第7話わたくし、今は座っておりますの
九つの鐘が、港の方から渡ってきた。
ひとつ。ふたつ。
鐘の音が重なるごとに、通りの人影が少しずつ減っていく。向かいの乾物屋が雨戸を半分だけ下ろした。隣の煙草屋の老人は、店先の縁台を黙って奥へ引っ込めた。
この角の方々は、鐘の意味をよくご存じらしい。
鐘を待つあいだ、わたくしは丸椅子から、暖簾の隙間越しに角の様子を眺めていた。
坂から下りてくる道が一本。港へ抜ける道が一本。屋台はその二本が交わる角に、背を長屋の板塀へつけるようにして立っている。向かいには乾物屋と煙草屋、その並びに古着屋。どの店の二階にも、灯りがともっている。
人が来るなら、坂の上からだろう。港の側は見通しがよすぎる。悪いことをしに来る方々は、なぜか決まって、見通しのよくない方を選ぶものだ。
鈴村さんは、ずっと手を動かしていた。
炭の具合を見て、串を返し、焼き台の縁をいちいち布で拭う。怯えている様子はなかった。そういう方なのだろう、とわたくしは思った。怖いときほど、手を止めない方。
九つめの余韻が消えるころ、足音が四つ、坂の上から下りてきた。
先頭の男は、大柄だった。袖を肩までまくり上げ、腕に彫り物を入れている。後ろに続く三人は、揃いも揃って先頭の男の歩き方を真似ていた。肩を揺すり、爪先を外へ開いて、通りの真ん中を塞ぐように。
【コメント】来た来た
【コメント】絵に描いたようなチンピラ
【コメント】後ろの三人、歩き方コピーしてて草
【コメント】リーダーの腕のタトゥー、墨じゃなくてシールっぽくない?
鈴村さんが、串を返す手を止めた。
ほんの一瞬だけわたくしの方を見て、それから暖簾の外へ出ていく。前掛けの紐を結び直しながら。
「……いらっしゃいませ、ゴウダさん」
「いらっしゃいませ、じゃねえだろ」
ゴウダと呼ばれた男は、屋台の柱に片手をついた。
屋台全体が、ぎし、と軋む。
「先週の話の続きだ。今週の分、倍にしといたからな。払えねえってんなら、また屋台を寝かせてやるよ」
「お約束の通り、今週はお支払いできません。……それと、今夜はお客さんがいらしてまして」
「客ぅ?」
ゴウダが、暖簾を片手で跳ね上げた。
目が合った。
わたくしは、丸椅子に腰かけたまま、串の最後のひと切れを歯で外したところだった。
「ごきげんよう」
ゴウダの顔が、一拍遅れて歪んだ。
笑ったのだと分かるまでに、もう一拍かかった。
「おいおい、なんだこりゃ。仮装大会か?」
後ろの三人が、声を揃えて笑う。笑い方まで、先頭の男を真似ていた。
【コメント】仮装大会は草
【コメント】こいつら昨日の配信見てないな
【コメント】見てたら絶対来ない
【コメント】情報収集って大事だよね
後ろの三人のうち、いちばん背の低い男が、にやにやしながら暖簾をくぐってきた。
わたくしの足もとに立てかけてあった日傘に、手を伸ばす。
「へえ、いい傘じゃん。これ、守り代の足しにもらっとくわ」
わたくしは、止めなかった。
男は日傘を肩に担いで、得意げに暖簾の外へ戻っていく。
「では、お返しいただけるまで、こちらでお待ちしておりますわ」
男が、振り返った。
何を言われたのか分からない、という顔だった。
【コメント】取り返さないの!?
【コメント】追いかけないってそういう
【コメント】傘まで追わないのは徹底しすぎ
【コメント】いや待て、これ絶対あとで返ってくるやつだろ
わたくしは、串を皿に戻した。
手袋を嵌め直す。一本ずつ、指の股まで丁寧に。
立ち上がりは、しなかった。
「ゴウダさん、とおっしゃいましたかしら」
「あ?」
「こちらのご主人から、事情は伺っておりますの。守り代、でしたわね。何から守ってくださるのかは、教えていただけないそうですけれど」
「嬢ちゃんには関係ねえ話だ。怪我したくなけりゃ、串食ったらさっさと――」
「今宵限りで、この角からお引き取りいただけますかしら」
ゴウダの言葉が、途中で止まった。
わたくしは、微笑んだまま彼を見上げていた。
声を張ったつもりはない。脅したつもりもない。お願いをしただけだ。人を動かしてこそ、お嬢様。まずは言葉で。それで済むなら、それがいちばん優雅なのだから。
「……お引き取り、だと?」
「ええ。そうしていただけると、わたくしも助かりますの。こちらのご主人に、あまり大事にしないようにと頼まれておりますから」
屋台の外で、鈴村さんが小さく咳払いをした。
【コメント】おっちゃんの咳払い
【コメント】今それ言う?
【コメント】「大事にしない」がすでに脅し文句になってるの草
ゴウダは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと暖簾から手を離した。
「嬢ちゃん。立てよ」
「お断りいたしますわ」
「……あ?」
「わたくし、今は座っておりますの」
屋台の中に、奇妙な沈黙が落ちた。
炭がひとつ、小さく爆ぜる。
立って出迎えるのは、お客様をお迎えする側の作法だ。けれど、わたくしは今夜、この方々をお迎えしているのではない。この方々の方が、わたくしのところへいらしたのだ。
追いかけてくる相手のために、腰を上げる必要はない。
ゴウダの額に、青い筋が一本浮いた。
「……舐めてんのか」
「いいえ。串をいただいておりましたの。とても美味しゅうございましたわ」
【コメント】煽りスキルが高すぎる
【コメント】本人に煽ってる自覚なさそうなのが一番怖い
【コメント】串の感想いらんのよ
ゴウダが、振り返りもせずに顎をしゃくった。
後ろの三人が、屋台の左右と正面に散る。ひとりは屋台の脇へ回り込み、ひとりは炭の台の前に立ち、最後のひとりは、焼き台に並んだ串の皿を、見せつけるように指先でつまみ上げた。
「先週と同じにしてやるよ。屋台ごと寝かせりゃ、嬢ちゃんも椅子から転げ落ちるだろ」
ゴウダの両手が、屋台の柱を掴んだ。
太い腕に力が籠もる。屋台が、傾いだ。暖簾が揺れ、たれの壺が棚の上でかたかたと鳴る。
困った。
わたくしは、ほんの少しだけ眉を寄せた。
鈴村さんのご依頼は、この屋台を守ることだ。そして、大事にしないこと。この方々は今、屋台の真正面と、左右にいる。屋台にぴったりと張りついている。
このままでは、屋台ごと巻き込んでしまう。
屋台は、守らなければならない。
それが、ご依頼なのだから。
わたくしは、ゆっくりと目を上げた。
屋台の外。暗い通りの向こう。軒を連ねる店々と、その奥に並ぶ長屋の屋根。
なるほど、と思った。
屋台さえ無事なら、ご依頼は果たせる。
「――仕方ありませんわね」
わたくしは、丸椅子に座ったまま、にっこりと微笑んだ。




