第76話閑話 帳面の端に、書いておく
☆ 露店の薬売り視点 ☆
丘の石段の下で店を出すようになって、四日目になる。
灯台の丘から、店ごと引っ越してきたわけではない。折りたたみの台と日よけの布を、背負子に括って運んできただけだ。演説会で台が吹き飛んだ日、怪我をした人たちが、回復薬を探して石段を下りてきた。そのとき、ここで瓶を並べていたのは、わたしだけだった。
それから、なんとなく、ここにいる。
値札は、相変わらず全部手書きだ。
表に値段。裏に、その瓶のことを全部。それから、右下の隅に、小さく自分の名前を書く。琴音。誰も読まない場所だけれど、書かないと、どの瓶が自分の手で煮詰めたものなのか、分からなくなる気がする。
日が落ちて、石段を下りてくる人も、まばらになった。
わたしは、売れ残った瓶を木箱に戻しながら、帳面を開いた。
*
今朝、あのお嬢様が、わたしの店の前を通った。
雑貨屋の子と一緒だった。雑貨屋の子が石段を上っていって、お嬢様は、それを下から見送っていた。その前に、わたしの台の前で、ほんの少しだけ足を止めた。
値札を見ていた。
それから、わたしに向かって、軽く会釈をした。
おはようございます、と言おうとした。
喉の奥で、声が消えた。いつものことだ。口が、言葉の形に開いただけで、何も出てこなかった。わたしは、黙って頭を下げた。お嬢様は、もう石段の方を向いていた。
帳面の端に、書く。
――お嬢様。値札を見ていた。表だけ。
裏まで読んでくれる人は、少ない。
それでいいと思っている。思っているのに、少しだけ、悔しかった。
*
お昼前に、賭場の人が石段の下を通っていった。
金色のサイコロを、指でずっと転がしている人だった。宙のどこかに向かって、ずっと喋っている。配信者なのだろう。何もない宙に向かって、楽しそうに、身振り手振りで。
その人が、店の前で、ふと立ち止まった。
「回復薬? へえ、手書きの値札。いいね、こういうの」
わたしは、頷くことしかできなかった。
その人は、値札を裏返しもせずに、赤い瓶を一本、ひょいとつまんで、代金を台に置いた。それから、サイコロを指で弾いた。
弾く直前。
その人の目が、一瞬だけ、遠くなった。
わたしの顔を見ているのに、見ていない。どこか別の場所を、ほんの一拍だけ、覗き込んでいるような。それから、目が戻ってきて、サイコロを宙で掴んで、にっと笑った。
「ありがと。またね」
帳面に、書く。
――サイコロの人。弾く前、目が遠くなる。一拍。
何のことかは、分からない。
ただ、気になったことは、書いておく。灯台の丘で、お嬢様の目が五回揺れたのを書いたときと、同じように。
*
お昼を過ぎて、雑貨屋の子が、ひとりで石段を下りてきた。
投票を済ませてきたのだろう。結い直した髪が、少しだけほつれていた。わたしの台の前で足を止めて、赤い瓶の値札を手に取った。
表を見て、それから、裏返した。
裏を、最後まで読んでいた。
煮詰める順番も、効きはじめるまでの拍の数も、冷やすと少し味が良くなることも。最後の「お大事に」まで、目が下りていくのが分かった。
「……字、きれいだね」
雑貨屋の子は、そう言って、値札を元の場所に戻した。瓶は買わなかった。
わたしは、頷いた。何か言いたかったけれど、やっぱり、声は出なかった。雑貨屋の子は、気にした様子もなく、小さく手を振って、坂の方へ下りていった。
帳面に、書く。
――雑貨屋の子。裏まで、読んでくれた。
帳面を、何枚か戻した。
二日前の頁を開く。串屋の旦那が、丘の上で演説をした日。
あの日、わたしは今日と同じように、石段の下に店を出していた。
正午の鐘が鳴って、石段を上っていく人の流れが、ぱったりと止んだ。皆、もう丘の上の広場に着いて、演説を聞いているのだろう。わたしは、台の前で、坂の方をぼんやり眺めていた。
坂の角には、串屋の屋台がある。
朝、店を出しに石段まで来るときに、その屋台の前を通った。焼き台の前に、雑貨屋の子が立っていた。前掛けを締めて、団扇を握って、心細そうな顔で。串屋の旦那の代わりに、屋台の番をしているらしかった。
その屋台が、正午を少し過ぎたころ、空っぽになっていた。
焼き台の炭が、赤くくすぶっているのが、遠くからでも見えた。串が何本か、網の上に載ったままだった。暖簾だけが、風に揺れていた。
しばらくして、坂の下から、雑貨屋の子が駆け上がってきた。
港の方からだった。
炭の袋を、両腕で抱えていた。息を切らして、髪が少しほどけていた。屋台に飛び込んで、焼き台の網の上を見て、あっ、と小さく声を上げたのが、ここまで聞こえた。
炭が切れたのだろう、と思った。
港の炭屋まで、走って取りに行ったのだろう。その間に、串が焦げた。それだけのことだ。
あの日の頁には、こう書いてある。
――演説の日。正午の鐘のすこしあと。串屋の屋台、だれもいない。雑貨屋の子、港の方から。炭の袋。走ってた。
その下に、あとから、もう一行。
次の日の夜、配信で、鐘楼の映像を見てから、書き足した行だ。
――鐘楼に仮面が出たのも、正午のすこしあと。
わたしは、その一行を、しばらく眺めていた。
時刻が、重なっているだけだ。
港は広い。鐘楼のある波止場と、炭屋のある通りは、たぶん、全然違う場所だ。雑貨屋の子が、炭の袋を抱えて走っていた。それだけのことだ。
分かっている。
消そうか、と思った。
筆の先を、その一行の上に持っていった。
消さなかった。
消す理由が、見つからなかったからだ。気になったことは、書いておく。書いたことは、消さない。わたしは、ずっとそうしてきた。
帳面を閉じた。
*
日が落ちきったころ、丘の上から、人が大勢下りてきた。
開票が終わったらしい。串屋の旦那が勝ったのだと、すれ違う人たちが口々に言っていた。それから、別の話もしていた。
賭場の人が、お嬢様に、賞金をかけたのだと。
「――乗った。負ける方に張る。被害者の会、全員で張るぞ」
「お前、張るだけじゃなくて、自分で狩りに行く気か?」
「行かねえよ。行ったら、また吹っ飛ばされる。誰かが仇を取ってくれりゃ、それで儲かるんだ」
「だよな」
笑いながら、石段を下りていく人たちがいた。
その中の何人かが、わたしの台の前で足を止めて、赤い瓶を、二本、三本とつまんでいった。
「念のため。な」
「そうそう、念のため」
わたしは、黙って代金を受け取った。
台の上の赤い瓶が、また、減っていく。
灯台の丘で、回復薬が完売した日のことを思い出した。
あのときも、こんなふうに、売れていくのを、うまく喜べなかった。
残った瓶を、木箱にしまう。
新しい値札を、何枚か書き足しておくことにした。表に値段。裏に、その瓶のことを全部。最後の行に、いつもと同じ言葉。
――お大事に。
右下の隅に、小さく、琴音、と書いた。




