第71話串屋の旦那の、お話ですわ
翌日の正午も、議事堂前の広場は人でいっぱいだった。
昨日よりも、多いくらいだった。前掛けのおかみさん方、港の日雇いの方々、杖をついたお爺さん。北の長屋のあの女の方も、子どもを抱いて来ていた。白い石段を、皆で手を引き合って上ってきたのだろう。
吹き飛んだ演説台の背板も、折れた柱も、もう元通りになっていた。柱の天辺の硝子の目も、何事もなかったように首を振っている。昨日の土ぼこりの名残は、白い石畳のどこにも見当たらなかった。
【コメント】こんにちは
【コメント】今日は串屋の番
【コメント】昨日より人多くない?
【コメント】柱も台も、もう戻ってる
【コメント】一日経てば、何もなかったことになるんだよな
【コメント】油壺の三人も、そろそろ戻るころか
小夜さんは、来ていなかった。
今朝、坂の屋台に寄ったら、小夜さんが前掛けを締めて、焼き台の前に立っていた。演説のあいだ、屋台の番を頼まれたのだという。「串、焦がしたら怒られるかな」と、心細そうに団扇を握っていた。
人垣の中ほどで、北の長屋の女の方が、隣のおかみさんと小声で話しているのが聞こえた。
「……昨日の油壺の子ら、うちの並びの子らなんだよ」
「ほんとかい」
「関谷の旦那が勝ったら、長屋ごと潰されるって。どこで聞いてきたんだか、そんな噂。それで怖くなって、あんな真似を」
女の方は、腕の中の子どもを抱き直した。
「串屋の旦那がね、ゆうべ、一軒ずつ回ってくれたんだよ。うちにも来た。それから、その足で関谷の旦那のとこにも串を持ってったって。今朝は朝いちばんで、ここの役人さんに頭下げに来たらしいよ。和解派の人間がやったことだから、って」
【コメント】油壺、和解派側だったのか
【コメント】長屋の若い衆か……
【コメント】関谷はそんなこと一言も言ってないのにな
【コメント】噂って、誰が流したんだ
【コメント】鈴村さん、夜は長屋を回って、関谷に串持ってって、朝は上層に頭下げに行ったの?
【コメント】働きすぎでは
【コメント】この人、いつ寝てるんだ
石段の上の方に、灰色の制服の方が立っていた。
あの、背の高い女の方だった。硝子の板を胸に抱えて、広場を見下ろしている。その少し下の段で、前掛けをした鈴村さんが、深々と頭を下げていた。
女の方の声は、ここまでは届かなかった。
ただ、唇の形だけが見えた。以上です、と言ったように見えた。
鈴村さんは、頭を上げなかった。
女の方が踵を返して、議事堂の中へ消えていくまで、ずっと、そのままだった。
【コメント】上層の人に頭下げてる
【コメント】「以上です」で終わらされてる
【コメント】それでも頭上げないの、すごいな
【コメント】自分がやったわけでもないのに
正午の鐘が、丘の下から上ってきた。
鈴村さんは、前掛けを外して、きちんと畳んで、台の脇に置いた。それから、ゆっくりと台に上った。
議事堂の黒い板に、鈴村さんの姿が大きく映った。
「坂の角で、串屋をやっております、鈴村です」
いつもの、穏やかな声だった。屋台の向こうで、炭をあおぎながら話すときと、少しも変わらない。
「まず、お詫びを申し上げます。昨日、この広場で、関谷さんのお話を壊したのは、私たちの側の若い者でした。和解だ、共存だと言っている私たちの側から、ああいうことをする者が出た。……私の、力不足です」
鈴村さんは、台の上で、もう一度頭を下げた。
広場の最前列に、羽織姿の関谷様が座っていた。まだ時々、耳の後ろを気にするように手をやっている。関谷様は、黙って、台の上の鈴村さんを見上げていた。
【コメント】最前列に関谷いる
【コメント】対立候補の演説、聞きに来てるのか
【コメント】鈴村さん、最初に謝った
【コメント】自分の陣営の不始末を、自分から
【コメント】これはずるい、好感度上がるやつ
【コメント】ずるいって言うな、たぶん本気だぞ
「長屋の若い者たちは、怖かったのだと思います。家を追われるかもしれない、と。怖がった人間は、刃物を抜きます。油壺も持ちます。……それは、組の若い衆も、同じです」
広場が、しんとなった。
「私は、怖がらせない街にしたい。組の人間も、荷主の旦那衆も、長屋の子どもも、同じ港で荷を担いで、同じ屋台で串を食べる。それだけの街です。大それたことは、申し上げられません。串屋ですので」
鈴村さんは、少しだけ笑った。
広場のあちこちから、くすりと笑い声が漏れた。
わたくしは、日傘の柄を握ったまま、台の上の鈴村さんを見ていた。
なんて、良いお話だろう。
関谷様の「できないことは約束しない」も、素敵だった。鈴村さんの「怖がらせない街」も、素敵だった。どちらがよいのか、わたくしには、やはり決められそうになかった。
【コメント】いい演説だ
【コメント】大それたことは申し上げられません、串屋ですので
【コメント】昨日の関谷と、言ってること真逆なのに、どっちも刺さる
【コメント】おい、それより
【コメント】港!
【コメント】港の鐘楼の上
【コメント】仮面いるって
【コメント】考察配信のクマのおっさんが、今、港から生で映してる
【コメント】カンパネッロだ
人垣の後ろの方で、誰かが、宙を見つめたまま声を上げた。
「おい、港の鐘楼に、仮面のやつが出てるってよ。考察配信のおっさんが、生で映してる」
何人かが、振り返った。
【コメント】ほんとだ、鐘楼のてっぺんに立ってる
【コメント】黒い外套、のっぺりした仮面
【コメント】おっさん「憶測じゃなくて、今そこにいる」って震え声
【コメント】鐘の人が、鐘楼に
【コメント】洒落てんのか
【コメント】何しに出てきたんだ、今
【コメント】選挙の日に港で何か起こす気か
【コメント】お嬢、港!港!
わたくしは、首を傾げた。
港の鐘楼は、ここからは見えない。丘の上の広場からは、白い建物と、硝子の柱と、その向こうの空しか見えなかった。
そして、台の上では、鈴村さんのお話が、まだ続いていた。
「――ですから、もし私に、皆さんの代わりに上へ物を言う役目をいただけるなら」
「まあ」
わたくしは、振り返った方々から目を離して、台の上に向き直った。
「鈴村さんのお話の最中ですのに。無粋な方ですわね」
【コメント】無粋で片付けた
【コメント】カンパネッロより演説優先
【コメント】お嬢、鈴村さんの話はちゃんと聞くんだよな
【コメント】あ、引っ込んだ
【コメント】鐘楼の中に降りたっぽい
【コメント】おっさん「……中に入った。ここからじゃ見えん。誰か近くにいないか」
【コメント】港の人足が何人か駆け上がったけど、鐘楼の中、もう空っぽだって
【コメント】裏の階段から路地に抜けたんだろ
【コメント】あの辺、昼は人足だらけだぞ 紛れたら分からん
【コメント】何もせずに帰った?
【コメント】ほんとに何しに出てきたんだ
「――私は、精一杯、串を焼くように、務めさせていただきます」
鈴村さんは、そう言って、台の上で深く一礼した。
拍手が起こった。
最初は、最前列の方から。前掛けのおかみさん方が、長屋の女の方が、それから、仕立ての良い上着の旦那衆の何人かまでが、手を叩いていた。
最前列の関谷様も、手を叩いていた。
大きくはない、けれど、一度も止まらない拍手だった。
【コメント】関谷も拍手してる
【コメント】対立候補に拍手する対立候補
【コメント】この選挙、候補者が二人とも人格者なの何なんだ
【コメント】治安派の旦那衆まで拍手してる
【コメント】これ、串屋勝つんじゃないか
わたくしも、日傘を小脇に抱えて、手を叩いた。
小夜さんにも、聞かせて差し上げたかった。
坂へ戻ったら、焦げた串がいくつあったか、伺うついでに、今日のお話を、一から十までお伝えしよう。




