第8話屋台には、焦げ跡ひとつございませんわ
ゴウダの腕に、また力が籠もった。
屋台がもう一段傾ぐ。棚のたれの壺が滑り、縁でかろうじて止まった。
狙うべき方は、四人。
真正面で柱を掴んでいるゴウダ。焼き台の前で串の皿を弄んでいる男。屋台の脇に回り込んだ男。そして通りの真ん中で、わたくしの日傘を肩に担いで得意げにしている、背の低い男。
わたくしの位置からは、ゴウダしか見えなかった。
暖簾と、屋台の板壁と、傾いだ柱。ほかの三人は、その向こう側にいる。
けれど、ちょうどいい方がひとり、外にいらした。
鈴村さんは、屋台から三歩ほど離れた通りに立っていた。
ゴウダたちを止めるでもなく、逃げるでもなく、前掛けの前で両手を組んで。あの位置からなら、屋台の正面も、脇も、通りの真ん中も、ひと目で見渡せるはずだ。
術式を、組む。
今夜は四つ。四人それぞれの足もとへ一つずつ。重ね終えたものを、放たずに手の内に留めておく。
ひとつだけ、いつもと違うことをした。
爆ぜる向きを、揃えておいた。四つとも、屋台に背を向けるように。外へ、外へと。
ご依頼は、屋台を守ること。それならば、屋台の側へは何ひとつ飛ばさなければいい。単純な話だった。
呼吸をひとつ。
世界が、鈴村さんの目になった。
静かだった。
屋台に取りつくゴウダ。焼き台の男。脇の男。通りの真ん中で、日傘を担いだ男。四人とも、視界の中にきちんと収まっている。
借りた目は、少しも揺れていなかった。瞬きの気配すらない。怯えた人の目は、たいてい落ち着きなく泳ぐものだ。鳩ほどではないにしても。
この方は、まっすぐに四人を見ていた。まるで、並べた串の焼け具合でも確かめるように。
肝の据わった方だ。
おかげで、狙いやすい。
四つ、放った。
白。
借りた視界が焼き切れて、わたくしの目に戻る。
暖簾が、外から内へ大きく膨らんだ。
遅れて、腹の底を叩くような轟音。ひとつではない。四つの爆音が重なり合い、角という角に跳ね返って、耳の奥で長く尾を引いた。
膨らんだ暖簾が、すとんと落ちる。
屋台は、揺れもしなかった。
傾いでいた柱が、ゆっくりとまっすぐに戻っていく。掴んでいた腕が、もうそこにないからだ。棚の縁で止まっていたたれの壺が、ことりと元の位置に座り直した。
炭が、ぱちりと爆ぜた。
わたくしは、丸椅子から暖簾の隙間越しに、外を眺めた。
通りが、明るかった。
向かいの乾物屋の雨戸がない。煙草屋の軒先がない。古着屋の二階の窓が、窓枠ごと向こう側へ抜けて、夜空が四角く覗いている。屋台の背にあったはずの長屋の板塀は、隣の路地まで一続きに倒れ、その奥の部屋の灯りが、いくつも剥き出しになっていた。
瓦礫の上を、細かな光の粒がいくつも昇っていく。四人分。それから、あといくつか。
【コメント】!?!?!?
【コメント】角が
【コメント】角が消えた
【コメント】屋台だけ無傷なの逆に怖い
【コメント】善処
【コメント】善処の範囲が屋台一個分
【コメント】長屋ぁぁぁ
【コメント】古着屋の二階です
【コメント】仲間が増えた
【コメント】三階です ようこそ
古着屋の二階の方。
今夜も、爆心のすぐそばから駆けつけてくださった方がいらっしゃる。三階の方が、さっそく歓迎してくださっているようだ。わたくしの配信は、よい方々に恵まれている。
屋台の中を、ぐるりと見回した。
暖簾に、煤ひとつない。焼き台も、串の皿も、壺も、わたくしの座る丸椅子も、鐘が鳴る前と何ひとつ変わらない。
完璧だ。
四つの爆ぜる向きを、最後まで一つも乱さなかった。これほど細やかに術式を揃えたのは、半年の稽古の中でも初めてだった。
ふわり、と。
暖簾の外から、何かが舞い降りてきた。
黒地に深紅のレースをあしらった、わたくしの日傘だった。
爆風に煽られたのか、骨の一本も折れずに開いたまま、くるくると回りながら屋台の前に落ちてくる。まるで、持ち主の足もとへ帰ってくる花のように。
「お返しいただけましたわね」
【コメント】ほんとに返ってきた
【コメント】取りに行かないのに向こうから戻ってきた
【コメント】追いかけない理論、完成してて草
【コメント】物理法則もお嬢の味方
わたくしは、ようやく丸椅子から立ち上がった。
暖簾をくぐり、落ちていた日傘を拾い上げる。柄についた砂を払い、ぱちりと閉じて、肩に預けた。
通りに出ると、角の景色がよく見えた。
倒れた板塀の向こうで、長屋の方々が、剥き出しになった部屋の中から這い出してくるところだった。鍋を抱えたまま立ち尽くしている女の人。寝間着の襟を掻き合わせて、瓦礫の山と夜空とを何度も見比べている老人。どこかで子どもが泣いている。誰かが、誰かの名前を呼んでいる。
煙草屋の老人は、さっき縁台を引っ込めたあの人は、軒先があった場所の前に座り込んで、手の中の煙管をじっと見つめていた。
皆様、ずいぶん驚かれたようだ。
無理もない。夜更けに、あれだけ大きな音がしたのだから。
わたくしは長屋の方へ向き直り、日傘を胸の前に立てて、深々と一礼した。
「夜分に、お騒がせいたしましたわ。悪い方々は、もうおりませんので。どうぞ、安心してお休みくださいな」
誰からも、返事はなかった。
鍋を抱えた女の人が、わたくしの方を見て、それからゆっくりと鍋を胸に抱き直した。
【コメント】お休みくださいな(家がない)
【コメント】寝る場所を消した本人が言うセリフ
【コメント】丁寧なのが一番タチ悪い
【コメント】直るのは知ってるけど、それはそれとして地獄絵図
鈴村さんは、さっきと同じ場所に立っていた。
三歩離れた、通りの上。前掛けの前で、両手を組んだまま。
爆風は、屋台の外へ、外へと向けて放った。鈴村さんの立っていたところも、その通り道のすぐ脇だったはずだ。前髪がわずかに乱れ、前掛けの裾に白い粉塵が薄く積もっている。
それだけだった。
一歩も退いていない。身を屈めた跡も、腕で顔を庇った跡もない。組んだ両手の指一本、ほどけていなかった。
【コメント】おっちゃん微動だにしてなくね?
【コメント】腰抜かして固まってるだけだろ
【コメント】それはそう
【コメント】目の前で四発爆発したらそりゃ固まる
鈴村さんが、ゆっくりと瞬きをした。
それから、ほうっと長い息を吐いた。まるで、今ようやく呼吸の仕方を思い出したかのように。
「……九条院さん」
「ええ」
「屋台は」
鈴村さんは、自分の屋台を振り返った。暖簾を、柱を、焼き台を、ひとつずつ確かめるように。それから、屋台の向こうに広がる、ぽっかりと明るくなった角の景色を見た。
長い沈黙だった。
わたくしは、日傘の柄を握り直して、微笑んだ。
「ご安心くださいな。屋台には、焦げ跡ひとつございませんわ」




