第69話丘の上は、ずいぶん白いのですわね
坂の角の屋台で、いつもの丸椅子に腰かけて朝の串を待っていると、屋台の前に、小さな行列ができはじめた。
串を待つ列ではなかった。長屋のおかみさん方、港の日雇いの方々、杖をついたお爺さん。皆、一枚の板を順番に受け取って、そこに何かを書きつけては、次の方へ回している。
板には、紙が一枚貼ってあった。いちばん上に、太い字で。
――串屋の旦那を、代表に。
【コメント】おはよう
【コメント】署名集めてる
【コメント】和解派、本気だ
【コメント】紙、もう余白がない
【コメント】字が書けない人は丸だけ書いてる
最後に板を受け取ったのは、北の長屋の、あの女の方だった。
腕の中の子どもに筆を握らせて、その小さな手ごと包むようにして、丸をひとつ書き入れる。それから、板を両手で持って、焼き台の前まで歩いていった。
「……旦那。頼むよ」
鈴村さんは、串を返す手を止めた。
差し出された板を、しばらく黙って見下ろしていた。隙間なく埋まった名前と、丸と、いちばん下の、子どもの手の、歪んだ丸を。
「私は、ただの串屋ですよ」
「知ってるよ。だから頼んでるんだ」
女の方は、板を引っ込めなかった。
鈴村さんは、前掛けで手を拭いて、それから、ゆっくりと板を受け取った。
「……皆さんが、そこまでおっしゃるのでしたら」
屋台の前で、小さな歓声が上がった。
【コメント】受けた
【コメント】串屋、立候補
【コメント】ただの串屋(候補者)
【コメント】あの母ちゃんが最後の一押しか
【コメント】子どもの丸で泣いた
わたくしは、小さく手を叩いた。
隣で串を齧っていた小夜さんも、遅れて手を叩いた。
「鈴村さんが代表になられたら、きっと、良い街になりますわね」
「……うん。まあ、たぶん」
鈴村さんが、板を屋台の柱に立てかけて、こちらを向いた。
「小夜さん。ひとつ、お使いを頼めますか」
「いいけど、何」
「立候補の届けを、官庁街の議事堂まで。今日のうちに出さないと、間に合わないそうなのです。私は、屋台を空けられませんので」
鈴村さんは、懐から封をした書状を一通取り出して、小夜さんに手渡した。
小夜さんは、それを受け取って、困ったように眉を下げた。
「官庁街、行ったことないんだよね。丘の上でしょ。道、分かるかな」
「でしたら、わたくしがご一緒いたしますわ」
【コメント】お嬢、同行
【コメント】官庁街にお嬢を連れていくのは
【コメント】上層の出先に爆弾を持ち込むようなもの
【コメント】鈴村さん、止めて
【コメント】止めないんだよなあ、この人
*
坂を上りきって、さらにその先の、長い石段を上った。
石段の途中で、足もとが変わった。
踏みしめていた、角の欠けた古い石が、ある段から先、継ぎ目のない白い石に変わったのだ。磨かれたように滑らかで、靴音がまるで響かない。
上りきると、街の色が変わっていた。
白かった。
道も、壁も、柵も。並んだ建物は、どれも白い石と硝子でできていて、窓という窓に、青白い光が灯っている。昼間なのに。道の両脇には、細い硝子の柱が等間隔に立っていて、その天辺で、丸い硝子の玉が、ゆっくりと首を振っていた。
「……目、ですわね」
「え?」
「いいえ、何でも」
乗り場で見たのと同じ、赤い光の灯った硝子の玉。
それが、ここでは、柱という柱の上に載っている。
【コメント】官庁街だ
【コメント】白っ
【コメント】下町と完全に別世界
【コメント】SF側だ
【コメント】監視カメラ多すぎ
【コメント】乗り場に一個あっただけで騒いでたのに、ここは柱ごとに一個
【コメント】ここ、上層の出先だからな
通りの入口に、硝子の門があった。
扉はない。ただ、二本の硝子の柱が立っていて、その間を、薄い光の膜が張っている。
小夜さんが、門の前で足を止めた。
「……これ、通っていいの?」
「門ですもの。通るためにあるのですわ」
わたくしが先に膜をくぐると、柱の内側で、澄んだ短い音がひとつ鳴った。
『下町区域よりの来訪者。プレイヤー。入場を許可します』
抑揚のない、女の方の声だった。どこから聞こえたのかは、分からなかった。
小夜さんは、竹籠を胸に抱えて、目をつぶって膜をくぐった。
『下町区域住民。入場を許可します』
「……わたし、今、住民って呼ばれた」
「住民でいらっしゃいますもの」
「なんか、言われると変な感じ」
【コメント】門がしゃべった
【コメント】プレイヤーとNPCを判別してる
【コメント】小夜ちゃん、目つぶって通るのかわいい
【コメント】竹籠抱えて硝子の街歩いてるの、絵になる
【コメント】完全におのぼりさん二人
*
議事堂は、通りの突き当たりにあった。
白い石の階段が、広場から真っ直ぐに伸びている。階段の上には、硝子の円屋根を載せた建物。正面の壁に、大きな黒い板がはめ込まれていて、白い光の文字が流れていた。
広場の柱にも、やはり、首を振る硝子の目。
受付は、建物に入ってすぐのところにあった。
灰色の制服の若い男の方が、硝子の板の向こうに座っていた。小夜さんが差し出した書状を受け取ると、封を切らずに、硝子の板の上に載せる。書状の上を、青い光の線が一度、すうっと撫でていった。
「下町区域代表選、立候補届。鈴村。受理しました」
それだけだった。
「……もう、終わり?」
「終わりです」
「もっと、こう、書いたり、判子押したりとか」
「終わりです」
小夜さんは、書状を手放したばかりの自分の手を、しばらく眺めていた。
【コメント】一瞬で受理
【コメント】下町の役所なら半日かかるやつ
【コメント】小夜ちゃん、拍子抜けしてる
【コメント】お使い、十秒で終わった
建物を出ると、正面の黒い板の文字が、ちょうど組み変わったところだった。
――下町区域代表選。候補者、関谷。鈴村。
――演説会。明日正午、関谷。明後日正午、鈴村。会場、議事堂前広場。
――投票、四日後。
「まあ。関谷様も、もうお名前が」
「隊長さん、仕事早いね」
「明日の正午でしたわね、関谷様の演説会」
「……行くの?」
「ええ。応援に参りますわ。昨日は、黙っていてくれと言われてしまいましたけれど、明日は演説会ですもの。皆様で、声を上げる場でしょう?」
小夜さんは、黙って、広場の柱の上の硝子の目を見上げた。
硝子の目は、ゆっくりと首を振って、ちょうど、わたくしたちの方を向いたところだった。
【コメント】来るな
【コメント】関谷の演説会にお嬢が応援に行く
【コメント】一番まずい応援、二回目
【コメント】隊長、逃げて
【コメント】監視カメラの向こうの人も、今の聞いてたんだろうな
*
帰りの石段を下りきると、足もとは、また角の欠けた古い石に戻った。
石段の下で、誰かが、通りがかりの方々に紙を配っていた。
仕立ての良い上着の、若い男の方。一昨日の夜、北の長屋の前で、火の消えた松明を握って立ち尽くしていた、あの若旦那だった。牢から出てきたのは、今朝のことらしい。手にした紙には、関谷様のお名前と、「港に秩序を」という大きな字が刷ってあった。
「ごきげんよう。関谷様の、お手伝いですの?」
若旦那が、こちらを向いた。
顔から、血の気が引いていった。
「明日の演説会、わたくしも応援に伺いますわね」
紙の束が、手から滑り落ちた。
石段の下の古い石の上に、関谷様のお名前が、いっせいに散らばった。
若旦那は、返事をしなかった。
散らばった紙を一枚も拾わずに、くるりと背を向けて、坂の方へ早足で去っていった。
「まあ。お忙しい方ですのね」
わたくしは、足もとに落ちた一枚を拾い上げて、きれいに皺を伸ばした。
港に秩序を。素敵な言葉だった。
【コメント】若旦那、全力で逃げた
【コメント】トラウマになってる
【コメント】「応援に伺いますわ」が死刑宣告に聞こえる
【コメント】ビラ、全部置いてった
【コメント】お嬢、一枚だけ大事そうに拾ってる




