第83話お寝坊さんですのね
九つの鐘が鳴り終わったとき、わたくしは、北の長屋の井戸の前にいた。
昨夜と同じ刻限だった。
井戸の縁に、スタロ様が腰かけていた。蛍光の線は、定時の休みを経て、いつもの明るさに戻っている。マントの裾だけが、昨夜よりもう一段、短く焦げていた。
「ごきげんよう、スタロ様。お約束どおり、参りましたわ」
「……ああ」
スタロ様は、それだけ言って、通りの向こうへ顎を向けた。
【コメント】こんばんは
【コメント】賭け三日目
【コメント】ちょうど丸一日
【コメント】スタロ、先に来て待ってたのか
【コメント】……見ろってことだな
通りの向こうに、倉庫が建っていた。
昨夜、わたくしが縁を空へ飛ばした屋根は、きれいに瓦がそろっていた。一枚の欠けもない。いつ戻ったのか、誰も見ていなかったけれど、戻っていた。
その手前に、長屋があった。
まん中の三軒は、黒い柱が何本か、夜空に突き立っているだけだった。足もとの灰は、昼のあいだに雨でも吸ったのか、重たく沈んでいる。焦げた戸板が一枚、井戸の脇に立てかけてあった。
端の二軒の屋根も、半分黒いままだった。
焼け跡の前に、昨夜の女の方が、子どもと並んでしゃがんでいた。
灰の中から、何か拾っている。茶碗のかけら。煮しめたような色の手ぬぐい。子どもの、片方だけの下駄。
【コメント】……
【コメント】倉庫の屋根は戻ってる
【コメント】長屋は戻ってない
【コメント】同じ通りで、くっきり分かれてる
【コメント】これを見せたかったのか、スタロ
【コメント】下駄、前に来たとき戸口の前にあったやつ……
「まあ」
わたくしは、日傘を閉じた。
「倉庫の方は、もうお片付けが済んでおりますのに。燃えてしまったものは、戻るのに、お時間がかかるのですわね」
【コメント】かからない
【コメント】戻らないんだよ
【コメント】スタロ、言えよ
【コメント】言ったらどうなると思う?
【コメント】「でしたら、燃える前に、わたくしが全部」って言い出す
【コメント】……言えねえな
【コメント】吹っ飛ばされた方がマシ、って結論になっちゃうもんな
【コメント】それ、みんな分かってて、誰も言わないやつ
スタロ様は、何も言わなかった。
兜の奥で、長い息をひとつ吐いただけだった。
「お寝坊さんですのね」
わたくしは、焼け跡に向かって、小さく膝を折った。
女の方が、灰の中から顔を上げて、わたくしを見た。それから、何も言わずに、また下を向いた。
*
「――おーい、まだやってんのか、ここ」
倉庫の路地から、笑い声が出てきた。
男が三人。昨夜、倉庫の屋根の縁にしゃがんでいた方々だった。
酒の瓶を回し飲みしながら、焼け跡を眺めて、ひとりが口笛を吹いた。
「よく燃えたもんだ」
【コメント】は?
【コメント】放火犯、戻ってる
【コメント】お嬢に吹っ飛ばされたから、丸一日で戻ったのか
【コメント】家は戻らないのに、燃やした奴は戻る
【コメント】一番胸くそ悪い非対称
【コメント】お嬢、日傘
【コメント】スタロ、指!
わたくしは、日傘の柄に指をかけた。
スタロ様が、井戸の縁から立ち上がった。指は、まだ、さしていなかった。
その前に、呼子笛が鳴った。
路地の反対側から、角灯がいくつも駆け込んできた。灰色の外套の衛兵の方々が、三人を囲む。その後ろから、関谷様が、ゆっくりと歩いてきた。
「昨夜、倉庫の屋根から、火のついたつぼを投げた三人だな。見ていた者が、十人いる」
「お、俺たちゃ頼まれただけだ!」
「誰にだ」
「サイコロの布を巻いた連中だよ! 銭をもらった! それだけだ!」
関谷様は、ひとつ頷いた。
「頼んだ者は、頼んだ者で調べる。火を付けたのは、お前たちだ。――誰であろうと、だ」
衛兵の方々が、三人の腕を縛り上げた。
【コメント】隊長!
【コメント】誰であろうと、だ
【コメント】お嬢が撃つ前に、法で捕まえた
【コメント】スタロ、指ささずに済んだ
【コメント】今回は、牢なら戻ってこないもんな
【コメント】サイコロの布の連中、って言ったぞ
「――あー、それ、うちのお客さんかな」
焼け跡の端から、明るい声がした。
ダブルクロス様だった。
いつの間に来ていたのか、焦げた柱の一本にもたれて、金色のサイコロを指で転がしていた。自分の配信には、何も喋っていなかった。
【コメント】ダブクロ
【コメント】あいつの枠、今オフラインだぞ
【コメント】配信切って来てる
【コメント】でもお嬢の配信には映ってる
【コメント】気にしてないのか
「お嬢様、こんばんは。あ、映ってる? いいよ、別に。俺、何もしてないし」
スタロ様が、ダブルクロス様の前に立った。
「……お前が貸した奴らが、火を付けさせた」
「うん、そうみたいだね。ひどい話だよ」
「お前が、頼んだんだろ」
「俺?」
ダブルクロス様は、サイコロを宙に弾いて、掴んだ。
「俺は場を開いてるだけ。張るのも借りるのも、みんなの自由。火をつけたのは、そこのNPC。頼んだのは――」
指の上で転がっていたサイコロが、ほんの一瞬、止まった。
「誰だろうね」
それから、また転がりはじめた。顔は、ずっと、いつもの笑顔のままだった。
【コメント】……
【コメント】今、サイコロ止まらなかった?
【コメント】一瞬だけ
【コメント】気のせいだろ
【コメント】いや、止まった
【コメント】「誰だろうね」がいちばんこわい
スタロ様は、拳を握った。
握ったまま、振り上げなかった。
「……分かった。お前には、何も言わない」
スタロ様は、通りの方へ向き直った。通りの両端に、いつの間にか、ドレスの方々と、サイコロの布の方々が集まって、こちらを窺っていた。
「お前らに言う。――守る会も、狩人も。今日から、賭けが締まるまで、下町の中での殴り合いはなしだ。こいつを狙うのは勝手にしろ。でも、街の中でやるな。人の家の前でやるな」
通りが、しんとした。
桃色の方が、すすの落ちきらないドレスの裾を握って、最初に頷いた。サイコロの布の方々の何人かが、焼け跡から目を逸らしたまま、頷いた。
「立会人は、俺が務める」
関谷様が、短く言った。
「この約束は、港の決まりとして預かる」
「――私も、立ち会わせていただけますか」
通りの角に、洗いざらしの着物の方が立っていた。
鈴村さんだった。手に、炭の匂いのする包みを提げている。
「炊き出しを、少し持って参りました。……それと、代表として、ひとつ。プレイヤーの皆さんのあいだの争いを、話し合いで調える場を、上に願い出てみようと思います。今夜のようなことが、二度とないように」
【コメント】鈴村さん
【コメント】炊き出し持ってきた
【コメント】プレイヤー同士の争いを、話し合いで調える場
【コメント】串屋の代表、仕事が早い
【コメント】ダブクロ、「いいね、それ」って拍手してる
【コメント】あいつ、何が決まっても損しないんだよな
「わたくしは、どなたとも争っておりませんけれど」
「お前のは、争いじゃない。一方的だ」
「まあ」
【コメント】w
【コメント】正確
【コメント】争いじゃなくて一方的
*
それから四回の配信のあいだ、北の長屋に、火を持ってくる者はいなかった。
守る会と狩人は、街の外の原っぱで、ときどき殴り合ったらしい。原っぱでわたくしを待ち伏せなさる方々も、ときどきいらした。皆様、きちんとお片付けした。
七回目の配信の夜、ダブルクロス様の板の「負ける」の欄に、黒い線が一本、引かれた。
【コメント】締まった
【コメント】お嬢、無敗
【コメント】七回の配信、一回も負けず
【コメント】借金組、配当なしか……
【コメント】利子ちょっとだけなんだろ? なら何とかなるって
【コメント】ダブクロ、場代でほくほく
その夜も、わたくしは、北の長屋の前を通った。
焼け跡には、焦げた柱の代わりに、粗末な板を立てかけた小屋がひとつ、できていた。鈴村さんの炊き出しの包みが、その戸口に置いてある。
わたくしは、日傘を傾けて、その前を通り過ぎた。
小屋の方は、見なかった。




