第82話明日には、元通りですわ
倉庫街の屋根の向こうが、橙色に明るかった。
夜の港を、日傘を差して歩いていたところだった。灯台の光の束が、ゆっくりと頭の上を回っていく。その光とは別の色が、倉庫と倉庫のすき間から、低く滲んでいた。
焦げた木の匂いが、潮風に混じって流れてきた。
【コメント】夜まで配信してる
【コメント】火事?
【コメント】あっち、北の長屋の方だろ
【コメント】守る会の拠点があるとこだ
【コメント】空き部屋、まとめて借りてたもんな
わたくしは、日傘を閉じて、倉庫街の路地へ入った。
*
北の長屋は、燃えていた。
六軒並んだ板葺きの屋根の、まん中の三軒から、火が噴き上がっていた。乾いた板が、ぱちぱちとはぜている。火の粉が、潮風にあおられて、隣の屋根へ、そのまた隣へと降っていく。
通りを挟んだ井戸の前に、人の列ができていた。前掛けのおかみさん、寝間着の老人、港の人足の方々。おけからおけへ、手渡しで水が運ばれていく。その列のなかほどに、すすで灰色になった桃色のドレスが混じっていた。
「お、お嬢様!」
桃色の方が、水のおけを抱えたまま、こちらに気づいた。巻き髪が、片方、ほどけていた。
「わ、わたくしたちの拠点が……さっき、屋根の上から、何か投げ込まれて……」
桃色の方は、通りの向こうの、倉庫の屋根を振り返った。
倉庫の屋根の縁に、男が三人、しゃがんでいた。
足もとに、つぼが並んでいる。ひとりが、つぼの口に火を移して、長屋の屋根へ放った。板の上で割れて、新しい火の手が、ぼっと上がった。
【コメント】放火じゃねえか
【コメント】屋根から投げてる
【コメント】あいつら、港の裏の路地にいるならず者だ
【コメント】プレイヤーじゃない、NPCだぞあれ
【コメント】倉庫の下の路地、見て
【コメント】腕にサイコロの布巻いた奴が二人、見上げてる
【コメント】金払って、やらせてるのか
【コメント】借金組だ……
「中に、まだいるんだよ!」
井戸の列の先頭で、おかみさんが叫んだ。
「まん中の家! あの子と、おっかさんが! 戸が、開かないんだ!」
まん中の家。
以前、押しかけた方々の松明と、わたくしのお片付けとで、軒をなくしてしまったお宅だった。軒も戸口も、次の日には元に戻っていた。その戸口が、今は、火の向こうで黒く口を閉じていた。
わたくしが日傘の柄に指をかけるより先に、白い影が、通りに落ちてきた。
スタロ様だった。
蛍光の線が、ひどく弱く明滅していた。光の足場が、着地のたびに、いつもより早く砕けた。
「どいてろ!」
スタロ様は、井戸の列を突っ切って、まん中の家の戸口に肩から当たった。
戸が、内側へ倒れた。火の粉が、ぶわりと外へ噴き出した。白い背中が、その中へ消えた。
【コメント】スタロ!
【コメント】入った
【コメント】線、消えかけてない?
【コメント】昨日の夜から休んでないって
【コメント】定時の休み、あと何分だよ
【コメント】戻ってこい
ひとつ、ふたつ、数えるほどの間だった。
焼けた柱が、戸口の上で、めきりと鳴った。
白い背中が、後ろ向きに飛び出してきた。
両腕に、女の方と、小さな子どもを、まとめて抱えていた。マントの裾に、火が移っていた。
スタロ様は、通りの真ん中に膝をついて、女の方を石畳に下ろした。女の方が、激しく咳き込みながら、スタロ様の腕の中の子どもに手を伸ばした。子どもは、スタロ様の首にしがみついて、泣いていた。大きな声で。
桃色の方が、おけの水を、スタロ様のマントにぶちまけた。
【コメント】出てきた!
【コメント】二人とも!
【コメント】子ども、泣いてる、生きてる
【コメント】桃色さん、ナイス
【コメント】スタロのマント、じゅって鳴った
倉庫の屋根の上で、ひとりが、また新しいつぼに火を移していた。
狙っているのは、まだ火の回っていない、端の一軒だった。井戸の列の、すぐ後ろ。
「スタロ様」
わたくしは、日傘の柄を握った。
「どなたですの」
スタロ様は、両腕がふさがっていた。片手で咳き込む女の方の背を支え、もう片方の腕には、泣いている子どもがしがみついたまま。
兜が、ぐいと屋根の方へ振られた。
「――あそこだ! 屋根の上の、三人!」
【コメント】顎でさした
【コメント】指の代わりに顎
【コメント】両手ふさがってるもんな
【コメント】約束、顎でも有効なのか
【コメント】有効だろ、見分けて示したんだから
「承りましたわ」
路地の荷箱の上に、港の人足の方がひとり、よじ登っていた。
倉庫の屋根を、真下から睨み上げている。拳を振り上げて、何か怒鳴っていた。
柔らかい目だった。
――屋根の縁。並んだつぼ。火を抱えた、三つの影。
白。
倉庫の屋根の縁が、夜空へめくれ上がった。
つぼも、火も、男の方々も、同じ白の中に散って、灯台の光の束を横切っていく。
光の粒が、三つ。
長屋の屋根は、一枚も動かなかった。
白は、倉庫の上から、まっすぐ空へ抜けていた。
【コメント】屋根の上だけ
【コメント】長屋、巻き込んでない
【コメント】珍しく範囲が上品
【コメント】倉庫の屋根は持ってかれたけどな
【コメント】サイコロの布の奴ら、逃げた!
【コメント】路地の奥へ走ってった
【コメント】あいつらは示されてないから、撃たないのか
【コメント】約束、律儀だな……
*
火は、それからしばらく燃えて、井戸の列が消し止めた。
それでも、まん中の三軒は、柱だけを残して焼け落ちた。端の二軒の屋根も、半分が黒くなった。
女の方は、石畳に座ったまま、子どもを膝に抱いて、焼け跡を見ていた。
わたくしは、そのそばに膝をついた。ドレスの裾に、すすがついた。
「ご無事で、何よりでしたわ」
女の方は、答えなかった。
焼け跡から、目を離さなかった。
「お家のことは、ご心配には及びませんわ。前のときも、そうでしたでしょう。明日には、元通りですもの」
【コメント】あ
【コメント】……
【コメント】お嬢、それ
【コメント】前のは、お嬢が吹っ飛ばしたやつだから戻ったんだよ
【コメント】これ、NPCが火つけたやつだぞ
【コメント】戻らない
【コメント】え、戻らないの?
【コメント】戻らない。掲示板に検証あった
【コメント】誰か言ってやれ
【コメント】言えるか? この空気で
女の方は、やはり何も言わなかった。
ただ、膝の上の子どもを、少しだけ強く抱き直した。
スタロ様が、すぐ後ろに立っていた。
蛍光の線が、またたくたびに、少しずつ暗くなっていく。輪郭の端が、夜気に溶けるように、薄く透けはじめていた。定時の休みの時間らしかった。
スタロ様は、焼け跡と、女の方と、わたくしとを、順番に見た。
何か言いかけて、兜の奥で、それを飲み込んだようだった。
「……明日、火が出たのと同じ刻限に。ここに来い」
それだけ言って、スタロ様は、光の足場を蹴った。拠点へ戻るのだろう。足場の音が、屋根の向こうへ遠ざかっていった。
【コメント】スタロ、言わなかった
【コメント】同じ刻限、って
【コメント】丸一日たったら、ってことだろ
【コメント】自分の目で見せる気だ
【コメント】ダブクロ、今夜は九つの鐘で配信切ってたよな
【コメント】自分は帰ってから、火がつくのか
【コメント】今夜も盛り上がるよ、って
【コメント】盛り上がってねえよ




