第79話お茶会に、立ち見の席はございませんの
こぼれたお茶が、卓布の端から、まだぽたりと落ちていた。
丘の静けさは、長くは続かなかった。
西の狩人の誰かが、「今だ」と叫んだ。それを合図に、東のドレスの方々が「お嬢様をお守りしますわ!」と叫び返した。物干しざおと棍棒が、鎖鎌と日傘が、芝生の真ん中で、いっせいにぶつかり合った。
東と西のあいだの、細い芝生の隙間が、あっという間に消えた。
ぶつかり合う人の塊が、ぐいぐいと卓の方へ押し寄せてくる。その後ろから、丘の縁で見物していた方々までが、もっとよく見ようと、前へ、前へと詰めてきた。
【コメント】始まった
【コメント】乱闘
【コメント】守る会と狩人、正面衝突
【コメント】見物人まで寄ってきてる
【コメント】卓の方に押し寄せてる
【コメント】お嬢、ドレスの染み見つめたまま動かない
【コメント】古着屋の二階です 丘の縁から見てます。今回は近づきません
【コメント】三階です 石段の途中です。同じく
スタロ様が、人の塊の真ん中で、両腕を広げて押し返していた。
「やめろ! 下がれ! お前ら、全員下がれ!」
両手は、もう背中には回っていなかった。それでも、指は一本も、誰にも向けていなかった。
広げた掌が、守る会の方と狩人の方を、両側から押し分けている。
わたくしは、卓布の上の、空になった茶杯を見ていた。
小夜さんの店の茶杯。ほんのひとつまみの茶葉。香りが強いから少なめに、と教わったとおりに淹れた、一杯。
向かいの椅子では、桃色の方が、真っ青な顔で座ったまま固まっていた。
背後で、自分のお仲間が、狩人の方々と殴り合っている。立ち上がって加勢すべきか、それとも、この席に座っているべきか。ドレスの膝の上で、握った拳が震えていた。
わたくしは、湯の残った急須を取った。
倒れた茶杯を起こして、残りのお湯を注ぐ。茶葉は、もう出がらしに近かった。それでも、湯気と一緒に、かすかに甘い香りが立った。
「どうぞ」
茶杯を、桃色の方の前に置いた。
「……え」
「お客様は、あなたお一人ですもの。冷めないうちに、召し上がってくださいませ」
桃色の方は、背後の乱闘と、目の前の茶杯とを、何度も見比べた。
それから、震える両手で、茶杯を包み込むように持ち上げた。
【コメント】お茶淹れ直した
【コメント】桃色さんにだけ
【コメント】お客様はあなたお一人
【コメント】これ、そういう意味だよな
【コメント】桃色さん、飲め、今すぐ飲め
【コメント】背後の仲間を見るな、お茶を見ろ
灯台の上から、しわがれた声が降ってきた。
「――うるせえぞ! 夜中に人の灯台の下で、何をやっとるか!」
見上げると、灯台のてっぺんの見張り台に、灯台守のお爺さんが身を乗り出していた。寝間着の上に、上着を引っかけている。手には、灯り用の油差し。丘じゅうを見下ろして、怒鳴っている。
丘のすべてが、その目の下にあった。
殴り合う東と西。押し寄せる見物の方々。人の塊の真ん中の、白い装甲の背中。
柔らかい目だった。
スタロ様が、こちらを振り返った。
兜の隙間が、わたくしの顔を見た。わたくしが、日傘を肩に預けたまま、ひどく静かに座っているのを。
港の船の前でも、丘の上の演説台の前でも、わたくしは、こうして静かにしていた。そのすぐ後に何が起きたかを、この方は、いちばんよくご存じだった。
「――おい。待て。俺、指さしてないぞ!」
「ええ。存じておりますわ」
――月明かりの芝生。もつれ合うドレスと革鎧。前へ詰める、無数の頭。
白。
スタロ様が、光の足場を、ほとんど蹴り砕くようにして、真上へ跳んだ。
丘が、卓を中心に、外へ向かってめくれ上がった。
芝生も、物干しざおも、短弓も、日傘も、詰めかけていた見物の方々の外套も、同じ白の中に呑まれて、夜空へ散っていった。丘の縁の、そのまた向こうの石段の途中まで。
卓のまわりの、半歩ぶんの円だけが、嵐の目のように静かだった。
卓布の上の、茶杯の湯気が、ゆらりと揺れただけだった。
光の粒が、昇っていった。
数えられないほどの数が、灯台の光の束を横切って、星の方へ。
【コメント】……
【コメント】……
【コメント】丘ごと
【コメント】見物人まで
【コメント】石段の途中まで届いてる
【コメント】三階の人、石段の途中って言ってなかった?
【コメント】古着屋の二階さんは丘の縁……
【コメント】スタロは!?
【コメント】跳んだ!上!
【コメント】桃色さん、無事!
【コメント】お茶飲んでる人だけ無事
灯台は、立っていた。
見張り台の上で、灯台守のお爺さんが、油差しを取り落として、手すりにしがみついていた。
上空から、光の足場の音が降りてきた。
たん、たん、と、ふらつくように。白い影が、卓から少し離れた、めくれた芝生の縁に降り立った。マントの裾が、また焦げていた。蛍光の線が、ひどく速く明滅している。
向かいの椅子で、桃色の方は、茶杯を両手で持ったまま、座っていた。
背後には、もう、誰もいなかった。お仲間のドレスも、狩人の方々の革鎧も、見物の方々も。めくれた土と、夜空へ昇っていく最後の光の粒だけ。
桃色の方は、ゆっくりと、茶杯に口をつけた。
「……お、美味しい、ですわ」
声が、震えていた。
「お口に合って、ようございましたわ」
【コメント】桃色さん、飲んだ
【コメント】美味しいですわ(震え声)
【コメント】仲間全員消えて、ひとりでお茶飲んでる
【コメント】これが、お嬢のお茶会
【コメント】古着屋の二階です 拠点です
【コメント】三階です 拠点です。石段の途中は射程でした
【コメント】被害者の会、本日の新規、数えるのやめた
スタロ様が、めくれた芝生を、大股で踏み越えてきた。
「……指、さしてないだろ」
「ええ。さしていらっしゃいませんでしたわ」
「さしてないのに、なんで撃つんだよ!」
「スタロ様が見分けて、指をさしてくださるまで、三十秒お待ちする。それが、お約束でしたわね」
「そうだよ!」
「けれど、今日は、指はささない、絶対にささない、とおっしゃいましたもの。ささないと決めていらっしゃる方を、三十秒お待ちしても、仕方ございませんでしょう?」
スタロ様の兜が、ゆっくりと、天を仰いだ。
「……俺が、ささないって言ったから、待つ理由がなくなったってことか」
「お約束は、ひとつも破っておりませんわ」
【コメント】約束の隙間
【コメント】指さす→撃っていい合図
【コメント】指ささないって宣言→待つ意味がない
【コメント】詰んでる
【コメント】スタロ、どうしたらいいんだ
【コメント】約束を足しても減らしても撃たれる男
「見物してただけの奴らまで、全員だぞ!」
「スタロ様」
わたくしは、ドレスの裾の、小さな染みに目を落とした。
それから、静かに顔を上げた。
「お茶会に、立ち見の席はございませんの」
スタロ様は、何も言わなかった。
焦げたマントの裾が、夜風に一度だけ揺れた。
【コメント】立ち見の席はございません
【コメント】こわ
【コメント】今日のお嬢、なんか静かに怒ってない?
【コメント】ドレスに染みつけられたからだろ
【コメント】ダブクロの特別枠、「負けない」の総取りだって
【コメント】ダブクロ、配信で大笑いしてる
【コメント】狩人の借金組、七日のうち一日、丸ごと消えたな
【コメント】守る会の生き残り、桃色さんひとりだけ
【コメント】守る会の掲示板、もう「狩人のせいで」って荒れてる
【コメント】狩人側は「ですわ女どもが邪魔したせいで」って
【コメント】どっちも、お嬢のせいとは言えないんだよな




