの通貨でもゲーム内の通貨でも送れる。きっと、ゲーム内の通貨で送ってくれた人たちがいたのだ。何人も。黙って。
三階の人かもしれない。古着屋の二階の人かもしれない。最初に「応援してます」と書いてくれた、あの人かもしれない。
私はタブレットを伏せて、両手で顔を覆った。
こんなにも、応援してもらえている。
二回配信しただけの、名前も知られていない新人が。
次の配信の最初に、ちゃんとお礼を言おう。
あの世界の言葉で。あの世界の私として。心を込めて。
顔から手を離して、もう一度だけ画面を点ける。
配信のアーカイブに、コメントがひとつ増えていた。
【コメント】次は何棟ですか
私は少し考えて、それから、つい笑ってしまった。
屋台と、その両隣まで。
それだけは、ちゃんと守るつもりだった。




