第74話三十秒、差し上げますわ
港の裏の路地は、すぐに見つかった。
倉庫と倉庫のあいだの、日の当たらない細い道。その奥に、人が並んでいた。
前掛けの方。杖をついた方。赤子を背負った方。皆、うつむき加減で、少しずつ前へ進んでいく。列の先には、空き樽を三つ並べた即席の机があって、男の方が四人、その向こうに陣取っていた。
一人が帳面をめくり、並んだ方の名を書きつける。
一人が、足もとの木箱から銀貨を一枚つまみ出して、その手に握らせる。
残りの二人は、腕を組んで、列を眺めていた。
「関谷に一票。忘れんなよ。忘れたら、帳面見て取り立てに行くからな」
【コメント】ほんとにやってる
【コメント】列、何十人いるんだよ
【コメント】票の買い取り所
【コメント】帳面に名前書かせて、取り立てで脅してるのか
【コメント】並んでる人たち、みんな貧しそう
【コメント】銀貨一枚で票を売るのか……
樽の机の脇の、積み上げた木箱の上で、灰色の猫が一匹、丸くなっていた。
列にも、銀貨にも、興味がなさそうだった。ときどき片目を開けて、机の上の帳面をちらりと見ては、また閉じる。
わたくしは、路地の入口で日傘を傾けた。
お金で、票をお買いになる。
それは、間違いなく、悪い方のなさることだった。
では、お売りになる方は。
列の先頭で、赤子を背負った女の方が、銀貨を受け取っていた。その手が、少しだけ震えていた。後ろの杖のお爺さんは、何度も帳面を覗き込んで、自分の名前の字を確かめていた。
お困りなのだろう。銀貨一枚が、今日の糧になるのだろう。
けれど、ご自分の一票を、銀貨一枚でお売りになるのも。
やはり、悪い方のなさることだ。
「スタロ様は」
わたくしは、港の空を見上げた。
光の足場は、どこにも灯っていなかった。
【コメント】スタロは?
【コメント】さっき東の外れで長屋の瓦礫片付けてるの見た
【コメント】今日もいない
【コメント】三十秒くるぞ
【コメント】待って、並んでる人たちもいるんだぞ
【コメント】お嬢、列の人たちの方も見てる
路地の奥へ、一歩踏み込んだ。
列の最後尾の方が、振り返って、わたくしの日傘を見て、それから、息を呑んだ。
「ごきげんよう、皆様」
列の全員が、こちらを向いた。樽の向こうの四人も。
わたくしは、日傘を胸の前に立てて、軽く膝を折った。
「お金で票をお買いになるのも、お売りになるのも、悪い方のなさることですわ。……ですから、三十秒、差し上げますわ」
路地が、しんと静まった。
「銀貨をお返しになって、お帰りになる方は、どうぞ。――いち」
【コメント】は?
【コメント】猶予
【コメント】三十秒を、猶予に使った
【コメント】返したら見逃すってこと!?
【コメント】みんな、返せ!返して帰れ!!
【コメント】お嬢の三十秒、いつもと使い方が違う
「――に。さん」
最初に動いたのは、赤子を背負った女の方だった。
握っていた銀貨を、樽の机の上に叩きつけるように置いて、路地の入口の方へ、わたくしの横をすり抜けていった。背中の赤子が、わたくしの日傘の房を、小さな手でつかもうとした。
「――し。ご」
杖のお爺さんが、続いた。
それから、前掛けの方々が、ひとり、またひとり。銀貨が樽の上に、ちゃりん、ちゃりんと積み上がっていく。
「おい、待て! 帳面に名前書いただろうが!」
樽の向こうの男の方が怒鳴った。
列の方々は、振り返らなかった。帳面よりも、わたくしの日傘の方が、怖いようだった。
「――じゅう。じゅういち」
【コメント】みんな逃げてく
【コメント】銀貨返してる
【コメント】よかった……
【コメント】帳面の脅しより、お嬢の方が怖い
【コメント】そりゃそうだ
十五を数えるころには、列はほとんど残っていなかった。
残っていたのは、三人だけだった。
腕を組んで、こちらを睨んでいる、若い男の方が三人。銀貨を握った手を、背中に隠すようにして。
「……どうせ、はったりだろ。こんな路地で、お前が撃てるもんか。机の連中まで巻き込むぞ」
「――にじゅう」
「おい、聞いてんのか」
「――にじゅういち」
樽の向こうの四人が、顔を見合わせた。
帳面係の男の方が、帳面を抱えて、そろそろと後ずさろうとした。けれど、その背中は、倉庫の壁に当たって止まった。路地は、奥で行き止まりだった。
【コメント】残った三人、粘るな
【コメント】机の四人、逃げ場なくなってる
【コメント】路地、行き止まりかよ
【コメント】帳面係、帳面抱えたまま壁にぶつかった
【コメント】はったりだと思ってる人、初見か?
「――にじゅうきゅう」
木箱の上の、灰色の猫が、片目を開けた。
樽の机も、帳面も、銀貨の木箱も、粘る三人の背中も、全部、ちょうどその片目の中に収まっていた。
猫の目は、驚くほど、柔らかかった。
「――さんじゅう」
――積み上がった銀貨。帳面の白い紙。七つの肩。
白。
路地の両側の倉庫の壁が、いっせいに外へ膨らんだ。樽の机が宙を舞い、銀貨の木箱が、蓋を開けたまま、倉庫の屋根の向こうの海へ向かって飛んでいった。帳面の紙が、一枚残らず、細かな白い雪になって、路地じゅうに降ってきた。
光の粒が、七つ。
倉庫の屋根の上の空へ、昇っていった。
積み上げた木箱だけが、ひとつ、路地の真ん中に残っていた。
その上で、灰色の猫が、毛を逆立てて、目をまんまるにしていた。
【コメント】
【コメント】猫ーーー!
【コメント】猫だけ無事
【コメント】また真ん中に一匹だけ残ってる
【コメント】銀貨、海に飛んでった
【コメント】帳面、紙吹雪になった
【コメント】これで誰が票を売ったか、誰にも分からなくなったな
【コメント】取り立ても脅しもできない
【コメント】……結果的に、売った人たちが一番助かってないか?
わたくしは、路地に降る紙の雪の中を、木箱の前まで歩いていった。
猫は、毛を逆立てたまま、わたくしを見上げていた。
「驚かせてしまいましたわね。ごめんなさい」
手を伸ばすと、猫はふいと顔を背けて、木箱から飛び降り、倉庫の隙間へ消えていった。
【コメント】猫にも嫌われた
【コメント】そりゃそうだろ
【コメント】ダブクロの配信、今めっちゃ荒れてるぞ
【コメント】仕込みが吹っ飛んだって大騒ぎ
【コメント】視聴者が「全額張った隊長の票、消えた」って
【コメント】でも本人、笑ってるんだよな
【コメント】「やるじゃん、お嬢様」って言ってた
【コメント】笑ってるの、逆にこわい
路地の入口の方を振り返った。
さっき逃げていった方々が、何人か、角の向こうから、恐る恐るこちらを覗いていた。赤子を背負ったあの女の方も。
「皆様。銀貨は、お返しになりましたわね」
女の方は、こくこくと、何度も頷いた。
「でしたら、皆様は、悪い方ではございませんわ。……どうぞ、丘の上へ。投票は、まだ締め切られておりませんもの」
女の方は、しばらく、わたくしの顔を見ていた。
それから、赤子を背負い直して、丘の方角へ、走っていった。




