第86話境目のお掃除ですわ
開いた戸の隙間から、男が三人、滑り出てきた。
三人とも、上層の荷役の方々が着ている、灰色のつなぎを着ていた。胸に、上層の焼き印と同じ紋。ただ、どれも袖丈が合っていない。顔の下半分を布で覆って、手には短い棍棒を提げていた。
【コメント】出た
【コメント】三人組
【コメント】上層の荷役の服、盗んで着てるのか
【コメント】袖つんつるてん
【コメント】頭の上、赤い札出てる 賞金首だ
【コメント】これで顔隠しても意味ないのでは
ひとりが、荷車の前に回り込んだ。
もうひとりが、おじいさんの手から、荷車の柄をもぎ取った。おじいさんがよろけて、二、三歩、石段の方へ下がる。三人目が、荷車の後ろを押して、開いた倉庫の戸口の方へ、車輪を向けた。
手慣れていた。
一言も交わさずに、それぞれが、それぞれの持ち場で動いていた。
「おい、じじい。また来たのか」
柄を握った男が、布越しに笑った。
「三日前に言ったろ。ここは、上の衛兵も下の衛兵も来ねえ。遠回りすりゃいいんだよ」
「……遠回りしたら、日が暮れる」
「なら、荷を置いてけ。日が暮れる前に帰れるぞ」
【コメント】うわ
【コメント】ムカつく
【コメント】じいさん、三日前も殴られてるのに
【コメント】あいつら、お嬢に気づいてない?
【コメント】石段に座ってるドレスの金髪、見えてないわけないだろ
見えていなかったわけではないらしい。
荷車を押していた三人目が、ふと、石段の方を見た。日傘の下のわたくしと、目が合った。
布の上の目が、大きく見開かれた。
「……おい。おい、あれ」
「あ?」
「石段の下。……悪辣非道の」
柄を握った男が、こちらを振り向いた。
しばらく、わたくしの顔と、日傘と、ドレスの裾とを、順番に見ていた。
それから、肩の力を抜いて、笑った。
「――ああ、知ってる。けど、ここは境目だ。上の決まりも、下の決まりも、ここまでは届かねえ。あいつが撃ったら、あいつのほうが賞金首だろ」
【コメント】それ、言っちゃう?
【コメント】お嬢に賞金はつかないんだよ……
【コメント】知らないのか
【コメント】いや、知ってても「今回は違う」と思いたいんだろ
【コメント】境目理論、お嬢には効かないぞ
わたくしは、石段から立ち上がった。
ドレスの裾を払って、日傘を肩に預ける。
「境目、ですのね」
「そうだよ。どっちの持ち場でもねえ」
「でしたら」
わたくしは、軽く膝を折った。
「どなたの持ち場でもないところのお掃除は、わたくしがいたしますわ。わたくしは、どちらの衛兵でもございませんもの」
柄を握った男が、何か言い返そうと口を開いた。
「それに、もう三十秒、経っておりますもの」
「……は?」
「スタロ様がいらっしゃるまで、三十秒お待ちするお約束ですの。皆様とおしゃべりしているあいだに、ちょうど」
【コメント】あ
【コメント】数えてた
【コメント】日傘、一回も叩いてなかったのに
【コメント】喋りながら数えてたのかよ
【コメント】音のないカウント、一番こわい
【コメント】持ち場がないなら、お嬢の持ち場
【コメント】一番来ちゃいけない人の持ち場になった
【コメント】三人組、逃げろ
【コメント】じいさんも逃げろ
おじいさんは、石段の脇まで下がって、荷車の方を見ていた。
額の布を押さえたまま、倉庫の戸口へ引きずられていく、自分の荷車を。
――黒ずんだ板壁の並び。戸口に吸い込まれていく荷台。棍棒を提げた、三つの灰色の背中。
白。
五棟の倉庫が、まとめて空へ抜けた。
板壁も、屋根も、閉まっていた戸も、荷車も、上層の焼き印の木箱も、灰色のつなぎも。全部、同じ白の中に散って、崖の向こうの海の上へ昇っていった。
三つの光の粒が、海の上で、ほどけて消えた。
ふもとの道の半分に、何もなくなった。
黒い土と、えぐれた石畳と、崖の柵の、ちぎれた端だけが残っていた。
【コメント】
【コメント】倉庫五棟
【コメント】並びごと
【コメント】荷車も
【コメント】荷も
【コメント】じいさんの荷車……
【コメント】まあ明日には戻る……
おじいさんが、何もなくなった道を見ていた。
口が、少しだけ開いていた。
「荷も、お片付けしてしまいましたわね。……明日には、元通りになりますわ」
そう言って、わたくしが日傘を閉じかけたときだった。
倉庫が、あった。
瞬きひとつのあいだに、えぐれた土の上に、五棟ぶんの建物が建っていた。
黒ずんだ板壁ではなかった。白い。継ぎ目のひとつもない、滑らかな白い壁。屋根も瓦も板もなく、ただ、まっすぐな白い箱が、五つ並んでいる。壁には硝子の窓がはまっていて、昼間なのに、窓の奥で青白い光が灯っていた。
足もとの石畳も、倉庫の前だけ、継ぎ目のない白に変わっていた。
【コメント】は?
【コメント】は???
【コメント】戻った?
【コメント】いや戻ってない
【コメント】早すぎるだろ、明日じゃないのか
【コメント】白い
【コメント】上層の建物だ、これ
【コメント】官庁街のと同じやつ
【コメント】運営のアップデート?
【コメント】お嬢の爆破、新しい効果ついた?
【コメント】何が起きた
倉庫の前の白の上に、何かが、浮いていた。
荷車だった。
たぶん、荷車だった。車輪がなかった。白い、平たい台が、地面からこぶし一つぶんの高さに、音もなく浮いている。その上に、上層の焼き印の入った木箱が、三段、きちんと積み直されていた。
おじいさんが、おそるおそる、台に近づいた。
柄の代わりに、台の端に取っ手のような輪がついていた。おじいさんは、その輪に指をかけて、そっと引いた。
台は、滑るように、ついてきた。
「……軽い」
【コメント】浮いてる
【コメント】荷車が、浮く台になって戻ってきた
【コメント】じいさん、引いてる
【コメント】軽いって言った
【コメント】じいさん、ちょっと嬉しそうなの何
【コメント】腰の曲がったじいさんに、浮く台はありがたいだろうけど
【コメント】いやいやいや、そういう問題じゃない
わたくしは、白い倉庫の並びを見上げた。
窓の奥の青白い光が、ゆっくりと、明るさを増していく。
「まあ」
日傘を、ぱちんと閉じた。
「今日は、早起きですのね」
【コメント】早起き
【コメント】お寝坊さんの次は早起き
【コメント】そういう問題じゃない(二回目)
【コメント】早起き、で済ませた
【コメント】いや待て、気にならないのか
それから、もう一度、白い壁を眺めた。
「……それに、ずいぶん垢抜けましたこと」
*
石段の上から、足音が下りてきた。
小夜さんだった。空になった文箱の紐を指に引っかけて、受け取りの判子の押された紙を、ひらひらさせている。
下から三段目のところで、小夜さんの足が止まった。
「……何、これ」
「おかえりなさいませ、小夜さん。境目のお掃除をいたしましたの。そうしたら、早起きなさいましたのよ」
「早起き……?」
小夜さんは、白い倉庫と、浮いている台と、それを嬉しそうに引いて石段の脇の坂道を上っていくおじいさんとを、順番に見た。
石段の上の白と、ふもとの白とのあいだで、古い石の段だけが、灰色に取り残されていた。
「さ、帰りましょう。わたくし、お腹が空きましたわ」
わたくしは、閉じた日傘を手に、坂の方へ歩き出した。
少し遅れて、小夜さんの足音がついてきた。一度だけ、立ち止まって振り返る気配がした。
【コメント】帰るのかよ
【コメント】お腹空いた、で終わらせた
【コメント】小夜ちゃん、振り返ってる
【コメント】そりゃ振り返る
【コメント】誰か、あの倉庫の中、見に行け
【コメント】もう行ってる奴いる 掲示板が祭り
【コメント】切り抜き、もう上がってる




