第70話指をさしていただきましたもの
正午の鐘が、丘の下から上ってきた。
議事堂前の広場には、思っていたよりもずっと大勢の方が集まっていた。荷主の旦那衆、問屋の番頭、魚市場の仲買人。長い石段を上ってきたのだろう、皆、少し息を切らしている。白い石畳の上で、下町の色の着物と前掛けが、ひどく浮いて見えた。
広場の真ん中に、木の演説台がひとつ。その後ろに、議事堂の白い階段がそびえている。
【コメント】こんにちは
【コメント】人多い
【コメント】下町の人、わざわざ丘まで上ってきてる
【コメント】白い広場に前掛けの集団、絵面が強い
【コメント】お嬢、ほんとに来た
【コメント】隊長、逃げて(二回目)
演説台に、関谷様が上った。
衛兵の兜も槍もなく、洗いざらしの羽織だけ。目の下の隈は、詰所の前で見たときよりも、また少し濃くなっていた。
「港の衛兵隊を預かっている、関谷だ。演説というのは、柄じゃない。だから、短く言う」
議事堂の正面の黒い板に、関谷様の姿が、大きく映し出された。
どこから写しているのかは分からない。けれど、板の中の関谷様は、台の上の関谷様と寸分違わず、同じ瞬間に、同じ口を動かしていた。板の隅には、小さな画がいくつも並んでいる。広場を、それぞれ別の角度から見下ろした画。柱の上の硝子の目が見ているものなのだろう。
【コメント】でかいモニター
【コメント】生中継だ
【コメント】下町の詰所の板にも同じの映ってるらしい
【コメント】隅の小窓、監視カメラの映像か
【コメント】上層、選挙の演出にまで金かけてる
「港の荒事は、取り締まる。誰であろうと、だ。組の者でも、荷主の身内でも、港を閉めさせる真似をした者は、捕まえる。……それ以上のことは、言えん。できないことは、約束しない」
広場が、少しざわついた。
拍手をする方もいた。首をかしげる方もいた。
「それだけか」と、誰かが言った。
「それだけだ」と、関谷様は答えた。
【コメント】ほんとに短い
【コメント】できないことは約束しない
【コメント】政治家に向いてなさすぎる
【コメント】でも、俺は好きだぞこういうの
【コメント】詰所の前の「決まりの味方」から一ミリもぶれてない
わたくしは、人垣のいちばん後ろで、日傘を傾けて聞いていた。
なんて、筋の通った方だろう。
応援の声を上げようとして、詰所の前で黙っていてくれと言われたことを思い出して、やめた。今日は、拍手だけにしておこう。
手を打ちかけたとき、黒い板の隅の、小さな画のひとつが目に入った。
演説台の、裏側だった。
台の背板と、議事堂の階段のあいだの、細い隙間。広場からは、台に隠れて見えない場所。
そこに、男の方が四人、しゃがみ込んでいた。
手に、素焼きの壺を抱えている。壺の口から、布の紐が一本、垂れていた。
一人が、火打ち石を取り出した。
【コメント】ん?
【コメント】隅の画、なんか映ってない?
【コメント】台の裏に誰かいる
【コメント】壺持ってる
【コメント】油壺だ
【コメント】倉庫の夜討ちのときのやつ
【コメント】演説台ごと燃やす気だ
【コメント】誰か気づけ!!
広場の誰も、板の隅など見ていなかった。
皆、台の上の関谷様を見ていた。
――いいえ。ひとり、見ていた。
人垣の向こう、議事堂の階段の脇の柱のそばに、白い影が立っていた。
光の足場の音もなく、いつの間にか、そこにいた。白い装甲に、蛍光の線。胸の真ん中で、星の形の光が、ぼんやりと灯っている。
スタロ様の兜が、黒い板の隅の画に、まっすぐ向いていた。
それから、装甲の腕が上がって、その画を、真っ直ぐに指さした。
「――演説台の裏だ! 油壺、四人!」
【コメント】スタロいた!
【コメント】気づいた!
【コメント】指さした
【コメント】走れスタロ!
【コメント】待って
【コメント】指さした、って
【コメント】あ
指を、さしていただいた。
わたくしは、黒い板の隅の、小さな画を見つめた。
乗り場で初めて硝子の目を見たとき、それは、硝子窓越しに誰かの背中を眺めているような心地だった。手を伸ばしても、硝子に触れるだけで、その先には何もない。
けれど、今は違った。硝子の向こうに、しゃがみ込んだ男の方の背中がある。その中の、いちばん後ろの方。壺を抱えた仲間たちの背中を、肩越しに見下ろしている方。
硝子越しでも、その目は、ちゃんと柔らかかった。
――素焼きの壺。垂れた布の紐。火打ち石を構えた手。三つの背中。
白。
広場の空気が、いっぺんに裏返った。
演説台の背板が、議事堂の階段に向かって吹き飛んだ。台の上の関谷様が、前のめりに、台の縁から広場の石畳へ転げ落ちる。階段の脇の柱が、根元から折れて、天辺の硝子の目ごと、白い石段の上を転がり落ちていった。
黒い板の隅の、小さな画がひとつ、ふっと暗くなった。
光の粒が、三つ。
白い円屋根の上の空へ、ゆっくりと昇っていった。
【コメント】
【コメント】撃った
【コメント】板見てただけなのに、台の裏が吹き飛んだ
【コメント】え、今の、板の中の奴を……?
【コメント】いや偶然だろ、台の裏で油壺に火が入ったんだろ
【コメント】それにしてはタイミングが
【コメント】関谷、台から落ちた!
【コメント】生きてる、起き上がった
【コメント】カメラの柱、折れて階段転がってった
【コメント】上層のカメラ壊したぞ
広場じゅうが、悲鳴と土ぼこりでいっぱいになっていた。
前掛けの方々が、石段の方へ我先に逃げていく。仕立ての良い上着の方々が、尻もちをついたまま後ずさっていく。
白い影が、光の足場を二つ踏んで、演説台の裏へ降り立った。
しばらく、そこから動かなかった。
台の裏の隙間には、男の方がひとりだけ、壺を抱えたままへたり込んでいた。いちばん後ろにいた方。壺の口の布の紐は、火のつかないまま、だらりと垂れていた。
スタロ様は、その男の方の手から、壺を取り上げた。
それから、ゆっくりと振り返って、人垣のいちばん後ろの、わたくしの方を向いた。
「……お前」
「ごきげんよう、スタロ様。お約束どおりですわ」
「どこがだ!」
「スタロ様が指をさしてくださったら、その方だけを撃つ、というお約束でしたわね。指をさしていただきましたもの」
「俺が指さしたのは、止めに行くって意味だ!」
「まあ。それでしたら、そうおっしゃってくださいませ」
【コメント】wwww
【コメント】約束、成立してた
【コメント】「見分けて指さしたら、そいつだけ撃て」って、確かにスタロが言ってた
【コメント】乗り場の瓦礫の前で約束してたやつだ
【コメント】スタロ、自分の約束に刺された
【コメント】ルールを足すたびに、そのルールで撃たれていく
【コメント】そいつだけ(台ごと)
「そいつだけって言っただろ! 台も! 柱も! 関谷さんも!」
「指をさされた方々だけを、狙いましたわ。台と柱と関谷様は、近くにいらしただけです」
「近くにいらしただけで台から落ちてんだよ!」
石畳の上で、関谷様が、ゆっくりと身を起こした。
羽織は土ぼこりで真っ白だった。耳の後ろを押さえて、何度か頭を振る。それから、台の裏の、へたり込んだ男の方と、壺と、スタロ様と、そして、わたくしを、順番に見た。
「……お嬢さん」
「はい」
「応援、だったか」
「ええ。拍手だけにしておこうと、思っておりましたのに」
関谷様は、何も答えなかった。
土ぼこりの舞う広場の真ん中で、ただ、長い、長い息を吐いた。
議事堂の黒い板の上では、暗くなった小さな画の隣で、残りの硝子の目たちが、何事もなかったように、首を振り続けていた。




