第81話皆様、お元気ですわね
ヘッドギアを外すと、部屋の中は真っ暗だった。
枕元の時計は、日付が変わる少し前を指していた。私は、しばらく天井を見上げたまま、自分の呼吸の音を聞いていた。さっきまで、灯台の丘の夜風の中にいた。芝生の匂いと、こぼれたお茶の甘い香り。それが、少しずつ遠ざかっていく。
代わりに、部屋の空気の、乾いた匂いが戻ってきた。
両腕で体を起こす。ベッドの縁まで体をずらして、脇に寄せてある車椅子のブレーキを確かめてから、乗り移る。いつもの手順だ。考えなくても、腕が覚えている。
あの芝生を、自分の足で踏んでいた感触が、まだ足の裏に残っている気がする。気がするだけだ。
台所で、お湯を沸かした。
インスタントのコーヒーを、マグカップに一杯。向こうでは小夜さんの店の茶葉でお茶ばかりいただいているのに、こちらでは、いつもこれだ。それでも、湯気の匂いを吸い込むと、少しだけ落ち着いた。
*
机の上でタブレットを開くと、配信サイトの通知が、いくつも溜まっていた。
さっきまでの配信の、最大同時視聴。四千を超えていた。
切り抜きも、もう何本も上がっていた。
――【お茶会】立ち見の席はございません
――ドレスに染みをつけた結果
――桃色さん、ひとりでお茶を飲む
思わず、少し笑ってしまった。
桃色の方、ひとりで「美味しいですわ」と言ってくださった方。あの方には、もう一度、ちゃんとしたお茶を淹れて差し上げたい。今度は、出がらしではなく。
コメント欄を、少しだけ読んだ。
面白かった、という声。こわかった、という声。見物していただけなのに、という声もあった。
見物していただけ。
私は、マグカップを両手で包んだまま、その一行を、しばらく眺めていた。
お茶会の招待状には、どなたもお越しください、と書いた。見物の方も、ご自分の意思で、あの丘にいらしたのだ。お気の毒なことでは、あったけれど。
それから、次の行へ指を動かした。
*
おすすめ欄の端に、ニュースの見出しが一本、流れてきた。
――仮想空間内の貸し借り、差し押さえ件数が過去最多に。「ゲームの借金も現実の借金」判決から五年。
私は、見出しだけ読んで、指で払った。
借金は、していない。換金も、配信の投げ銭を、たまに生活費の足しにするくらいだ。私には、関係のない話だった。
原稿の締め切りが、明後日に迫っていた。今度は、雷が光ってから音が届くまでの、時間差の話。
画面を切り替えて、書きかけの原稿を開く。三行書いて、消して、また書いた。
寝る前に、明日の予定を確かめた。
朝、原稿の続き。お昼を食べて、それから、ログイン。
*
目を開けると、拠点の部屋の、見慣れた天井があった。
狭い部屋だ。窓際に小さな卓と椅子。壁に、ドレスを掛けておく釘。昨夜の染みは、もうきれいに消えていた。ゲームの中の汚れは、ひと晩で落ちる。現実のマグカップの底に残る、コーヒーの輪とは、大違いだった。
わたくしは、日傘を手に取って、部屋を出た。
「ごきげんよう、皆様。九条院瑠璃華ですわ」
【コメント】おはよう
【コメント】賭け二日目
【コメント】昨日、配信終わったあとが大変だったんだぞ
【コメント】夜のうちに、守る会の生き残りと狩人が三か所で殴り合い
【コメント】守る会、桃色さん以外も拠点から戻ってきて、人数また増えてる
【コメント】狩人も、借金組が目の色変えてる
【コメント】お嬢、坂の様子見てみ
坂は、少しだけ、いつもと違っていた。
乾物屋の雨戸が、一枚、外れて道に倒れていた。煙草屋の軒先の縁台が、真ん中から折れている。長屋の板塀には、墨で大きく、何か書いてあった。片方には「ですわ女は帰れ」。その隣に、別の筆で「借金取りの犬」。
坂の途中の、焼き芋の屋台が、横倒しになっていた。屋台の主のお爺さんが、散らばった芋を、ひとつずつ拾い集めていた。
【コメント】うわ
【コメント】流れ弾だ
【コメント】プレイヤー同士の殴り合いで、NPCの店がやられてる
【コメント】焼き芋のじいさん……
【コメント】雨戸とか屋台は、明日には戻るけどな
【コメント】戻るからいいって問題か?
【コメント】板塀の落書きは、プレイヤーが書いたんだから戻るだろ
【コメント】じいさんが今日、芋を売れないのは戻らないんだよ
「まあ」
わたくしは、横倒しの屋台の前で、足を止めた。
お爺さんは、こちらを見上げて、それから、黙って芋拾いに戻った。
「皆様、お元気ですわね」
【コメント】お元気
【コメント】元気の方向性が違う
【コメント】自分の茶会が火種とは一ミリも思ってない
【コメント】お嬢、芋拾い手伝え
【コメント】お嬢が拾うと芋が吹っ飛ぶ
坂の上の方から、怒鳴り声が聞こえた。
見ると、四つ辻のところで、ドレスの方々と、腕に金のサイコロの布を巻いた方々が、もみ合っていた。その真ん中に、白い影が割り込んでいる。
「やめろって言ってんだろ! ここ、店の前だぞ!」
スタロ様だった。
両腕を広げて、両方の胸ぐらを押し返している。蛍光の線が、疲れたように鈍く明滅していた。
ドレスの方と、サイコロの布の方が、舌打ちをして、それぞれ反対の路地へ散っていった。
スタロ様は、肩で大きく息をついて、それから、こちらに気づいた。
「……お前」
「ごきげんよう、スタロ様。今朝も、お忙しそうですわね」
「誰のせいだと思ってる」
「ダブルクロス様の賭けのせいではございませんの?」
「お前の茶会のせいもあるんだよ!」
スタロ様は、それだけ言って、また別の怒鳴り声の方へ、光の足場を蹴った。
昨夜から、休んでいらっしゃらないのかもしれなかった。
【コメント】スタロ、目の下にクマできてそう(メットで見えないけど)
【コメント】昨日の夜から仲裁して回ってるらしい
【コメント】定時の休みもぎりぎりまで粘ってるって
【コメント】お嬢の茶会のせいもある、正論
【コメント】お嬢、たぶん今のも聞いてない
*
坂を下りきったところの、乾物屋の二階の窓が、開いていた。
窓枠に腰かけて、金色のサイコロを指で転がしながら、ダブルクロス様が、自分の配信に向かって喋っていた。
「――はい、どうもー! 賭け二日目、大盛況です! お嬢様は今日も元気、無敗継続中! で、新しい枠、出しました。『本日の対戦カード』。守る会と狩人、今日どっちが多く相手を拠点送りにするか。小口で張れるよ、気軽にどうぞ!」
それから、窓の下のわたくしに気づいて、片目をつむってみせた。
「あ、お嬢様。おはよう。昨日はありがとね、特別枠、すっごい盛り上がった」
「ごきげんよう。お役に立てて、何よりですわ」
「うん。……今夜も、たぶん、盛り上がるよ」
ダブルクロス様は、そう言って、目を糸のように細くして笑った。
【コメント】守る会vs狩人にまで賭け立ててる
【コメント】争いを煽って、その争いでまた稼いでる
【コメント】今夜も盛り上がるって何
【コメント】嫌な言い方
【コメント】あいつ、何か知ってるだろ
【コメント】お嬢、「何より」じゃないんだよ




