第89話三十秒で、お済みになりましたの?
石段のふもとの白い倉庫は、すっかり荷置き場になっていた。
石段のふもとを通りかかったとき、ちらりと覗いた。白い壁の前に、荷車が六台、行儀よく並んでいる。戸に触れると横に開くのが面白いのか、荷車引きの方々が、用もないのに何度も開け閉めしていた。そのたびに、昨日のおじいさんが「壊れる、壊れる」と怒鳴っていた。
【コメント】こんにちは
【コメント】倉庫、もう普通に使われてる
【コメント】NPCの順応力
【コメント】戸の開け閉めで遊ぶじいさんたち
【コメント】壊れるって言ってるじいさんが一番使い倒してる
【コメント】港の裏の白い壁、見に行った奴いる?
【コメント】行った。ほんとに壁一枚だけ白い。隣の壁は普通の板
【コメント】気持ち悪いな、それ
「本日は、港の方を見回ってまいりますわ」
わたくしは、白い倉庫の前を通り過ぎた。
坂を下りて、港へ。
*
港の裏の路地は、炭の匂いがした。
倉庫街の一本裏。荷揚げ場の喧騒が遠く聞こえる、細い道だった。両側に、軒の低い問屋が並んでいる。干物、縄、樽。その一番奥に、黒々とした炭俵を軒先まで積み上げた店があった。
その向かいに、白い壁が一枚、立っていた。
古い板塀の続きの、ちょうど真ん中。そこだけ、継ぎ目のない白だった。左右の黒ずんだ板に挟まれて、まるで誰かが白い紙を一枚、貼りつけたように見えた。
【コメント】あれだ
【コメント】ほんとに一枚だけ
【コメント】しかも何も壊れた形跡ないのに
【コメント】いや、前にここでプレイヤーが殴り合ってたらしい
【コメント】守る会と狩人がやり合った夜だろ
【コメント】じゃあ、そのときに壊れたのが白く戻ったのか
炭問屋の軒先で、小柄なおじいさんが、炭俵を数えていた。
前掛けも顔も、炭で真っ黒だった。わたくしに気づくと、眉をひそめた。
「……あんた、あの、お嬢さんか」
「ごきげんよう。こちらは、炭のお店ですの?」
「見りゃ分かるだろう。下町の炭は、半分はうちのだ。串屋の旦那も、この頃はうちから取ってる。前は運河の向こうから引いてたらしいがな」
おじいさんは、炭俵を叩いた。
それから、向かいの白い壁を、気味悪そうに顎で示した。
「あれが生えてから、客がひとつ減った。気味が悪いってな。……あんたが撃ったのかい」
「いいえ。わたくし、こちらへ伺うのは初めてですわ」
「そうかい」
おじいさんは、信じたのか信じていないのか分からない顔で、また炭俵を数えはじめた。
【コメント】串屋の炭、ここのなのか
【コメント】お嬢、珍しく濡れ衣
【コメント】いや、これは本当に撃ってない
【コメント】撃ってないのに疑われるの、新鮮
【コメント】日頃の行い
そのときだった。
路地の入口の方から、足音が四つ、駆け込んできた。
革の外套に、目元を隠す布。手には、短剣と、空の麻袋。四人は、炭問屋の前で足を止めた。
四つの頭の上に、赤い札が、揃って浮かんでいた。
先頭の男が、こちらを見た。
わたくしの顔と、日傘とを。それから、にやりと笑った。
「――おっと。お嬢様が、いらっしゃる」
男は、懐から、小さな砂時計を取り出した。
手のひらに乗るほどの、硝子の砂時計。それを、炭俵の上に、とん、と置いた。
「知ってるぜ。お嬢様は、三十秒、待ってくださるんだろ? スターライトロードが来るまで。……スタロは今、北の原っぱで試合の立ち会い中。三十秒じゃ、絶対に来れねえ」
砂が、落ちはじめた。
「三十秒あれば、十分だ。――やれ!」
【コメント】は?
【コメント】砂時計!?
【コメント】三十秒ルール、悪用された
【コメント】頭いいな!?
【コメント】お嬢の約束を逆手に取ってる
【コメント】配信で何回も見てるもんな、三十秒
【コメント】スタロの居場所まで調べてきてる
【コメント】計画的犯行すぎる
【コメント】こいつら、賞金首ランキング一位の倉庫破りじゃね?
【コメント】石段の下でお嬢に吹っ飛ばされた三人もこいつらだろ、一人増えてる
【コメント】懲りてねえ
三人が、炭問屋の中へなだれ込んだ。
おじいさんが、短剣を突きつけられて、帳場の奥へ押し込まれる。銭箱がこじ開けられる音。炭俵が蹴倒されて、黒い粉が軒先に舞い上がった。
わたくしは、日傘を開いた。
砂時計の砂が、細く、細く、落ちていく。
「まあ」
思わず、声が出た。
「わたくしのお約束を、そこまでご存じでいらっしゃるなんて」
「有名だからなぁ!」
男は、砂時計の脇に立って、腕を組んだ。
「三十秒、待ってもらうぜ。お嬢様は、約束は破らねえんだろ?」
「ええ。破りませんわ」
【コメント】破らないって言った
【コメント】ほんとに待つのか
【コメント】いやでも、三十秒経ったら撃つぞこの人
【コメント】三十秒で逃げ切れる計算なんだろ
【コメント】路地、長いぞ。三十秒で抜けられるか?
店の中から、麻袋が放り出された。
ひとつ。ふたつ。銭の詰まった重い音。外の男が、それを肩に担ぐ。
砂が、半分を切った。
店の中の三人が、飛び出してきた。
炭の粉で、頭から真っ黒になっている。麻袋を担いだ四人が、そろって路地の奥へ走り出した。入口ではなく、奥。荷揚げ場へ抜ける細い抜け道の方へ。
「じゃあな、お嬢様! 約束どおり、三十秒!」
男は、走りながら振り返って、手を振った。
砂時計は、炭俵の上に置いたままだった。
抜け道の入口には、空の樽が、両側から迫り出すように積まれていた。
人ひとりが、横向きにやっと通れるほどの隙間。銭の詰まった麻袋を担いだ四人が、そこへ一度に押しかけて、肩と袋をぶつけ合った。
「押すな!」
「袋が引っかかってんだよ!」
【コメント】逃げた
【コメント】詰まってる
【コメント】麻袋、でかすぎ
【コメント】強盗の計画、出口の幅まで計算してなかった
【コメント】砂、あと少し
帳場の奥から、おじいさんがよろめき出てきた。
顔の炭の上に、汗の筋が流れている。おじいさんは、軒先の柱にすがって、十歩ほど先の抜け道の入口を、まっすぐに睨みつけていた。
砂が、落ちきった。
――積まれた樽の隙間。そこで押し合う、炭で真っ黒の四つの背中。肩の上の麻袋。
白。
路地の奥が、ごっそりと、なくなった。
抜け道も、樽も、両脇の問屋の軒も。麻袋の口から零れた銭が、白の中でちらちらと光って、そのまま一緒に昇っていった。
炭問屋の店先も、半分ほど。蹴倒された炭俵の山も。
光の粒が、四つ。
【コメント】
【コメント】三十秒ちょうど
【コメント】約束は守った
【コメント】守ったうえで撃った
【コメント】三十秒で逃げ切れる距離じゃなかった
【コメント】砂時計、置いてったのが運の尽き
【コメント】炭問屋も半分いった
「三十秒で、お済みになりましたの?」
わたくしは、炭俵の上の砂時計を、指先でそっとひっくり返した。
砂が、また落ちはじめた。
「お済みになったのでしたら、よろしゅうございましたわ」
【コメント】ひっくり返すな
【コメント】二周目始めるな
【コメント】こわ
【コメント】あの砂時計、誰が片付けるんだ
【コメント】約束の使い方、上級者すぎる
炭の粉が、ゆっくりと晴れていく。
えぐれた路地の向こうに、もう、炭問屋の店先が建っていた。
白かった。
黒々とした軒も、炭で煤けた柱もない。継ぎ目のない白い壁と、硝子の戸口。戸口の脇に、蹴倒されたはずの炭俵が、きちんと積み直されて並んでいた。
抜け道の奥の問屋の軒も、二軒ぶん、同じ白に変わっていた。
【コメント】白くなった
【コメント】また
【コメント】二か所目
【コメント】いや三か所目か、壁も入れたら
【コメント】炭問屋が白い
【コメント】炭俵は戻ってる
【コメント】お嬢が撃つと白くなる、確定では
おじいさんが、柱にすがったまま、自分の店を見上げていた。
それから、白い壁に、真っ黒な手のひらを、そっと当てた。
手を離すと、白い壁に、くっきりと黒い手形が残った。
「……炭屋の壁が、白くてどうするんだ」
【コメント】www
【コメント】それはそう
【コメント】炭屋に一番向いてない壁
【コメント】手形くっきり
【コメント】じいさん、明日から毎日拭くのか
わたくしは、日傘を差し直して、路地の出口へ足を向けた。
炭俵の上では、砂時計の砂が、まだ落ち続けていた。
おじいさんは、黒い手形と、わたくしの背中とを、順番に見た。
何も言わなかった。
ただ、ずいぶん長いあいだ、向かいの白い壁一枚と、自分の白い店とを、見比べていた。




